第一回 六月三日 憂鬱な曇り
一度に投稿するには長いので分けています。
六月三日、曇り。
目を閉じて、寝よう寝ようベッドに横になり続けていたら、目覚まし時計が鳴りだした。
(何で? 時間を間違えたの? それとも壊れた?)
その音に驚きつつ、暗闇に慣れた目を擦りつつ時計を見た。
(絶対おかしい。まだ二時間くらいしか経ってないはずだもん)
設定間違いか、故障のどちらかだと信じて疑わない私は、改めて時計の時刻を見て、カーテ
ンを捲り、外の様子を窺った。
曇りだから暗めではあるけど、曇り続きの最近の朝の空と特に変わりは無い。
感覚だけで判断していては埒が明かないと考えた私は、次に携帯電話を手に取り、時刻を見
る事にした。始めからこうしていれば良かったと思いつつ、携帯電話の時刻を見てみると
(時計と同じだわ)
私はここで自分も気付かぬ間に眠っていたのだとようやく理解した。
昨日からの悩みというか緊張で、ベッドの中で随分と悩んでいたのは覚えてる。
でもまさか、電気のスイッチを切り替えるようにパタンと眠っていて、切り替えるように目
を覚ますとは思わなかった。
寝るも起きるもあまりに一瞬の出来事で、私は動揺していた。
(眠くは無いなぁ……)
こんなに暗かったらもう一度寝ようと、何時もの私なら考えていただろう。
加えて今日は睡眠時間は圧倒的に不十分なのは分かっていたし、日光を遮られて部屋もどん
よりとした暗さで包まれているから。うん、間違いなく二度寝パターン。
なのに今日は不思議と眠気を感じない。
きっとこれから起こる事のせいで早々に頭が覚醒して眠気が吹き飛んでいるからだと思う。
「律子、起きてるー?」
普段なら部屋を出ている時間なのに、出て来ないのを心配したお母さんの私を呼ぶ声が聞こ
えてきた。
「起きてるよー」
返事を私は、掛け布団を捲り、上体を起こす勢いを利用して、体を横へと移動させ、床にゆ
っくりと両足を置いた。
「イタッ」
左の脛に痛みが走って、自然に声が出た。
「やっぱり夢じゃないよね」
昨日私は色々あって脛をぶつけていた。
ぶつけた脛は赤から蒼へと変色している。
見た目だけは痛そうだけど、家に帰ってから冷していたから、痛みの度合いで言えば昨日ほ
ど酷くは無い。
これなら慎重にいけば歩けるかもしれないと右足だけで立ち上がり、次にそっと左足を置い
て体重を乗せてみた。
気を使ってゆっくりと徐々に体重を乗せ、大丈夫なんじゃないかという期待が生まれ始めた
ところで、その期待は打ち砕かれた。
両方の足で立つ分には大丈夫なのだけど、進むために左足に全体重が載ってしまうと途端に
に痛みが走る。
だったらと左足への負担が最小限になるようにすればと試してみるも、痛みの軽減には繋が
ったけれど、痛みのせいでどうしても歩き方がぎこちなくなってしまう。
(これは駄目かな……? ううん、大丈夫。絶対学校に行くんだから!!)
くじけるもんかと色々試してみた結果、引きずる形で歩く方法が一番負担が少ないと分かっ
た。
「お母さんおはよう」
何時もよりも何倍も遅く歩いて居間にやって来た。
「おはよう。足の方は大丈夫なの? 学校休んでもう一回病院行く?」
「大丈夫。ちょっと強くぶつけちゃって、蒼たんになっちゃってるけど。それに折れて無いっ
て先生も言ってたでしょ」
お母さんは本当に大丈夫? と確認したそうな顔をしていたけど、言われる前に私が椅子に
座り、テーブルに用意された朝食を食べ始めると心配そうな顔をしながらもコーヒーを出して
くれた。
「ありがと、お母さん」
コーヒーを飲みつつ壁掛け時計に目を向けると、考えていたよりも時間が進んでいた。
想像よりも痛みで歩く速度が落ちているから、学校までの移動時間に不安が生まれていた。
それと同時に、もうすぐ来るはずのお迎えの事を考えるとちょっと急がないといけない。
早く支度を終えなくちゃと、自然と食べるのも早くなった。
「律、もっとゆっくり食べなさい。喉詰まるよ」
「分かってるけど、急ぐから」
「何、何かあるの?」
「あるのっ」
普段ならもう少しゆっくり朝は食べるけど、今日はお迎えが来る。
念入りに身だしなみをちゃんとして、おかしな所が無いようにしないといけないんだから。
「ごちそうさま。ごめん、食器置いとくね」
普段なら片付ける食器をお母さんに任せ、足を引きずりつつ、洗面所へ急ぐ。
「顔洗って目ヤニ無し、寝癖無し、涎の跡無し。後は歯を磨けば――」
歯ブラシを銜えた所で、家の呼び鈴が鳴った。
「はいはーい。どちら様でしょ」
出ようとするお母さんの声に焦る私。
今は左脛が痛いから走れないなんて言ってられない。この呼び鈴の相手をお母さんに会わせ
てはいけないのだから。
「まっへおはーさん!!」
歯ブラシや歯磨き粉が口から飛び出しそうになりながら、靴を履きかけていたお母さんを呼
び止める。
「律子、歯ブラシ銜えて走るなんて危ないわ」
「分かった。分かったから。ほら、歯ブラシも抜いたから。お客さんも私が出るから。だから
お母さんは戻ってて」
「そう? じゃあお願いね」
私の慌てた様子に不思議がるお母さんを家の中へと押し戻すと、すぐに外へ出た。
一応、これで不安要素は回避出来たはず。
「いらっしゃい。あの、ちょっと待ってて」
外で待っていたのは私のクラスメイト。ちょっと赤みがかったショートヘアで、身長は165
センチと、クラスの中ではまだ背が小さめな男子。男友達と一緒にいる時は、小学生みたいな
行動をする子どもっぽい所がある。
名前は旗本光弘君。
クラスの皆からはミッツーという愛称で呼ばれている子。
「ちょっと早かったかな? 待ってるからゆっくり歯磨きしてくれ。慌てなくて良いから」
「歯磨き? ん? ああぁぁぁーー!!」
恥ずかしい所を見せたくないと急いでいたのに、手には使用途中の歯ブラシ、口の端には歯磨
き粉と例え家族にでも見せないような恥ずかしい格好をしている事に気づき、私は住宅地には
似つかわしくない悲鳴を上げてしまった。
「ちょっと律子、どうしたの!?」
更にお母さんが私の悲鳴を聞いて玄関に駆けて来る。
私を見て、その向こうに居た男子の姿を見つけると、全てを察したようにニヤニヤし始めた。
「お母さんお邪魔だったね」
加えて「お年頃~」と鼻歌交じりに歌って家に戻っていくものだから、もう私は顔から火ど
ころか大噴火しそうなくらい恥ずかしくて、いっそ貝になって外界とは別の静かな世界に逃げ
たい衝動に襲われた。
「心配すんなって。泡吹くならカニもやるんだ。人間が吹いてたっておかしくないって」
「み、ミッツー(やだ、優しい!!)」
カニと人間との繋がりは分からないけれど、彼の優しい言葉は恥ずかしさを上書きするには
十分な力を持っていた。私はこの胸キュンのおかげで冷静さを取り戻す事ができた。
「ごめんね、すぐに支度してくるから」
待たせる事へ謝ると、私は急いで家へと戻った。
そして今度こそ支度を終えた私が靴を履き終えた時、お母さんに声をかけられた。
「登校止めちゃダメだからねー。それと、帰りは寄り道も長居もしちゃダメよー」。
「もう、変な事言わないの!! 行って来ます!!」
完全に勘違いした発言だったから、一言文句を言ってドアへ向かって歩き出した。
これだから隠してたのに、本当に、全く……。
私はドアを開けるまでの三歩で生まれた怒りの感情を晴らし、外へ出てからは家を出るまで
怒っていたような素振りは微塵も出さずにミッツーに笑顔を向けた。
「改めておはよう、清澄さん。急かしたみたいでごめんよ」
ミッツーにさっきの事を気にさせてしまったようで、挨拶もそこそこに謝らせてしまった。
「ううん、大丈夫だから。私の方こそ迎えに来てくれたのに、準備出来てなくてごめんね」
うん、ちゃんと謝れてたと思う。その後の笑顔もきっと大丈夫。
「……いや、大丈夫だよ。それよりほら、鞄貸して、。横に居るから気をつけて歩いて」
ミッツーは右手を伸ばし、鞄を渡すように求めた。
「別に鞄くらい持って歩けるよ」
歩くのに鞄が邪魔という訳じゃないかと断る。その裏には、自分の荷物を持ってもらう恥ず
かしさがあった。
「そう? 昨日、てっきり今日は腫れてて、荷物は邪魔になるかと思ってたんだけど」
「蒼たんになってて痛みはあるけど、ゆっくり歩けば大丈夫だよ。病院で診てもらったけど、
折れたりしてる訳じゃなかったし」
心配するミッツーに、私の脛事情を話していると家のドアが開いた。
「何、お母さん。私、何か忘れてた?」
牽制するようにどうしたのか尋ねてみる。
「違う違う。お二人さん、立ち話してると遅れちゃうわよ。それともそれが狙いなのかしら?」
口調といい、表情といい、娘の相手がどういう相手なのか気になって出てきたんだ。
腹立つ事にまたニヤニヤしているから間違いない。
「だから変な事言わないの!!」
私は思わず鞄をドアに投げつけそうになったけれど、脛の痛みで踏ん張りが利かず、足に無
理はさせられないと踏み止まり、振り上げかけた腕を下ろした。
「行こう、ミッツー」
再燃する怒りを胸に、歩き出す。本当は早歩きをして一歩でも早くこの場を去りたかったけ
れど、速度が出ないから微妙に格好がつかない。
「待った、待ってよ。清澄さん、急ぎすぎちゃいけないって」
「あ、うん。なんかごめんね。うちお母さんがさ」
「いきなり知らない男が娘の家に来たんだからそりゃ気になるって」
「ありがとう、ミッツー」
もうミッツーの優しさに私の怒りに燃える心が鎮火してしまった。
全く、好きな人が迎えに来てくれる恥ずかしく緊張の朝だったていうのに、お母さんのせい
すっかり台無しになってしまった。
けど、彼のおかげでそんな事で何時までも不機嫌になるよりも、彼と二人で登校するのを喜
ばなくっちゃという気分に切り替える事が出来た。
うん、今日は凄く嬉しい、幸せな日だ。
痛むのはやっかいだけど、そのきっかけを作る事になった脛の蒼たんには感謝しなきゃ。