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あほらし

 からからと荷車の車輪が近づいて来る音が聞こえる。大通りへと出るのを路地裏から伺っていたチエにとって丁度良い機会だ。あの荷車を引く者が来たと同時に、えいっと自分も大通りに出れば、少なくとも今ほど自分の姿が目立つ事は無いだろう。

 「うん。そうしよう」

 意思を強めるためにそう呟きながらチエは荷車が自分の前へと来るのを今か、今かと待っていた。

 家と家に挟まれたこの隙間道が、遊郭への道へと続いている事を知る者は意外と多くはない。少なくとも、この時間帯に町を歩く連中はほとんど知らないだろう。そう願いたい。そんな思いが、この滑稽なチエの行動に繋がっている。同僚や姉さん達には「あほらし」と小ばかにされるチエの行動は、一言にしてしまえば要するに自分が遊女と言う身分であると必死になって隠そうと言う物であった。

 半ば売られるようにして田舎から都会へとやって来たチエからすれば、自らの体を売ると言う行為は惨めさもあるが、何より恥ずかしいと言うか侮辱と言うか、少なくともこの事実を誰かに知られたいような物ではなかった。姉さん達に言わせれば、始めは誰もがそう思うのだと言う。

 「けども、そんな気持ちもすぐに無くなるさね。あたしらは生きるためにやってんだ。何を恥ずかしがる必要があるかね」

 どうどうと言い切る姉さん達をチエは何と哀れな存在と思うと同時に、少し羨ましいとも思うのだった。ああやって割り切り生きていれば、きっと今の自分のようにびくびくとする事はないのだろうと思う。しかし、チエにはそれが出来そうにない。それ故にこうして、荷車が通りかかるのを今か、今かと待っているのだ。

 荷車を引く男の姿が見えた。数瞬遅れて荷車も見えた時、チエはえいっと気持ちを決めて大通りへと飛び出した。お天道様の日差しが届かない路地裏と違い、大通りは強く差し込む光で眩しい。この暖かい光を全身で浴びる事は辛くもあり、嬉しくもあった。もっと、全身で受けていたかったが、変に立ち止まってしまってはせっかく荷車に合わせて出てきたのが意味も無くなる。チエは済ました顔をして荷車と同じ方向に歩き出した。

 道行く人々は誰も不意に大通りに現れたチエの事を気にする様子も無かった。


 荷車とは頃合を見て別れた。荷車引きの男は道の途中で加わったチエに何も感じていないどころか、その存在にも気づいていないようで、チエがその傍を離れても出会った時と同じく車の重さに息をうんうんと漏らしながら歩いていってしまった。

 さて、買い物をせねば。そんな事を考えながらチエは顔なじみの店へと向かう。いずれもこの町に来た時にチエ自身が探し当てた店で、いずれも遊女であるチエの事を少しも軽蔑しないと判断したために通い続けている。姉さん達に言わせれば、あたし等も店の親父もそんな事など気にしてないと言うが、やはりチエはなるべく馬鹿にされる危険の無い店を選びたかった。

 とは言え、この町に来て以来様々な店に入ったが、チエが恐れるような『遊女である事を一瞬で見抜かれて、大声で馬鹿にされて店から追い出される』なんて店は一度も遭遇した事がないし、よくよく考えてみれば『馬鹿にされる』まではあり得ても、そのまま追い出されると言うのは絶対に無いと思えた。そもそも『馬鹿にされる』自体にしたって、ほとんど絶対と言うほどありえないだろう。

 結局の所、姉さん達が正しいのだ。この町に来て、半年を過ぎチエも色々と理解出来る。なれば、大通りを歩く遊女にしたって、誰も気にしないと言う姉さん達の言も正しいのではと薄々思っているが、まだそこまでする勇気はない。

 どちらにせよ、顔なじみの店主が時折、おまけをくれるこの店を探し当てたのは幸運であったと思うばかりだった。


 買い物を済まして家へと帰る途中、ふと一人の男に目が奪われる。

まったくの偶然とも思う。一目を気にして真っ直ぐ前を見て歩かなかった故に彼に気がつき、そんな彼に見覚えがあったために目が留まり、そして半年をこの場所で過ごしていたために、チエは彼の方へと足を向けたのだ。

 男は一人で橋の上でうな垂れており、時折誰かの名前を呟きながら両手で頭をがしがしと掻き毟っていた。おそらくは随分と長い間、その行為を繰り返していたのだろう。彼の髪の毛はぐちゃぐちゃに絡まっていた。そんな髪の毛と一目で普通ではないと分かるほど服が乱れているために、道行く人は誰も彼の事に気をかけない。

 「あら、あんた」

 自然と口から出た一声は自分でも驚くほど高めの声だった。地声ではこんな声は出せぬ。まして、遊郭の外であるならばこんな声を出す必要も無かった。自らが遊女と言う事をひた隠しにしたかっただけに、チエ自身もこのように店で使うような口調になってしまった事に驚いていた。

 しかし、男の気を引くと言う意味ではぴったりだった。彼は振り向いてチエを見る。

 「ああ、あんたか」

 男が無感情と言った風に呟くとチエから視線を外して、また橋の下の川を見るともなく、うな垂れてしまった。

 無論、チエはこの男の事を知っていた。以前、何度か相手をした事がある客の一人で、その時は機嫌が悪いのか妙に元気がなかった。自ら話してくることはほとんどなかく、かと言ってこちらから声をかけても、申し訳程度に相槌を打つばかりの暗い男だった。体を売る所まで行った事が無い、チエからすれば楽な相手として何となしに記憶に残っていたに過ぎない。

 おそらく、普段であればこの男を見かけたとしても、チエは彼だと気づく事無く通り過ぎてしまっただろう。しかしながら、今日はどうにも彼の事が思い出されると言うか、彼の事が気になってしまったのだ。

 勿論、これには理由がある。

 それは、つい一週間ほど前に姉さんの一人が川に身を投げて死んでしまったからだ。チエ自身も可愛がってもらった事のある先輩の一人で悪い印象は持っていなかった。この男はあの姉さんの常連だった。

 「今更川を見つめてどうすんね」

 ぽつりと言ってチエは男の隣に立った。追い払われるかと思ったが、意外にも男は何も言ってこず、かと言って鬱陶しそうな素振りを見せる事も無かった。おそらくは話し相手を求めていたのだろうとチエは察した。

 「姉さんの事を後悔してるん?」

 ずけずけと言葉を投げつけながら、チエは尋ねる順番が逆だった事に気づき、やはり慣れぬ物はすべきでないと、この男に近づいた事を早くも後悔し始めていた。何も言わねばそのまま立ち去ろうかと思ったが、男は独り言のように口を開いた。

 「水をたらふく飲んで死んだと聞いた」

 「そら、川に飛び込めばそうなるわ。にしても、こんな浅い川にねぇ」

 チエは言いつつ川を見下ろしたが、底の方はここからでも辛うじて見える。聞いた所によれば、あの姉さんは自分の衣服に石を山ほど詰めていたと言う。確実に死ぬための配慮とも思えたが、自らそこまでする事にチエは話を聞いた時衝撃を受けた物だった。

 「姉さん。苦しんでいたんだ。俺はよく話を聞かされていたから分かる」

 言い切ると彼は橋に乗せた両腕の中に顔をぐいっと埋めた。肩が震えており、彼が泣いているのは聞かなくとも分かった。チエはため息をついて、その背を撫でてやろうかと少し迷ったが、そこまでする事もないかと思い押し留まった。必要以上は働くな。皮肉にもそれが死んだあの姉さんから聞いた一番始めの仕事のコツと言う奴だった。

 「姉さん。いつも苦しんでたんだ。俺はいつも聞いてたんだ。家族のために仕方ないって。だけど、いつも苦しくて仕方ないって泣いてたんだ」

 肩を震わせて泣く男を見ながら、チエは姉さんが言っていた言葉を思い出していた。

 『不幸ってのは武器になる。何せ、自分のそれを思い返して惨めな気持ちになりゃ、いつだって自然と涙が沸いてくるからね。そんで、その涙を花の蜜のように使ってやりゃ、間抜けな虫が寄ってくるってもんよ』

 姉さんの言うように涙と言う物は花の蜜のような物だ。それを見せるだけで、男らは自分の本心に触れてくれると勘違いするし、逆にこちらから流して見せれば、彼らはこの女は自分に本心を見せてくれていると勘違いする。交渉の道具としてこれほど簡単に出せて、そして使っていける道具はあまり存在しない。

 「俺。姉さんを救ってやりたかった。だけど、そのためには金が少なすぎたんだ」

 男の一人語りは続く。それに適時「うん、うん」と相槌を打ってやりながら、チエは自分がこの男をどうしたいのか悩んでいた。ふと見知った男が居ると思い、近づいてみたらこの様だ。下手に近づくから絡めとられる、なんて姉さんの笑い声が聞こえてきそうだ。

 「姉さん。八人兄弟の一番上だったかんねぇ。そら、自分が稼がなって思うわな」

 「ああ。だから、こんな望まねえ仕事だって無理してやってたんだ。俺は毎回聞いていたからよく知ってる」

 本気で姉さんを救いたいと思っていたのなら、その金を少しでも姉さんにやりゃ良かったのに、何てチエは思った。それなのに、この男と来たら手当てを貰えばいの一番に姉さんの下へとやってきて、楽しげに会話し一晩を過ごしていた。チエが見ていた限りでも、その生活は半年続いていたし、他の姉さんの話によればもう二年は前からあんな状態なんだと言う。

 『分かりやすい貢ぎ屋さんやね』

 そう言って皆で笑っていたのを思い出して、今も泣き続けているこの男を哀れに思うと同時に、まぁ、ここまで単純であれば確保するのも楽だろうと思ってしまっていた。姉さん達によれば、こう言う輩には情が移らぬように注意しなければならんと言う。その内、放っておけないようになって、自分から世話を焼きたくなるからだ。

 「何で、俺に相談する前に死んじまったんだ」

 男はチエの考えている事など気にもせず泣き続けている。

 そら、あんたには相談するつもりがなかったんやろ。などと言えるはずもなく、チエは適当に「そうねぇ」と調子を合わせていた。男の言葉は際限なく続いていったが、要約すれば姉さんを救えなかった自分が憎いと言う物に落ち着いていった。

 あほらし。

 思わず心の中で呟いた。

 この男が言う姉さんは姉さんの真実ではない。勿論、チエの知る姉さんが真実であったなど言うつもりはないが、少なくともチエ達、遊女は姉さんの別の面を知っている。例えば、彼女には貢ぎ屋が何人も居た事や、彼女は八人兄弟の一番上ではあったが家族との関係は悪く、地元には友人に会う以外には帰らない事、そして彼女が死んだのは一人の貢ぎ屋に姉さんの方から真剣になって迫り、そのまま振られて死んだと言うこと。

 そのいずれも知らずに、演技の部分だけの姉さんを想いこうして真剣に悩んでいるこの男があほらしくて仕方なかった。

 「あほらし」

 際限なく続く言葉を打ち切るようにチエは言った。男は驚いたような表情でチエを見返した。その反応の速さにチエは彼が本気で悩んでいないと言う事を悟った。いや、彼は真剣に悔いているのだろうが、彼は結局自分が可愛そうだから泣いているのだとチエには分かる。

 「あんたなぁ。多分、遊び女を抱く事に向いとらんよ」

 「は?」

 睨みつける男の視線をチエはあっさりと受け止められた。

 「あんた、知らんやろうけど、姉さんはな、あんたの思っているような女じゃないで」

 男はぐぃっとこちらを睨みつけてきたが、チエは彼が自分に手を出してこない事を半ば確信していたので、あまり怖くは感じなかった。

 姉さんらの言う通りだ。自分の不幸に酔う者は、そのうま味を崩さぬために不幸に浸り続けていたくて仕方ないのだ。ここでチエを怒鳴ったり、殴ったりすれば、彼は忽ちその不幸に浸り続けるのは出来なくなる。だからこそ、手を出してこない。睨むに留めて置けば、不幸な自分に絡む分けの分からぬ女に翻弄される自分で居られる。

 「あほらし。あんた、田舎にかえんな」 

 「あほか。俺が村に帰れば、仕送りを当てにしてる家族が死ぬだろうが」

 「そんな弱いんか、あんたの家族は」

 言ってチエはけらけらと笑って見せた。

 「何や、あんたの家族は雛か何かかいな」

 言い過ぎたかと思ったが、彼は怒っていなかった。しかし、その視線から自分の不幸を味わうのを止めたとはっきり分かるほど力強い物が感じられる。自分の背に冷たい汗が流れたのをチエは感じずにはいられなかった。一歩引かなければならない。ここで言葉を誤れば殴られる事も覚悟せねばと思い直す。

 「にしても、あんた、綺麗すぎるんや」

 「綺麗過ぎる?」

 「うん。純粋って言い直してもええ。例えば、この鬱陶しい馬鹿女だって、客の前なら涙の一つや二つ流してみせるかんな」

 「お前の涙にゃ、騙されん。そもそもだ。姉さんの涙は本物だった」

 「あほらし。そりゃ、これから騙す言うて、騙そうとする女がいるかいな」

 もう一度笑って見せると、男の方も「そりゃそうだ」と苦笑いをした後、少しだけ寂しそうな表情でチエへと尋ねた。

 「そんで、姉さんもお前と同じような女だったと言うんかい?」

 「ああ。少なくともあたしが知る姉さんは、あたしと大差無い性格だと思ったよ」

 「へえ、そうかい」

 男は再びチケから視線を外し、また俯いて川を眺め始めたが、今度は髪の毛をぐしゃぐしゃにする事はなかった。眉をしかめてみたり、かと思えば涙が浮かんだ目を擦ってみたりと、何とも複雑な面持ちで川下を見つめるばかりだった。

 頃合だと感じたチエはぽんっと男の肩を一つ叩いてやった。

 「悪い事は言わん。あんた、田舎に帰ってそこで純粋な女を嫁に貰いな。きっと、そう言うんがあんたに相応しい暮らし、いや相手って言うんだとあたしゃ思うよ」

 男はふぅっとため息をついた。目には涙が浮かんでいる。

 「そんでも、俺は姉さんを救えなかったと悩み続けるさ」

 独り言のように男が言うのでチエは呆れて言葉を漏らした。

 「あほらし。そんなに不幸の酒を飲みたいんかい」

 「何とでも言え」

 「うん。なら、何とでも言ってやるわ。あんたは田舎に帰るべきだ。はい、これでおしまい。鬱陶しい女は帰ります」

 思いの外べらべらと喋ってしまった事を自分でも驚きながらチエは橋と、男の傍から離れた。胸の音が外に聞こえるのではないかと思うほど強く鳴っている。自らが遊女であることをひた隠しにして生きていこうとしていた、先ほどまでの自分と何がここまで違うのだろうか? そんな事を考えながら早足で歩いていると後ろの男が「おいっ」とチエの背中に声をかけてきた。

 「ん?」

 振り返って見せると男がこちらを見ながら軽く礼を言ってくる。

 「ありがとう」

 「いいえ。くよくよしなさんなって」

 「あんた。名前は?」

 なるほど。とチエは小さく納得する。今、遊女である事が恥ずかしくないのは、この男のために時間を使ってやったからだ。確かにお天道様の下をどうどうと歩ける身分では無いかも知れんが、ああして、あの男に元気をやったのは遊女なんだと言う事実が、今のチエの気持ちに繋がっているのだろう。

 「廓のハナ。田舎に帰らんでここに残るなら、たまには遊びにおいで。姉さんの代わりになってやってもいい」

 「馬鹿が。誰がいくか」

 男の言葉を背で受けて、答えついでにけらけらと笑った。

 お天道様の日差しの下、チエは堂々と歩き続けた。


〈了〉

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