第二回 六月二日 蒼たんとミッツーと思い出と
全ては六月二日の放課後に起こった。
この日、朝から降っていた雨はお昼前には止み、私はこれなら微妙に鞄が濡れなくて済むと
か靴が泥で汚れなくて良いと期待していた。
私には時々あるのだけれど、気が向いて図書室にぶらりと立ち寄る事がある。この日も気が
向いて、放課後に図書室へ向かい、新刊でどんなのが入ったのか見るだけ見てすぐに出た。
本を読もうという気は無いのだけど、何故か本屋さんとか、学校の図書室に時たま入ってみ
たくなる。多分普段の私の居る環境とは違う空気に触れてみたくなるのだろう。
そんな感じで他の生徒よりも遅れて校庭に出ると日陰になっている以外の地面はすっかり乾
いていて、予想の通りになったと喜んだ。
(傘とか差して歩くのめんどうだもんね)
余計な物を持たずに歩き出すと、年甲斐も無くはしゃぐ男子達の声が耳に入り、これはと思
って視線をそちらへと向けた。
そこには二人の男子が傘を剣に見立てて剣道ごっこ? をやっていて、それをもう一人の男子
が見ていた。
見ている男子の背中に胸がときめく。
(あ、ミッツーだ……)
後姿しか見えていなかったけれど、私にはすぐに分かった。見間違えるはずが無いくらい彼
を見ていたから。
ミッツーとの出会いは今年の四月、入学式の日。学校に着いた私は、不慣れで知り合いの居
ない環境に不安で押し潰されそうになっていた。
学校に着いて早々だけれど、こんな気持ちのままじゃクラス割り当てを見る前に倒れかねな
いと考えた私は、気持ちを切り替えようと学校のトイレへと行き、気持ちを落ち着かせる事に
した。
そうして十分に気持ちが落ち着いてトイレを出た時の事。
「ガオォー!! ってきたんだよ」
と何者かの雄叫びに重なるタイミングでトイレから出てしまった私は、ビックリするあまり
尻餅をついた。
「悪い悪い。驚かすつもりじゃ無かったんだ」
そう言って私に手を差し伸べてくれたのは雄叫びを上げた男の子だった。
私も何か言わなくちゃと混乱する頭で考え、とりあえず謝らなくちゃという考えが浮かんだ。
「えっとね、私も悪い所で出てきちゃったみたいで、ごめんね。心配させたみたいで」
心臓がバクバクしていて、混乱が収まらないままの私はこの時、何も考えずに普通に彼の手
を掴んだ。
そうしたらその男の子は簡単に私の手を引っ張り、いとも簡単に引っ張り起こしてくれたの
だ。
これまでの人生の中で、こんな場面を経験した事が一度も無かった私は、混乱が更に加速し、
心臓の鼓動も早くなりすぎて、もう口から出ちゃいそうな感じになっていた。
だって、こういう場面の直接見た事も無ければ、男の子がこんなに力強いなんて知る経験も
無かったんだから。本当に空想上の場面としか思っていなかったのに、私が当事者になるだな
んて……。
起こされた私は、初めて会った人とは何を話せば良いんだっけと考えた。この時、何をどう
考えたのか記憶に全然残っていない。日本語で考えていたのか、それともどこかの星の宇宙語
を受信して考えていたのか。
まあとにかく私は私の頭で色々と考えたんだろう。でもその結果はあまりにもシンプルで、
普段の私ならそこまで頭をフル回転させる必要も無い答えだった。
「えっと、私、律子です。清澄律子は私です」
「ぷぷっ。清澄さんね。俺は旗本光弘。知り合いからはミッツーって呼ばれてる。清澄さんも
そう呼んでくれていいよ」
多分、起こされた次に言葉がいきなりの自己紹介だったからだろう。
彼は笑いを堪えきれず、噴出しながらの名乗ってくれた。
この時ミッツーに笑われた!! という恥よりも受けた!! という喜びの気持ちが強く、
私は喜んでいた。まあその後で、家に帰ってお風呂で気持ちが落ち着いた所でこの出来事を思
い出して恥ずかしさが爆発したけれど、それは別の話。
「うん、よろしくねミッツー」
ここでチャイムが鳴り、直後に新入生向けに式前のホームルームがあるというアナウンスが
流れた。
「お、んじゃまたな。一緒のクラスだと良いな」
「うん、そうだね」
私はひらひらと手を振って彼が行くのを見送った。
(ミッツーかぁ。なんか楽しそうな人だったな……)
新たな出会いに期待が持てた所で、私自身も急ぐ身だというのを思い出して、急いで教室毎
に貼りだされていたクラス名簿から名前を探した。名前の在った教室に入ると、そこには知り
合ったばかりのミッツーが居て、凄くホッとしたのを覚えている。
これがミッツーと私との出会い。
なんかこの時に他にも大切な事があったような気がするけど、この出会いの方が大きすぎて
すっかり頭から抜け落ちてしまっている。だけど、細かい事は全然気にしない。思い出せない
って事は大した事じゃないんだろうし。
それだけ彼との出会いは衝撃的で印象的だったんだと思う。
だって、この日の事が無かったら、私はミッツーをただの高校生なのに幼い感じがする男子と
してしか認識してなかったと思うから。
子供っぽい所を可愛いって思ったり、気がつけばミッツーを目で追っていたり、彼の声を耳
がよく拾うなんて事も無かったと思う。だから恋の始まりの日だって事だけ覚えていれば問題
無いと結論付けた。
こんな経緯から、私は後姿だけで彼がミッツーだと分かった。
(男子と遊んでるから、話しかけない方が良いよね?)
彼が一人で居たなら私は勇気を出して声をかけていたと思う。だって今話して、他の男子に茶
化されたりしたらミッツーが困るのは嫌だから。私はそのまま素通りしようと決めて通り過ぎ
ようと歩く速度を速めた。
「ふっふっふ、俺の秘剣の餌食となれいぃっ!!」
他の男子が遊んでいるのを見て、ミッツーはうずうずしていたみたいで、叫んだ。
私はこれを聞いて、また子どもっぽいなぁとほっこりしながら通りすぎようとしていたのだ
けれど、突然左の脛に何か分からない物体が突撃してきた。
「い……ったぁぁぁぁい!!」
私を襲った激痛に耐え切れず、しゃがみ込むとそれを聞いて遊んでいた男子達が駆けて来た。
「清澄さん、どうしたんだ? 何があった?」
「分かんない。分かんないけどぶつかってきたの」
ミッツーの呼びかけに説明になっていない説明をする私。
「おいミッツー。これ、お前の傘じゃね?」
悶絶していると、男子達の会話が耳に入り、そっちを見てみると男子の一人が太い棒っぽい
物を持っていた。
「俺の傘って、何言ってんだよ。俺のはちゃんとこうして伸びてここに――」
ミッツーの言葉が何故か詰まる。どうしたんだろうと視線を移すと、彼の手に握られていた
折り畳み傘がおかしい。本来畳まれて、纏められて付いているはずの広がる部分が消えてしま
っている。
これを踏まえて先程の棒っぽい物をもう一度見ると、折り畳み傘の広がる部分と分かった。
そういえば、さっきのミッツーの言葉の後に、何かを伸ばすような音を聞いた気がする。ど
うやら折り畳み傘を伸ばそうとして思いっきり振りぬいたら、固定する金具の部分が耐えられ
なくて先っぽの方がすっ飛んだみたい。
すっ飛んだ部分は私の左脛に当たって、私は今悶絶しているという流れだと推測できた。
この推測にはミッツーも辿り着いたみたいで
「悪い、清澄さん。今保健室に運ぶから」
と私の怪我の対応に動き出した。
でも運ぶってどうするのだろうと疑問に思う私。次の瞬間、ミッツーは私をお姫様抱っこし
て走り出していた。
(ヤダ、私お姫様みたい。でも誰かに見られたら恥ずかしいな……)
学校で噂になったらどうしようとも考えていたけれど、空が曇り空だった事と、下校時間が
他の生徒達はとずれていた事もあり、人に出くわす事はなかった。
「先生、足の手当てお願いします!!」
足で強引に扉を開けたミッツーの焦りに満ちた声が保健室に虚しく響く。
「先生居ないみたいだね」
「なら勝手に手当てさせてもらうさ」
急いでいるから仕方ないと、彼は一先ず私を長椅子に下ろした。そして棚から消毒液や包帯
といった手当てに必要そうな物を抱えると、床に膝を着き、私の足に向かい合った。
「ちょ、ミッツー!?」
「大丈夫。この手の手当ては慣れてるから」
違うの、そうじゃないのと言う前に、彼が私の左足を持ち上げた。
ミッツーは私の脛の様子を気にしてそれどころじゃなくなっていたけれど、私は中が見えな
いように、慌てて必死にスカートを抑え続けた。
「血は出てないみたいだけど、内出血してるかもしれないな。腫れたら大変だし、とりあえず
冷すぞ」
そう言って今度はアイシングパックを探して、冷蔵庫から氷を貰って、水道水を入れると、
患部に当ててくれた。
「どう? 冷たすぎたりするか?」
「ううん。平気」
なんかここまで尽くしてもらえた事に幸せを感じていると、彼は私にアイシングパックを手
渡して立ち上がった。
「じゃあ先生来るまで冷やしといて。俺、先生探してくるから」
「あ、うん。ミッツー、ありがとね」
保健室を出ようとしていた彼を呼びとめると私はお礼を言った。その手際の良さとシチュエ
ーションに呆気にとられていたけど、手当てのお礼を言えて良かった。
「気にするなって。俺が傘飛ばしちまったのが原因なんだからさ」
悪いのは全部自分だからと、ミッツーは保健の先生を探しに部屋を出て行った。
「逞しかったなぁ、ミッツー」
一人になった私は、彼のカッコイイ所を思い出して、ちょっと顔が熱くなった。
十分くらい脛を冷やし続けていると、ミッツーが保健の先生を連れて戻ってきた。
改めて先生に診てもらうと
「打撲みたいだけど、どうしてこんな事なったの?」
尋ねられたのでミッツーが事情説明をしてくれた。
理由を聞いた先生は呆れると同時にミッツーは叱った。けど、手当ての手際の良さは感心し、
褒めていた。
「昔よく簡単な怪我の手当てをさせられてたから」
叱られ、褒められ、反応に困りながら彼は話していた。
「それで清澄さん、家の人に事情を話して迎えに来てもらうか、タクシー呼ぶ? 氷嚢は貸し
出せるけど、歩くのは大変でしょ?」
試しに左足に体重をかけてみると、ぶつけてからずっと赤くなっている辺りからモワンとし
た痛みだったのが、体重をかけた途端、ズキリと縦に走るような痛みが走った。
私は二つの選択肢からどれを選ぼうかと考えた。
(これじゃあ歩いて帰るのは無理っぽい)
迎えに来てもらうのは時間がかかって大変だろうし、ここはタクシーかなと思って、そう言
おうとしたら
「俺、清澄さんの家まで付き添います。俺の責任だし」
想定外の選択肢が彼の口から飛び出した。
(はっ、これはミッツーと仲良くなれるチャンスかも!!)
歩く速度が三倍くらい遅くなっている今、これは願っても無いチャンスだ。家までという事
だし、十分すぎるほどお話をしてお互いの事を知れる良い機会だと心の中でお盆に行われてい
る市民祭りぐらいの騒ぎが起こっていた。
「私、ミッツーに付き添われて帰ります!!」
これはもう断る理由は無いと、即答する私。
「そ、それで良いの? 清澄さん」
私の勢いある答えに若干吹き出し気味に再度確認する先生。
「大丈夫です。歩いて帰れますから!!!」
親もタクシーにも私の幸せタイムの邪魔はさせないとばかりに力強く宣言。
「分かった、分かったわ。それじゃあ男子である君に、彼女の事を任せるから。でも、もしダ
メそうなら彼女の家の人か、タクシーを呼ぶようにね。それと後でちゃんと病院で見てもらっ
た方が良いわね。ヒビが入っているといけないから」
「はい。ちゃんと清澄さんを家まで無事に送り届けます」
「分かりました。ありがとうございます」
先生にお礼を言う傍らで、必ずやってやりますともと意気込むミッツーに頼もしさを感じる
と同時に小さな子どもが奮起しているように感じて、彼を可愛いと思った。
こうしてミッツーはこの日一緒に帰るはずだった二人から、私と自分の鞄を受け取ると、私
の左側に寄り添い、二人きりの下校が始まった。
んだけど、実際に二人っきりになると、普段話す時みたいにちゃんと話せず、何を言ったら
良いのかも分からず、頭の中はどうしたら良いのか分からなくて沸騰状態になった。
「清澄さんの家って、ここから遠いのか? ちゃんと家の人に謝らないとな。途中で何か買っ
た方が良いかな?」
どうやら沸騰状態だったのはミッツーも同じみたいで、急に大人みたいな謝り方をした方が
良いかと相談された。
「そんな、そこまでしなくて良いよ。それに私の親はなんていうかその……。あれ、あれなの。
ちょっと今家に居ないから、そういうのは気にしなくて良いって言う感じなの」
ああ、すっかり忘れていた。家まで送るという事はお母さんと鉢合わせしちゃうかもしれな
いんだ。
男の子と訳ありになったなんて聞いた日にはどんな事を言い出すか分かったもんじゃないと
焦り、私は嘘を言った。この時間帯ならお母さんはソファーに寝転がりながら再放送の笑満開
という芸人のネタ見せ番組を見ている頃だ。
確実に予想できるのは、おばさん特有のおせっかいで彼を引かせるという事だけ。
もしお母さんがおばさん全開で彼を質問攻めにしちゃったら、絶対にもう、彼は私から距離
を置くに決まってる。
「清澄のおばさんちょーうるせーの。質問攻めしてきてよ、ありゃねーよ」
なんて言われて、学校中に広まっちゃったらもう私、お嫁に行けない!!
「そうか、家に人が居ないんだったら、家の中に入るまで手伝った方が良いか?」
(家 の 中 に 入 る!?)
そんな事をされたら、可能性は100%になっちゃうじゃないと、私の脳天にズバンボンと雷
が轟音と共に落ちてきた。
「いやいやいや、それは大丈夫。そこまで気にしなくて大丈夫だから」
彼は嫌いじゃない。寧ろ大好きで、上がってもらうのはウエルカムだけど、両手をブンブン
振って否定せざるおえない。
「別にそんなに強く拒否しなくても良いと思うけど。……ああ、悪い悪い。そういうの全然考
えて無かったわ。女同士じゃない、ただのクラスメイトをいきなり家に上げるのは抵抗がある
んだよな」
ちょっとショックを受けたような感じになったミッツーだけど、少し間が開いた後に、自分
の認識がずれていたんだという感じで納得して謝られてしまった。
「そ、そういうんじゃないんだけど、ごめんね」
私は心の中で「ただのじゃない。特別なクラスメイトだよ!!」と何度も叫んだ。
勢い余ってあなたが好きだと叫びたかったけれど、それこそ出会って二ヶ月くらいでなのに
その速攻は無茶無謀がすぎるのと、緊急ブレーキよりも利きの良い私の自制芯が気持ちを圧し
止めた。
そこからはまた話をし辛い空気が漂い出して、せっかくのチャンスなのに時間だけが消耗さ
れ続けた。けどこのままではいけない、状況を打開しなくちゃと私は奮起した。
「ミッツーってさ、先生も言ってたけど手当て上手だったよね。周りにそんなにやんちゃな子
が居たの?」
二人の共通の話題から相手を知ろうという作戦。これが想いの他手応えがあった。
「居た居た。男勝り? 男らしい? まあそんな感じの奴だね。あんまり言うと後が怖いから
詳しくは言えないけど、凄かったんだぜ。その日出会った奴とも泥だらけで遊んだりさ。まあ
そんな感じでけっこう近所の友達と遊びまわったからさ、人の家に行く時に男だ女だとかそう
いうのあんまり気にならないんだよ。だからさっきはついついな」
彼から感じる接しやすさは、その手のかかる友達によって培われたのかもしれない。
(彼の魅力を引き出した子に感謝だなぁ。それにしてもああ、小さい頃のミッツー、見てみた
かったなぁ)
私は今の彼の縮尺を小さくし、幼い頃の姿を想像し、心をほんわかさせた。
「あとさ、明日清澄さんの家に寄って良いかな?」
「え!?」
突然の申し出にどこから出したのか分からない声が飛び出す。
(な、なんで!? まさか一生責任取りますとか言って幸せロードを驀進するの?)
「怪我の具合が気になるからさ。もし明日学校に行けるんなら、そのまま一緒に行かない? 鞄
なら俺が持つし、清澄さんは歩く事だけに集中してればいいからさ」
またと無い誘いが嬉しくてたまらない。今日は私の幸福日かもしれない。
「ミッツー、ありがとね」
今なら彼の心遣いにご飯を何杯でも食べられる。なんなら今の言葉だけで地球だって二周は
してみせる。それくらい私の心は今、最高にキュンキュンしていた。
「気にするなって。怪我させちゃったのは俺だし。それでさ、行っても問題無い時間教えてく
れない? その時間に家に行くようにするからさ」
私はそう言われて、いつも家を出る時間を彼に伝えた。
それから私は舞い上がって、向かっている最中だというのに最寄駅や家までの道順を、何を
そんなにと思うくらい必死に説明した。
そして家の前で彼と別れると、お母さんに事情を説明してすぐに病院に向かった。
結果は強打による打撲で、骨に異常は無いらしい。
良かったと心配事が減った反面、私の心が残された問題にドキドキワクワクして、期待が急
速に膨れていくのを実感していた。
家に帰ってからは、もう怪我の事よりも、明日ミッツーが迎えに来てくれるというので頭が
一杯で、何にも手に付かない状態になっていた。
けど、寝るためにベッドに入ったら、それまでの期待がどこに行ったの? というくらい不
安が押し寄せてきた。
寝癖が直らなかったらどうしよう。寝坊して急いで支度をして酷い格好の自分を見られたら
どうしよう。お母さんに彼を見られたらどうしよう。途中の会話で彼をがっかりさせないよう
に出来るかな。笑える話出来るかな。明日雨が降ってて相合傘とかしちゃったりしたらどうし
よう等の困り事が後から後から出てきて眠れなくなってしまった。
こうして悶々としている内に私は気づいたら六月三日の朝を向かえていた。