第1話
鳴り止まない手首のブレスレットに嫌味な眼を向けながら良平は走る。夏の日差しは強烈で、Tシャツが汗まみれなのは当然な上、その上に着ている純白のYシャツまでもが肌に張り付いて不快感を増長させる。学校指定の制服は最早汗に濡れていない箇所を探せないぐらいだ。
そう。守屋良平は高校二年生。それがどうして昼前の気温がピークに近付く時間帯に学校外を全力疾走しているのかというと、それは彼がヒーローだからに他ならない。
「良平。今どこだ?」
「みすみ坂。現場まで残り十分!」
「五分だ。時間がない」
時間をなくしてるのは連絡が遅かったせいだとなじりたい衝動を抑えた良平は、一言了解とだけ返して通信を切った。
どっち道ここから坂を下るだけじゃなくて、坂を下りきった所にある学校の最寄りの駅から一つ隣の駅まで向かうのだから、通信しながらのんびりと、とはいかない。
「装具。フツノミタマ」
坂道を蹴るのに合わせて唱える。
瞬間、ブレスレットが発光し、伸びた光が良平の全身に絡みついたかと思うとその姿を直前の制服ではなく、全く別の白い服装に変化させていた。そう、まるで古代日本人の格好を思わせるそれに加え、顔は鮮やかな紅色の太い線が左右対称に走り始め、ものの瞬き数回の時間で良平の様相は闘争心猛る武人を思わせるものになっていた。
「絶対あいつ等、俺に期末テスト受けさせない気だよな」
そして収まりだした光の中から飛び出した良平の身体は、およそ人間が出せるだろう速さの限界を軽々と越えるどころか蹴り足一つで空中に飛び出し、次の瞬間には坂道の終点近くにある『みすみ坂駅』の前に降り立っていた。
だが、その姿とは裏腹に発した言葉からは明らかにやる気のなさが滲み出ている。まあ一人だけテストの途中に抜けさせられていれば当然と言えるかもしれないが、その俗っぽさはどう考えてもヒーローの発するべき言葉ではないだろう。
「あ~、腹立つ腹立つ腹立つ」
毒づきながら跳躍。空中で駅舎の壁を蹴って方向を変えると、そのまま次々と建物の屋根や壁を足場にして指定された現場まで一直線に向かっていく。おそらく単純に出せる速さならば普通に走った方がこれだけの脚力があるだけに上なのだろうが、問題は良平がヒーローとして人々から見られているという点だ。
ヒーローは常に正しく理想的であれ。この理念が良平に横断歩道の信号無視を許さない。渡るとしても左右確認と存在主張で手を挙げねばならないのだから、これは大きな時間のロスになる。それに比べればこの道と呼べない場所を蹴って跳ぶ移動なら殆んど真っ直ぐに目的地に向かえるのと、目撃されても他の誰にも真似できない手段なのだからヒーローとしての理念からも外れていない。
絶妙な力加減で踏み締められた足場に無駄な破壊は起こらず、それでいて高架線を走る電車と並走する速さが出せているのは見事と言う他無く、そしてこの速さなら隣の駅まで五分と経たずに着いているだろう。
「良平。変身はしているな?」
「はいはい。今現在みすみ坂駅とそっちの中間地点で跳んでますよ」
「よし、状況を説明しておく。現在指定した場所にある建設中のビル付近で突風が起こっている。そのせいで作業中の数人が足場から投げ出されて足場を組んでいる鉄骨に落ちたんだが、打ち所が悪かったらしく気を失っている。自分で身体を支えられない以上、また突風に流されたら今度こそ地上まで落ちるのは間違いない」
「一刻を争う訳だ」
「その通り。急ぎたまえ」
「了~解。それじゃあその分進路上の建物に迷惑かけますけど、それはそっちで処理して下さいよ?」
「……よかろう」
ため息混じりの了承の声を聞いた良平が次の足場に着地した瞬間にその姿は弾丸のように跳んで消え、並走していた電車さえも置き去りにしていく。代償として踏み締められた民家の屋根や壁、電柱を含めたあらゆる物にくっきりと足跡を残しているが、人命救助に向かう途中という訳で勘弁してもらえるだろう。
それにしてもコンクリート製のそれらを陥没させて跡を残す脚力、推して知るべしである。
「全力で走れば、作業員を助けてから学校に帰る時間が作れるだろ……帰りは電車だとしてもギリギリでもテストに間に合う!」
それでも回答途中だった上に残り時間も十分有るか無いかといった具合でしか残らないのは確実だ。それでもいいという事は、良平がその僅かな時間で解答欄を埋める自信があるからに他ならない。
「よっし。やる気出てきた」
その言葉通りに蹴り足には更なる力が宿り、良平の跳ぶ速さは全身に受ける風の涼しさで夏のうだる様な熱気を吹き飛ばして、尚且つ肌寒さを感じさせる域にまで高まっていた。
「皆さん、失礼します!」
文字通り風を纏って事故現場のビル前に降り立った良平は間髪入れずに問題の鉄骨の真下まで移動して跳躍。一跳びで気を失っている作業員の引っ掛かっている高さまで到達する。
「ぃよっと」
両足と片手を使って足場の骨組みに掴まると、良平は空いた方の手を力無く引っ掛かっているだけの作業員に慎重に伸ばして安全を確保。そのまま慌てず遅くならずの早さで本来人が立つ場所の、安定した本来の足場まで運んでいく。
ゴリラを思わせる力強さで作業員を一人、また一人と救出する度に眼下で見守っている群衆から歓声が飛んでくる。実に喜ばしい光景に見えるが良平としては気が気でならない状況だ。あれだけ大人数で一斉に声を上げれば、確実に大気を震わせる力を持つようになるし、良平自身も知らず知らずの内に歓声に心を奮い立たせられて余計な力や見栄が入ってくるかもしれない。
そのどれもが最後の一人を助ける手を狂わせる要因や事故を生みかねない上に、この状況でのミスや事故を重ねるというのはつまり目の前の人の死に繋がってもおかしくない。かといって群集に向かってそれを注意する事もできない。
ヒーローは人々の期待に応えなければならないからだ。どれだけ迷惑な状況だろうと、応援の声を蹴るような真似は出来ないし、してはいけないのだ。
「……」
残った一人に手を伸ばす前に大きく深呼吸し、決して焦るなと自分に対して言い聞かせた良平は今まで以上に慎重に手を動かす。が、結果論になってしまうが、その判断がまずかった。
良平の手が作業員の腕を掴もうとした刹那、どこにどう力が加わったのかその手をすり抜けた作業員は地上に向かって先に降りてしまった。
「しまっ!……」
作業員から半拍遅れて良平も飛ぶ。
ただし良平は自分の意思で加速を付けた分、半拍の遅れを取り戻すのは簡単だった。むしろ難しいのは作業員を抱えたままの着地をどうするか、だ。
良平はいい。ヒーローに『変身』している状態ならスカイツリーの頂上から落ちたとしても、頭から地面に落ちない限り危険は無い。だが今彼が掴んでいる作業員は生身の人間だ。たとえ腕の中で抱え込んだとしても落下の衝撃からは逃れられずにどこかしら怪我をするのは免れない。
「たあぁぁぁぁ!」
それを防ぐ方法はただ一つ。
良平は掴んだ作業員を両腕の内側に囲んで持つ、いわゆるお姫様抱っこの体勢を取って地面に向かう。そして両足が大地を踏み締めて全身に落下の衝撃が走りだすのと同時に、作業員を抱えている両腕だけは落ちるのと同じ速さで地面に向かわせた。
それを追って両膝のバネで衝撃を受け流させ、まるでダンスをするように作業員を自分の身体ごと振り回すこと数回転。螺旋を描きながら徐々に速さを緩めた良平が地面にそっと寝かせた作業員は身体のどこにも怪我のない状態だった。
直後、全員の無事を確認した良平が深く吐息を漏らすのを見計らったように通信の呼び出し音が耳の中で鳴る。
「よろしい。完璧な救出劇だ」
声の主は予想するまでも無く、良平を呼び出して現場の状況を伝えた男からだ。
「そりゃどうも。それじゃあ学校に帰らせてもらいますよ。急いで帰ればテストを受ける時間はまだ残せるんで」
「そうはいかない。起こらないはずの突風を起こしていた原因が判明したので、君には今からそっちを追ってもらわねばならないのだ」
「じょ、冗談でしょ?このままじゃ俺、留年……」
「高校の方には話を付けて置こう。放課後にでも時間を設けてもらえるように打診しておく。君は気にせず仕事をこなしたまえ」
「ちょ、山口さん?」
言いたい事だけを言い残すだけの通信は無情にも切られ、今どは別の人物から事件の概要が説明される。
「……以上です。よろしいでしょうか?」
「……はいはい。分かりましたよ」
思いっきり毒づき、通信の向こうにいる山口と呼ばれる男に罵声を浴びせたいだろう良平は、しかしその衝動を飲み込むしかなかった。いまだに良平の起こした奇跡の救出劇に沸き返る人々の輪の中にあって、ヒーローたる良平がそうした態度を欠片でも見せるわけにはいかない。
かと言ってどこか人目の無い場所で物にあたるとしても、それなら例の突風を起こした原因に対して胸に抱える怒りをぶち撒けた方が遥かに建設的だといえるだろう。
「それでは皆さん、工事現場では安全確認をしっかりとするのを忘れないでください」
胸中に渦巻くどす黒い怒りを無理矢理押さえた良平はそう言い残してその場を跳び去った。
目指すは建設途中のこのビルの裏側に面する、一回り背の低く古いビル。そこでどのぐらい八つ当たりに近いストレス発散と悪行への制裁をするかは分からないが、どれだけ短く見積もっても軽く一時間を越えるのは間違いない。
「はぁ」
最早何度目か数えるのも馬鹿らしいぐらいの回数漏らしたため息をお供に、良平は問題の古いビルに向かった。




