業因
ジョンとイヴァンが引き起こした干渉余波の衝撃は、旧大聖堂全体に及んだ。
螺旋階段を駆け上がっていたホロロは、不意の揺れに足元をとられて転倒しかけた。揺れが起こる直前に一階の方で大きな気配を感じていたことから、これがジョンたちの仕業だと憶測した。
ジョン教官とあの人は一体? いや、僕は行かなきゃ……。
面識があるように話していたジョンとイヴァンの関係性を気にして、思わず足が止まる。
その場で振り返ってしまいもしたが、それでも今はなすべきことを思い直したならば、ホロロはふたたび前を向いて走り出した。今さら引き返すことはできない。
螺旋階段の上側から流れ込んできている、覚えのある気配を辿っていく。
「こんなにも悲しい気持ちを、ずっと、ずっと一人で……」
凛とした波長をもつミュートのフォトン。それが帯びている負の感情が、一段一段と上がるたびに強まって感じられる――ホロロは自然と駆け足が速まる。
一刻も早く彼女に会わなければならない、そう強い焦りに駆られていた。一方的に感じるだけの今を、無意識に嫌がっていた。
螺旋階段を上り詰める。ホロロは最上階の広間に行き着いた。
その半ばに佇んでいた黒いドレス姿の少女に、ミュートに目を留める。
無表情に目を伏せて、猫背気味に両肩を落として、抜身の長剣を握って、それでいて微動だにしていない。その背後に、怪しい仮面をつけた隠密装束の男が立つことを許していた。
呼びかけても、そこには何一つ反応はなかった。
「お前、ミュートさんに何か……」
仮面の裏に隠された正体を知る由はなく、ホロロはウツロを睨みつけた。今がこうなってしまったすべての原因が、彼にあるのではないかと疑った。
そうであって欲しいと思った。
「違う。……違うよ、ホロロ」
どこかウツロをかばう調子で、ようやくミュートが反応を見せる。
彼女が首を振った意図がわからなかったホロロは、言葉を待つほかになかった。
「その様子だと、私が何をしたのか少しくらいは知っているのか? ……ギルヴィム=エデルタークという男を殺した。自分の意思で、確かな殺意を持って、この剣を使って」
ミュートの陰った瞳に、手元の長剣がぼんやりと映り込んだ。
「生きている。あの人は生きているよ。ミュートさんは誰も殺してなんかない」
「……生きている? 生きているのか?」
「きっとやり直せる……一緒に帰ろう?」
ギルヴィムの生存を伝えて、ホロロはミュートの説得を試みた。
戻らないでいる理由が、フォトンが悲しみを帯びている理由が、人を殺めた罪悪感にあるならば、この事実は彼女にとって瑣末ではないと考えていた。
しかし勘違いでしかなかったと、彼女の答えを聞いて思い知ることになる――まだ何一つとして、彼は実感が足りていなかった。
「生きているから、といって許されるのか?」
自嘲的に口元を緩めたミュートが、続けてその心中を吐露する。
「昔な、あの男に抱く憎しみから解放されようとしたことがあった。まるで自分には憎しみしかないような気がして、それで一生を終えると思うと怖くなった。剣を置いて年相応のことを色々やった。友人を作ろうとした。花を愛でた。裁縫をした。誰かを好きだと思い込んだ……でも、どんなことをしても、この胸の中から消えてくれなくてなぁ……もう、あの男を殺すしかないと思った」
明るく装ったような声は、端々が震えて聞こえた。
「……ミュートさん」
「子供ながら感じる世の中は平和そのものだ。どれだけ力をつけても、憎しみを晴らせる場所なんて一向に訪れそうにない。何もできない自分に苛立ちばかりが募って、誰かと関わればぶつけてしまいそうで、結局は独りで剣をとる道を選んだ……本当は誰かに慰めてもらいたかったくせに」
「もういいよ……もう、そんなの」
卑下する姿が見ていられず、呼びかける語気も強まる。
「養成学校に入って益々そうなった。まわりを見渡せば、誰もかれも、意味もなく剣を学ぼうとしていた。親しい者同士で笑みを見せ合って楽しそうに。自分が捨てたもので溢れかえっていた。雑念を振り払う思いで訓練に励んでも、肝心なものは何一つ学べなかった。自分より弱い騎士に何を学べと言っている――そうやって、いつの間にか自分は特別だと思い込んで、つけあがって……」
「やめてよ、ミュートさん!」
「私はこんな女だ!」
ホロロは怒鳴ったが、ミュートには怒鳴り返され、息巻かれた。
「この手であの男の息の根を止めて、楽になりたかっただけだ! お父さんやお母さんのためでも、ほかの誰のためでもない、自分のために! 何の意味もない、ただの殺人をやった! 君がもっとも戒めるそれを私は犯したんだ。一緒にいていいはずがないじゃないか……こんな自分が許せない」
次第に力を失っていった声は、やがて振り返るような口調に変わった。
「……あの日、私の家で言ってくれた言葉を、君は覚えているか?」
ホロロはその時を思い返した。
例の校舎裏の一件の最後に、不安げな顔をして震えていたミュートを見て、抱いた気持ちがある。
見舞いに訪れた邸宅で、それが何だったのかを問い質された時に、ありのまま告げようとして言った言葉がある――ホロロは一字一句を間違えずに、はっきりと覚えていた。
――もしも強くなれたなら、いつか君をそうさせる何かから、助けてあげられるのかな?
「この志のあり方に気づいたきっかけだから……忘れたことなんてない」
「正直こいつは何を言っているんだと思った。でも、どうしようもなく嬉しかった」
「……うん」
「君は本当に、すごい早さで強くなっていった。……いつかは本当に救ってもらえると、気がつけば期待をしていたんだ。でなければ、きっとこんな気持ちにはならない」
俯きがちだった顔を上げて、ミュートが苦しげに微笑む。
その身体に強力な煌気をまとい、激しく生命エネルギーを迸らせる。長剣を握り直して戦う構えをとる。そこには片手間で相手にできない、一筋縄とはいかない、そう感じさせる力が漲っている。
「こんなの嫌だよ。嫌だけど」
同程度の煌気を発動したホロロは、心ならずも月下美人を抜いた。邪魔にならない足元にその鞘を置くと、そっと半身になって四神方位の構えをとった。
現実の理不尽さに嘆くだけでは、もう何も変えられなかった。
「きっと今がその時なんだ……私たちが握っているものは真剣だ。あの時のような背伸びした子供の喧嘩では済まない。それだけの力が私たちには身についてしまっている」
「諦めたくないから」
「これ以外に、自分の気持ちの落としどころがわからないんだ。こんな私でも君たちの、君のそばにいていいのなら……信じさせてくれ」
「……必ず、君を連れて帰る」
2018年1月25日 全文改稿。




