かごの扉
あの日札幌に現れた北斗氏は、教師に断りを入れると、深夜にもかかわらずマヒロをさらうようにして東京へ連れ帰ってしまった。
「何かあったら法的措置を取る」と息巻いていたが未だになんの沙汰もない。修学旅行から四日が経っているが、マヒロはずっと欠席している。マヒロはきっとあの屋敷の中に居るのだろう。ただ、ハッキリ言えるのは、今現在に於いて、北斗氏に暴力を振るわれる心配は無いということだ。
昼休み、カズマは一人で図書館の中二階に来ていた。美術書の並ぶ本棚にもたれかかり、登校途中で購入したスポーツ新聞を広げた。
《美人代議士 黒い金脈の流れ》
《イケメン秘書 獄中からの激白!》
一面トップは三日前からずっと同じ事件の記事だった。大写しになっている端正な顔の男性は、メガネをかけた目元に濃い疲労の色を浮かべていた。
事件の内容は概ねこんな事だった。
歯科医師会からの不透明な金の流れが明るみに出て、北斗の上司である女性代議士が槍玉に挙げられた。彼女は全ての責任を秘書の北斗に押し付けた。そのせいで北斗はただ一人拘束されて取調べを受けているのだった。歯科医師会というからには、マヒロの実家も関係があるのだろうと思われた。
記事の内容は日を追うごとに明らかになっていったが、カズマにとってそんな事はどうでもよかった。カズマは新聞をたたんでホコリだらけの床に放り出した。窓から差し込む暖かな日差しの中に、無数の塵が雪のように舞った。
「マヒロを籠の鳥のように閉じ込めていたのに、自分が拘束されてりゃ、世話ねーじゃん」
つぶやいてはみたものの、カズマの心の中は釈然とせぬままだった。トカゲがしっぽを切り落とすように、一人罪を被せられている北斗氏に対して、気の毒だとは思うが、だからと言って、未だにまったく好感は持てそうも無い。けれども、あの夜の彼の態度は、何故かカズマの胸の奥底を揺さぶった。
――もう……終わりだ
札幌の自由行動をマヒロと共に過ごすとユキノにしゃべったのは、前日の午前中だ。ユキノからは逐一報告が行っていた筈だから、本当に二人の行動を阻止しようとする気があるならば、もっと早く来ればよかっただろうに。本人が来られなくても、人を使ってどうにかする事も出来たはずだ。
いや、もっと腑に落ちないのはユキノの行動だ。北斗氏からマヒロの素行を監視するよう頼まれていたのに、なぜ自分とマヒロを煽るようなことをしたのだろう?
まさかと思うが、振られた腹いせに面白がって……?
いや、そんなはずはない。ユキノはそんなことをするようなヤツじゃない。だいたい、ユキノがマヒロと自分の監視役だったということ自体、いまだに信じられない。本人に確かめたいのだが、ユキノはあからさまにカズマを避けていて、目を合わせようとはしない。周囲にはいつもクラスメイトをはべらせており、まったくこみいった話などできる状態ではなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。カズマは午後の授業をサボって例の金網の切れ目から学校を抜け出した。澄み渡った秋の空は見た目には爽やかだったが、肌に感じる風は日ごとに冷たさを増している事にふっと気付いた。
黄色と茶色の落ち葉が敷き詰められた歩道を歩き、一番近いバス停からバスに乗った。行き先は『丘の上近代美術館』。本当は電車を利用した方が早くて料金も割安だが、今は何だかバスに乗りたい気分だった。
三十分ほど揺られて目的のバス停で下車した。緩やかな坂道を歩くと、すぐに周囲は高級住宅街になる。景観を意識した電柱のない街並みをぶらぶら歩くと、穏やかな午後の空気がカズマを包んだ。何だかこの街は空気さえもひと味違う気がするのは、ハイソな人々に対する自分のひがみだろうか。
一歩角を曲がった途端、穏やかな空気は霧散した。青い尖塔付きの屋根の住宅前に、大勢の人々が詰め掛けていた。路肩には何台もの車が連なって駐車しており、門前には望遠レンズ付きのカメラが設置され、数人のカメラマンやリポーターらしき人がヨーロッパ風の建物を見上げていた。
誰でもいいから、何か新しいネタは無いのかと目をぎらつかせている彼らの様子は、獲物に群がるハゲタカを連想させた。
マヒロ……。
籠の鳥の新たな敵たちに背を向けて、カズマは元来た道を引き返した。
学校へ戻る気にもならず、かといって家に帰るのは早すぎた。カズマは繁華街のキャバクラ「スマイル」に足を向けた。まだ時間は早いが、店長のツヨシはいつも午後三時過ぎには事務所に居る事が多かったので、期待して訪ねてみた。
「なんだこんな時間に。サボリか?」
咎めるような口調だったが、ツヨシの目は優しそうに微笑んでいた。時間が早いので、彼はグレーの長Tにダメージ加工のジーンズ姿だ。スーツ姿に見慣れていたので、普段着のツヨシはどこか新鮮な感じがする。
ふと事務机を見ると新聞が何誌も乗っている。カズマの視線に気が付き、ツヨシは一番上に乗っている新聞を手に取った。
「いつかはこうなるんじゃないかって、本人も言っていたんだよな」
ツヨシの言葉に、カズマは目線を彼の整った顔へと戻した。
「オレじゃ力になれないのかって尋ねたら、店で息抜きさせてくれたから十分だって。まあ、オレに出来る事といえば、実際そのくらいだったしな」
カズマは再びツヨシの手の中の新聞を見た。ちょいと色気のありそうな女性の背後に、影のように立つ北斗の写真が載っている。
「……アイツ、どうなるの?」
「う~ん、洗いざらいぶちまければ、保釈金を払ってあとは裁判とかかな。ただ、もう今までのような暮らしは出来ないだろうし、判決の内容によっては服役もあるのかなあ。よくわからないけどね」
ツヨシは立ったまま事務机の上を片付け始めた。なんとなく落ちつきのないその仕草は、彼らしくないとカズマは思った。ツヨシも、北斗の逮捕に思いのほか心を痛めているのだろう。新聞と共に愛用のジッポが床に落ちる。カズマはかがんでそれを拾い上げた。
「あ、サンキュ」
片手を差し出すツヨシに、カズマは上目づかいで言った。
「ねえ、これ、ちょうだい」
ツヨシはやれやれと言いたげな目で見てから首を横にふると、カズマの手の中から銀のジッポを取り上げた。
「お前にやったら、未成年の喫煙を奨励するみたいだろ。それにこれ、人からもらった物だし。悪いな」
しゃがんだまま恨めしげに見上げるカズマに向かって、ツヨシは手の中でジッポを弄びながら言った。
「おまえ、相変わらず、人のモノを欲しがるんだな」
そんなことはないけど……と語尾を濁し、カズマは立ち上がった。ツヨシの、見透かしたような視線を感じて顔をそむけながら、それでも聞きたかったことを恐る恐るたずねてみる。
「……マヒロは、どうなるんだろう」
ほんの少しの沈黙のあと、ツヨシは事務机の片付けを再開しながら言った。
「奥さんに印鑑押した離婚届を渡したって、聞いてるけど」
「……え?」
ツヨシの言葉にカズマは勢い良く顔を上げた。
「もともと、好きで結婚したわけじゃないし、奥さんはまだ十七だから、自由にしてやりたいって、酔っ払ってアユミに言ったそうだ」
十日ほど前のことかな、とツヨシは付け加えた。彼はデスクの片付けを終えると、店に続くドアから静かに出て行った。
――もう……終わりだ
北斗氏の言葉は、カズマとマヒロのことではなくて、自分とマヒロの事だったのだろうか。カズマは黙り込んだまま近くのパイプ椅子に腰掛けた。十日前と言えば、修学旅行の直前くらいだろう。マヒロは離婚届をもう出したのだろうか。離婚していたから、マヒロは黙ってカズマに抱かれたのだろうか。修学旅行の時のマヒロの笑顔を思い出す。
あのときすでに籠の扉は開けられていたのか……?
カズマはキャバクラを出ると、歩いて数分のところにあるマヒロの実家、三井デンタルクリニックを訪ねる事にした。マヒロが離婚をしたのかしないのか、それだけが知りたかった。
三井デンタルクリニックは「休診」の札が下がっていた。きっとマスコミがうるさいので、営業できないのかもしれない。カズマは周囲を見回した。北斗の屋敷と違って、ここにはマスコミ関係者と思われる人の姿は見当たらなかった。
カズマは大きな看板を見上げながら、正面のインターフォンを押した。期待していなかったが、やはり返事は無い。仕方がないので、今度は裏へ回ってみた。裏門もしっかりと施錠されていて、在宅しているのかどうか判断がつかない。諦めかけて再び表へ回ったとき、夕暮れの道を少年が歩いてくるのが見えた。
「あ……おにいちゃん」
マヒロの弟は、カズマを見るとニコッと笑って仔犬のように走ってきた。
「この前はごちそうさまでした」
礼儀正しく挨拶をする弟に、カズマは頼みごとをした。
「マヒロのことで話があるんだけど、お母さんに会わせてもらえないかなあ」
弟は何か面白い事でも見つけたような顔になり「任せて」と言って裏口から家の中に消えた。
十分ほど待たされた後、裏口から小柄な中年女性が顔を出した。怯えたような表情が、マヒロに瓜二つだ。
「マスコミの方じゃ、ありませんよね?」
念を押すように言う女性の背後から、弟が大きな声で言った。
「このおにいちゃんは大丈夫だよ。だって、マヒロお姉ちゃんの学校のマークつけてるじゃん」
カズマはドキリとして胸元に手をやった。少々弛んでいるが、ネクタイをしていて良かったと、ホッと息を吐く。
ようやく家の中に入れてもらえたカズマは、リビングに通されるのも待ち切れず、早速質問しようとした。
「あのっ、マヒロさんは……」
ところが、カズマの言葉は母親によって遮られた。
「マヒロ、元気に学校へ行ってるんでしょうか?」
「え?」
母親の問いにカズマは首をかしげた。
「学校には来てません。修学旅行以来ずっと欠席してます」
「そうですか。携帯電話がつながらないので、様子がわからないものですから」
「携帯は壊れたそうです」
もしかしたら北斗に取り上げられているのかもしれないけれど、とカズマは胸の中で付け加えた。
「マヒロ……」
娘の名前をつぶやいたっきりで、母親は俯いて黙り込んでしまった。マヒロは誰とも連絡を取っていないのだろうか。カズマがため息をついた時、母親が言った。
「北斗の家からだとマスコミがうるさいから、別のところに移って、そこから学校へ行くという連絡があったんですけど……あれは公衆電話からだったんですね、たぶん……」
思いがけない情報に、カズマは小柄な母親を見て言った。
「マヒロはあの家に居ないんですか? いったいどこに?」
すると、母親の背中からひょっこりと顔をのぞかせて、弟が言った。
「ボク知ってるよ。Y駅の裏にあるビジネスインっていうホテル。さっきぼくのケータイにメールがあったんだ。ネットカフェから送信したみたい」
マヒロの弟はどこか楽しそうにぺらぺらとしゃべる。
「お母さん、マヒロお姉ちゃんにお金渡したいって言ってたけど、これから行くの? ぼくが行ってあげようか?」
そのとき来客を告げるインターフォンが鳴った。マヒロの母親は険しい顔になると、背後でウロウロしている弟をヒステリックに怒鳴りつけた。
「二階へ上がっていなさい。ぜったい応答してはダメよ! それから電気をつけるときはカーテンをきっちりと引きなさい」
母親は物音を立てないようにリビングの窓から表を覗いていたが、
「あの……こんな事お願いをするのは心苦しいのですが、私は今、表を歩く事が出来ないんです。だから、これをマヒロに渡してやっていただけないでしょうか」
そう言って手渡されたのは、銀行のマークが入った分厚い封筒だった。
「え、ぼくが……ですか?」
「お願いします。どうかマヒロに」
「お、お金なんて、預かるわけには……」
慌てて断ろうとするカズマに、マヒロの母親は縋りついた。
「あの子きっと、一人で困っていると思うんです。今、私が親として出来ることはこれくらいしかないんです。お願いします」
カズマは渋々承知すると一応訊いてみた。
「マヒロさん、北斗の家を出るにあたって、何か言ってましたか? ……その、離婚とかそういうの……」
「いいえ、何も……」
母親の表情は怪訝そうだった。うそをついているとも思えない。マヒロは誰にも言ってないのだろうか。
外はすっかり暗くなっていた。闇に紛れて裏口から出てゆくカズマに、マヒロの母親は何度も頭を下げて言った。
「近いうちに必ず会いに行くと……。連絡待ってると伝えてください」
マヒロの居場所はわかったし、会いに行く口実も出来た。カズマは三井デンタルクリニックの裏手の路地を抜け、Y駅に向かって足を速めた。しかし、カズマの足どりはY駅に近付くにつれて重くなっていった。
数々の疑問が浮かんでは消えてゆく。籠から自由になったマヒロは、離婚届を出したのだろうか。マヒロが離婚届を出していたとしたら、何故彼女はその事を言ってくれなかったのだろう。それともまだ出していないのだろうか。……何故? こんな事態になっているというのに、何故、マヒロは自分に連絡をくれなかったのだろう。学生だから? 頼りないから? ……そもそもマヒロにとって自分はいったい何なのだろう?
――オレ思うんだけどさ、つくづく女って何考えてるのかわからない生き物だよな……
いつ、どんなタイミングで聞いたのかは忘れてしまったが、リクの言ったこの言葉が、カズマの頭の中に大きく響いていた。
金を預かってしまった以上、実際会うのが怖いなどとは言っていられなかった。
カズマはY駅の裏手にあるビジネスホテルのフロントでマヒロを呼び出してもらったが、彼女は不在だった。料金の精算はされていないとの事だったので、カズマはそのまま狭いロビーのソファに座って彼女を待つことにした。フロント係の青年が、気を使ってテレビのスイッチを入れてくれたので、カズマは見るともなしに画面を眺めた。
午後六時の時報と共にニュース番組が始まった。
『マドンナ議員 逮捕へ!』
始まると同時にテロップが流れ、女性アナウンサーの声が本日の特ダネを告げる。
秘書の男性の証言によって調査した所、歯科医師会から女性議員への不透明な金の流れを記録したデータと、彼女が直接指示を出していたという証拠が見つかった、とのことだった。
あの男は、少しは罪が軽くなるのかな……
髪を振り乱して喚き散らす女性議員の映像をぼんやりと眺めながら、カズマは北斗氏の事を考えた。
テレビ画面が切り替わり、政治に詳しいどこかの大学教授がコメントを求められていた。
『いやあ、この事件は氷山の一角ですね。彼女の父親も祖父も代々政治家の家柄ですから。まだまだ過去に遡れば、何が出てくるやら、ですよ』
『でも、どうして今までわからなかったのですかねぇ』
女性キャスターの質問に、大学教授は苦笑いした。
『それだけ結束が固かったのでしょう。北斗家は代議士一家の補佐として抱え込まれていたようですし、優秀な人材を確保する役割を果たしてきたんですよ』
キャスターの女性が質問をした。
『では、先に逮捕されていた北斗氏はやはりその目的で養子に入ったのですか』
『そうです。彼の学歴は優秀ですから』
『そんな優秀な人物でも、失敗しちゃうんですねぇ』
呑気な女性キャスターのコメントに、大学教授がうんざりするような目を向けたところでいきなりテレビが消えた。
一瞬何があったのかわからず固まっていると、背後で人の気配がした。
リモコンを手にしたマヒロが立っていた。
「……マヒロ」
マヒロは泣きそうな顔で、消えたテレビの画面を見つめていた。
「マヒロ……オ、オレさあ……」
何と声をかけたらよいかわからず、ゆらりと立ち上がったカズマに、「一緒にきて」とマヒロは小声で言った。
二人はホテルを出ると、近くのファミレスに入った。平日の夕方にも関わらず、店内は混雑している。少し待たされた後、窓際のボックス席に案内された。
夕食時だったが、マヒロがコーヒーしか頼まないので、カズマも同じものにした。
マヒロと顔を合わせるのは、あの札幌のホテル以来だ。しかし、体を重ねた男女の再会にしては、何だか妙に空気が重い。カズマは向かいの席に座って俯くマヒロをじっと見た。ここ数日間で、彼女はずいぶんとやつれたように見える。
「マスコミが、うるさいのか?」
マヒロはコクンと頷いた。
「お前の実家にも、リポーターかなんかが来てた」
ハッと顔を上げたマヒロの鼻先に、カズマは彼女の母親から預かった、現金入りの封筒を差し出した。
「かあちゃんが、お前に渡してくれって」
マヒロは震える指先で封筒を受け取ると、中身を確認した。
「……お母さん、何か言ってた?」
「とても心配していた」と言うと、マヒロは声を殺して泣いた。
コーヒーが運ばれて来たので、彼女は白いセーターの袖口で懸命に涙を拭うと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……ごめんね」
カズマの顔を見ずに、マヒロは謝った。思えば彼女はいつも謝罪の言葉を口にしていたように思う。
「簡単に謝るな。おまえ、何にも悪い事、してねえだろ」
俯いたままのマヒロに、カズマは核心に触れるように言った。
「あの家出られて、よかったじゃないか。もう、北斗マヒロじゃなくて、三井マヒロに戻ったんだろう?」
マヒロはゆっくりと顔を上げて、カズマの目をじっと覗き込んだ。何だかいつもと違う思いつめたような眼差しにドキリとする。
マヒロは言った。
「私、やらなくっちゃいけないの」
「え?」
時が止まったように、二人の間に沈黙が降りてくる。マヒロは、なにをやらなければいけないのか。たずねようとすると、
「私じゃなきゃ、ダメなの」
マヒロはささやくような声で、それでもキッパリと言ってカズマを見つめる。その瞳の力に気圧されて、言葉を発しようとしていたカズマは口をつぐんだ。
マヒロはコーヒーカップに目を落とし、重苦しく切り出した。
「私があの家を出たのは、やらなければならない事があると気付いたからなの」
カズマは黙ってマヒロの言葉を待った。とても大切な事を話そうとしているのが感じられて、無意識に心の中で身構える。
マヒロは脇に置いてあった紙袋の中から、編みかけの毛糸を取り出した。コバルトブルーの長いモノは、どうやらマフラーのようだった。
「以前に編み物してるって、メールしたの覚えてる?」
身構えていたカズマは、拍子抜けしてマヒロの手の中の毛糸を見つめた。
「本当に好きな人が出来たら、私、手編みのマフラーをプレゼントしようって、小さい頃から決めていたの」
カズマは、今度はドキドキしながらマヒロの顔を見た。
――家を出る。やりたいことがある。
そのマフラーはひょっとして、自分へのプレゼントかもしれないという期待に、胸の鼓動が高鳴る。……でも。
甘い展開を期待するには、やっぱりマヒロの態度がおかしい。まとっている空気が重い。
身構えたままマヒロの出方をうかがっていると、彼女は、今度は自分のバッグの中から封筒を取り出した。緊張気味に見ているカズマの目の前で、彼女は封筒の中身を取り出して自分だけに見えるように広げた。薄手の書類のようなそれを、じっと見つめたあと、マヒロはいきなりビリビリと破いた。
「……なに? ソレ……」
ファミレスの茶色いテーブルの上に散らかされた紙片を見て、カズマの目が大きく見開かれた。
「これ、離婚届じゃん……!」
愕然とするカズマに、マヒロはコクンと頷くと言った。
「私、あの家を出て、一人で北斗さんの……夫の帰りを待つことに決めたの」
紙片に目を落としたまま、カズマは顔を上げることが出来ないでいた。いったいぜんたい、どうなっているのか。マヒロの行為の意味がわからない。そんなカズマの気持ちを知ってか知らずか、マヒロは青色のマフラーを手に取った。
「だから……ごめんなさい」
カズマはようやく顔を上げたが、相変わらず言葉は出ず、ただ呆然として目の前の少女を見つめた。「ごめんなさい」の意味を必死で考える。何故? どうして?
「ど、どうして……?」
ようやく声を絞り出したカズマに、マヒロは妙に吹っ切れた声で言った。
「私はいつも誰かに頼って生きてきた。未成年だから、それは仕方の無い事だと思っていたけれど」
そういえば、以前も彼女が同じような事を言っていたのを思い出した。
――桃井くんにはわからない。誰かに依存するしかない、そんなお荷物みたいに暮らしてきた人間の気持ちは、絶対にわからない。
マヒロは破いた離婚届を一片も残さず丁寧にまとめて、元の封筒におさめた。カズマはただぼんやりとそれを見ているしかない。
マヒロは封筒を見つめているが、心はどこか別のところにあるようだった。しばらくして、彼女は唐突に話を再開した。
「父が亡くなったとき、養護施設へ行くという選択肢もあった。でも、自分には母親がいるからって……別々の人生を歩んで来たからって、親ならきっと助けてくれるはずだと、そう思った」
でも、マヒロの思いは叶わなかった。以前聞いた話だ。
「落胆していたところに、縁談の話があって、私は今度もそれにすがった」
自分のしたことが間違っていたとは思わない、とマヒロは言う。
「誰かに頼るのは、経済的には仕方の無い事だと思ったの。けど、心まで寄りかかるのは間違っているって、そう気付いた」
マヒロは大きな瞳でカズマを見つめて言った。
「それを教えてくれたのは、カズマくん、あなたなんだよ」
「え? オレ?」
妙な成り行きに、カズマはキョトンとして、自分で自分を指さした。マヒロは大きく頷く。
「どうせ何もできないからって、存在しないフリで、透明人間みたいに生きてきたけど、やっぱり私はココに居る。そして、そんな私をいじめる人も居る。でも、助けてくれた人も居た」
マヒロはカズマの手を握手のように握ると言った。
「どこにいてもひとりぼっちで途方に暮れていた私にとって、カズマくんの存在はすごく心の支えになったんだよ。それで気付いたの。人は誰かを支えてあげることができるって」
「マヒロ……」
「自分にも、他人にも無関心ではいけない。北斗さんは今とても困っている。……どんな縁でも、結婚したのだから妻である私が支えてあげなくて、誰が彼を、って……」
マヒロはテーブルの上でつないだ自分とカズマの手をじっと見る。
「あの事件が発覚してから、誰も北斗さんと関わろうとしなくなったみたい。当たり前なんだけど」
ひとりになるのはとても寂しいことなんだよ、とマヒロは言う。
「それって、同情って……言うんじゃないか?」
引きつった口元で、カズマは言葉を探す。マヒロの手はとても温かいのに、カズマはつないだ手のひらから自身の体温がぬけていくような気がしてきた。
マヒロはそんなカズマに切なげな眼差しで言った。
「同情……人から見たら、そうかもしれない。でも、北斗さんを何とかしてあげたいって思う強い気持ちを何て呼ぶのかは、私の心の中しだいだから……」
マヒロは握手した手にギュッと力を込める。
カズマはうつろな瞳で握られた手をじっと見つめていたが、名前を呼ばれて顔を上げた。目の前にまっすぐこちらを見るマヒロの瞳がある。怯えていたころとは別人のような強い輝き。
「カズマくん……カズマくんの気持ち、嬉しかった。でも、私の思いを同情と呼ぶなら、たぶんカズマくんの思いもソレだったんじゃないのかな?」
「え?」
「カズマくんは、あの日、薄暗い歯医者の前で泣いてた女の子が、ただ可哀想になっただけなんだよ、……きっと」
「オレは、そんな」
ううん、とマヒロはかぶりをふる。
「カズマくんは優しいから。いじめられてる私を気の毒に思っただけなんだよ」
握っていた手が離れていった。
そんなことはないと言おうとしたが、言葉にならなかった。誰かのモノを欲しがるどうしようもないガキが、人妻のマヒロに興味を持った。そして彼女の孤独を知ったときどう感じたか。自分が守ってやらなければと思った。何とかしてやりたいと思った。それは間違いないことだ。
でも、それを恋と呼ぶのかと問われれば、答えに窮する。そのことに気づいて、カズマは途方に暮れた。頭の中に、またもやあのリクの言葉が大音量で回りだす。
――オレ思うんだけどさ、つくづく女って何考えてるのかわからない生き物だよな……
「ずるいよ、マヒロ……」
ぽつりとつぶやくと、「ごめんね」といつものように謝罪して、マヒロは席を立つ。
ファミレスを出て行く彼女の後ろ姿は、凛としていた。