最終話
数日後、マヒロが学校を休学することになったという知らせを担任から聞いた。その日を境に、彼女の姿を意外なところでちょくちょく目にするようになった。
マヒロは夫の為にマスコミを利用したようだった。しかし、利用したと知っているのはカズマだけだろう。マヒロがそんな大胆な事の出来る子だとは誰も思っていなかったので、ワイドショーで繰り返し放送される彼女の映像は、日本中の人々の同情を集めた。
『マヒロへ
まだ幼い君を巻き込んでしまったことを許してください。政略結婚とはいえ、可愛いマヒロを妻にできたことは、僕にとってなにより幸運でした。妹と歳のかわらぬ君に、夫としてどう接して良いかわからず、まるで保護者のように干渉したり友だちづきあいを制限して説教したり、時には僕の思いが空回りをして、手をあげてしまった事もありました。ほんとうに申し訳なかったと思います。素直に愛情表現ができない自分は、君を束縛することしか思いつきませんでした。どういう事情があろうとも、犯罪に加担してしまったからにはもう君の夫ではいられません。離婚届を提出して、自由に生きてください。籠の扉は開いています』
北斗氏直筆の手紙が紹介されたあと、画面の中のマヒロが声を震わせる。
「私は夫を信じています。彼はすすんで犯罪に加担したりしていません。夫は板挟みになって、とても苦しんでいました。良心を痛めていました。でも大きな力の前では、ああするしかなかったのです。私も彼も、権力の被害者なんです」
破いた離婚届の入っている封筒と夫の手紙を握り締めて、はらはらと涙を流す幼な妻の映像を携帯のワンセグで見ながらリクが言った。
「なんか、すげーな。マヒロが人前でこんなにしっかりとしゃべれるヤツだったことが、驚きだよ。おかげで北斗さんにすっごい弁護士がついたんだってさ。こっちの週刊誌に載ってるよ」
昼休み、校舎の屋上に寝転んで青空を見上げているカズマにリクが週刊誌を差し出した。それには、どこかに移送される北斗氏の写真が載っていた。彼の衿元にはマフラーが巻かれている。
「コバルトブルーのマフラーか……。ヨン様じゃねぇっつーの」
カズマのつぶやきに、リクが眉根を寄せた。
「白黒なのに、よく色がわかるな」
リクの疑問には答えず、カズマは週刊誌を放り出すとゆっくり目を閉じた。
ひんやりとした風に乗って、近くの幼稚園からお遊戯の唄が流れてくる。
かごめかごめ かごの中の鳥は
いついつ出やる 夜明けの晩に
鶴と亀がすべった 後ろの正面 誰?
「この歌詞、よく考えると意味不明だよな」
ぽつりとつぶやくカズマに、リクは憐れみとも同情ともつかぬ視線を向けると言った。
「大事に籠に入れている他人さまの鳥を、奪ってみた感想はどうよ?」
少々棘のあるセリフに、カズマは肩をすくめた。
「さあな」
追いかけたって、抱きしめたって、奪えないものがある。手に入れたと思っても、それは幻で、まばたきひとつの間にするりと逃げて行く。たぶん、マヒロに限ったことではないのだと思う。
籠の中の鳥は、結局籠から出なかった。いや、籠はマヒロ自身の心が纏っていたものだったのかもしれない。そして彼女は今、夫を籠から出してやるべく奔走している。
繰り返し聞こえるわらべ歌のワンフレーズを、カズマは小さく口ずさんだ。
「夜明けの晩に鶴と亀がすべった……」
夜明けは明日を予感させる希望に満ちた言葉なのに、晩と続くことでそれを否定している。永遠に明けそうで明けない夜。長い夜の中で、おめでたいモノたちが滑り、落ちる。どこまでも、どこまでも……
『鶴と亀』って、誰だろう。そう考えて、ふとあの札幌の夜を思い出した。抱きしめたとき、なぜだか悲しげな目をしていたマヒロ。
だからなのか?
カズマが告げたマヒロへの思い。それを『同情』だと彼女は言った。裏を返せば、黙って抱かれたのは、ひょっとして彼女の『同情』だったのだろうか?
リクが立ち上がる気配を感じてカズマは目を開けた。おもむろに身を起こし、ゆっくりと背後を振り返る。
――後ろの正面 誰?
茶色の髪をなびかせて、ユキノが立っていた。リクはユキノのそばに歩いてゆくとポンと肩を叩いて屋上から去ってゆく。
リクの姿が鉄扉の中へ消えると、ユキノは小さく舌打ちした。
「マリカが呼んでるって言ったのに……リクに騙された」
ユキノは空を仰いでぐうっと大きく伸びをすると、カズマのとなりに来て腰を下ろした。
何を話してよいのかわからず、カズマはリクの置いていった雑誌をアゴで示した。ユキノはうなずくと「知ってるよ」と言ってから付け加えた。
「だって、兄だもの」
「え?」
「北斗多一郎は私の兄なの。ちょうど今の私と同じ歳に北斗家の養子になったのよ」
その話はツヨシに聞いて知っていた。でも、知らなかった。まさか、ユキノが妹だったなんて……
カズマはようやく言葉を探し当てた。
「兄貴に頼まれたから仕方なかったんだろう? ……その、見張り役」
ユキノの顔からふっと表情が消える。唇をゆがめて、彼女は言った。
「私が自分から申し出たのよ。そもそも、この学校に転校してきたのだって、兄さんの婚約者がどんな子なのか知りたかったからだもん」
そう言って、ユキノはぽつりぽつりと話し始めた。
「兄さんが養子になると、北斗家から援助を受けて私たちの暮らし向きはずっと楽になった。兄さんは恩に報いるために一生懸命勉強して目標の大学に合格したの。養子に出たと言っても、学生のうちはよく実家に帰ってきて、普通の家族となんら変わることはなかったよ。……そう、幸せだった」
ユキノは胸の前で両膝を抱え、その上にアゴを乗せて小さくなった。何処か遠くを見ている眼差しは切なげだ。
「でも、卒業と同時に兄さんはふっつりと姿を見せなくなった。心配で訪ねて行くと、『もう二度と会わない。兄は居なかったと思ってくれ』って言われたの」
「どういうこと?」
「今を思うと、そのときから今回の事件にかかわっていたのだろうって思う。……でも、そのときはわからなかった」
ユキノはきゅっと唇をかんだ。
「……音沙汰がないまま一年ほど経って、いきなりマヒロと結婚するという手紙が来たの。いったい兄さんはどうしちゃったのだろうって。私、心配で……それで」
ユキノの話を聞きながら、カズマはぼんやりと記憶をたどっていた。マヒロがいじめられるのはカズマの責任だと、ある日ユキノは教えてくれた。ユキノはマヒロに対してイジメを行っていたのだろうか。直接手を下さなくても、誰かを煽ってやらせていたのかも。
隣に座るユキノを盗み見ると、彼女は抱えた膝の上に顔を伏せている。小刻みに震える肩。泣いている、そう思った。
「……だから私は、だから、この学校に転校してきたのよ。兄さんが変わってしまった原因は、もしかしたら結婚相手にあるんじゃないかって……」
そう、ユキノにとって、マヒロは兄の嫁だ。それなのに、なぜ……?
「なあ、ひとつだけ教えてくれよ」
感極まったようにしゃくりあげるユキノに、カズマは低い声でたずねた。
「お前は結局、オレとマヒロをどうしたかったんだ?」
ユキノはビクンと肩を震わせた。涙をぬぐい、ゆっくりと空を仰ぐ。カズマもつられて上を向く。青い空に、風が秋あかねをつれてくる。カズマの髪をかすめ、とんぼたちは群れて青空へ舞い上がる。
その様子を眺めながら、ユキノがぽつりと言う。
「どうしたかったなんて、知らないわ」
「え……」
「マヒロはつまらない子よ。なのに、私から大事な人を奪った。兄さんだけじゃなく、カズマまで……それが許せなかった……」
ひどく醒めた口調。
「そんなことなのか?」
……そんなことで? たった、それだけのことで、マヒロを?
カズマはまじまじとユキノを見つめる。彼女は顔にかかる長い茶髪をかきあげると、
「自分の行動に、あえて理由をつけるとすれば、ね」
そう言って屈託なく笑う。涙のあとが、もう乾き始めているのを目にして、カズマの両腕がぞわりと粟立つ。初めてユキノにマヒロのことをたずねたときと同じく不快な感覚に支配されると、いつかリクの言っていた言葉が、再び頭のなかをぐるぐると回りはじめた。
――オレ思うんだけどさ、つくづく女って何考えてるのかわからない生き物だよな……
初めからユキノはマヒロのことを快く思っていなかったのだろう。それなのに、自分はマヒロの保護を、あろうことかユキノに頼んだ。
オレは、とんでもないバカだ……
ユキノに利用されたのだ。ユキノは兄を取り戻すために、マヒロとオレが寝るように仕組んだ……?
いや、でも。
そんなのは矛盾している。そこまでしなくても、他にいくらだって方法はあるはずだ。第一、北斗はそんなことを望んでいなかったはずだ。はっきり言って、ユキノのしたことは、兄の心証を悪くしただけだろう。
「じゃあ、なぜ……?」
口をついて出たカズマの疑問にユキノが首をかしげる。彼女の顔をじっと見つめると、カードキーを渡されたときのことがありありと浮かんできた。何かを堪えるような、切なげなユキノの笑み。カードキーの暗証番号0722。あれは……
本当に、自分はどうしようもなくバカなのかもしれない。こんな話を聞かされてさえ、ユキノを悪く思うことができないでいる。あれは、純粋に自分とマヒロのためにしたことなのだと思えてならない。
「0722って……。あのときのカード番号……」
ユキノは黙ったままカズマの目を見つめる。
「オレの誕生日と同じだった」
ハッとしたように、ユキノの目が見開かれる。
「なにそれ?」
ユキノの声はわずかにうわずっている。その様子にカズマは確信する。ユキノの中にあるのは悪意じゃない。では、好意? それとも、愛情? いや、どれも違う気がする。強いて言うならそう、たぶんそれは……
「同情、か?」
「同情?」
ユキノが形の良い眉をしかめる。カズマはユキノを見つめたまま言った。
「カードキーを渡したのは、叶わぬ思いを抱え込んで悶々としているバカな男に同情したから……だろ?」
……それとも、夫に愛されていないと思いこんでいる妻に対してか。
ユキノは音もなく立ち上がった。その横顔にはなんの表情も無い。
「同情か……。そんなふうに思うんだね、カズマは」
「違うのか?」
ユキノは何も言わず踵を返して足早に離れて行った。
誰も居なくなった屋上で、カズマは再びごろりと寝ころんだ。空の深みに、数羽のすずめが飛びさる影を見た。
人の心の中なんて、わからない。わかりたくもない。自分の中にある思いを、なんて名づけるのかは、自分次第だと言った少女のことを思う。
「そういや、オレ、ふられたの初めてかも」
今ごろ気付いてカズマは苦笑した。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
「さてと、勉強するか!」
カズマは大きく伸びをして立ちあがると、遠くにかごめを聞きながら屋上を後にした。
(了)
長いものをお読みくださいまして、どうもありがとうございました。
素人ゆえ、読みにくいところが多々あったかと思いますので、ご意見などいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 冴木昴