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修学旅行の夜に

 修学旅行当日、羽田空港に集合した生徒たちは、皆浮き足立ち、教師はピリピリしていた。第一の難関は集合時間だった。毎年必ず一名や二名は遅れるヤツが居るのだ。学校側もそれを見越して飛行機の時間より随分と早めに集合時間を設定していたが、今回はそれがかえってアダとなったようだった。三 クラス一一五人の生徒は皆マジメで、時間きっかりには全員集合していた。

「おいおい、あと一時間もあるのかよ。ゲーム持ってくればよかったなあ」

 少し伸び始めた坊主頭をぐるぐると手で撫でながらリクがため息をついた。カズマはリクのぼやきに相槌を打ちながら、マヒロの姿を探した。

 珍しい事にマヒロはユキノとツーショットで写真を撮っていた。ユキノのおかげか、マヒロへの目立ったイジメは無くなっているようだった。マヒロはこれまた珍しい事に、カズマの視線に気がつくと小さく微笑んで手を振った。カズマはびっくりして手にしていた缶コーヒーを落としそうになってしまった。修学旅行を楽しみにしていると言っていたマヒロは、本当に嬉しそうだ。彼女の笑顔を見るのは久しぶりで、カズマも思わずつられて笑顔になった。

「あーあ、鼻の下伸びちゃって。人妻に夜這いをかけようなんて、思ってないよな?」

 心の奥底を見透かされたようなリクの言葉にドキリとして、カズマは思い切り目の前で揺れる坊主頭を叩いた。

 今回の修学旅行のメインは、世界自然遺産に指定されている知床の見学だった。しかし、生徒たちの間での話題はもっぱら最終日前日の札幌自由行動だ。朝食を食べて札幌駅で解散してから、夕食も自分たちで食べて、夜八時までにホテルに戻るという、今どきの学校にしてはえらく放任主義のスケジュールに、生徒たちのテンションは嫌が上にも盛り上がっていた。

「なあカズマ、札幌ん時どーすんの?」

 リクがチラリと女子の集団に目を走らせて訊ねた。希望としては、当然『マヒロと二人で札幌市内観光』だったが、そんな約束はまったくしていなかった。学校と家、両方でイジメにあう彼女が可哀想で、学校でもプライベートでも、カズマはほとんどマヒロに近付けない状態だった。見学のグループが一緒だということを唯一の希望にして、カズマはこの旅行に臨んでいる。今のところはまだ話すチャンスはないけれど、札幌までに必ず誘うつもりでいたので、カズマはリクに言った。

「わりィけど、札幌は別行動させてもらうよ。……たぶん」

 リクはニヤリと笑って肩をすくめただけだった。彼の仕草は、応援しているというより、呆れ果てているといった感じであった。


 四泊五日のスケジュールは滞りなく過ぎていった。二日目の夜、隠れて飲酒をしていた数人の生徒が、教師に見つけられてこってりと絞られたらしいと聞いた。それ以外は平和そのものだった。

 知床の海を巡る観光船を待ちながら乗り場近くの土産コーナーを見て回っていると、一人で絵葉書を手に取るマヒロを見つけた。カズマが頼んだからか、旅行中マヒロはいつもユキノと一緒だったので、今日ココで一人で居る彼女を見つけたのはカズマにとってラッキーだった。

 他のクラスの生徒たちをすり抜け、カズマは素早くマヒロに近付いた。

「マヒロ」

 声をかけるとマヒロは驚いたように目を丸くし、チラチラと周囲に視線を配った。そんな彼女の様子に、カズマの胸がズキリと痛む。

「オレが声かけると、メーワクか?」

 カズマは苦笑しつつ近くのガイドブックを手に取った。

「ご、ごめんなさい……」

「すぐ謝るなっつーの」

 ニッと笑うと、マヒロもつられて白い歯を見せた。手近な土産物に手で触れながら、カズマは札幌の自由行動にマヒロを誘ってみた。

「その日は、ユキノちゃんが一緒にどうかって、声かけてくれて……」

「返事、したのか?」

 マヒロはフルフルと首を横に振った。

「んじゃ、決まりな」

 マヒロは困ったような顔をして小声で言った。

「でも……ユキノちゃんに悪いから……」

 カズマはニコッと笑って言った。

「ユキノなら大丈夫だよ。オレから言っとく」

「え?」

「ユキノとリクはオレとマヒロのこと、応援してくれてるから」

 マヒロは心底驚いた顔をした。

「それ、本当なの?」

 カズマは大きく頷いた。

 土産物売り場に学生たちを呼び戻すアナウンスが流れる。「んじゃ!」と手を振って、カズマは先に桟橋の集合場所に戻って行った。


 知床のカモメは人馴れしている。観光船の周りを追いかけるように飛び回り、学生たちの手から直接カッパえびせんを奪い取ってゆく様子にリクがぼやく。

「世界自然遺産! 地球に残された楽園、知床の大自然! って、ウソじゃん。なんだよこの人を舐めきっているカモメの態度!」

「まさにカモメの楽園だ」

 二人はゲラゲラ笑った。マヒロのOKをもらえた事でカズマのテンションはハイだった。カズマは観光船の客室から甲板に出てきたユキノを見つけると、手まねきした。

 風に髪をなぶられながら近寄って来たユキノに、早速マヒロを誘った事を報告した。

「へー、良かったじゃん」

 ユキノはいつものサッパリした口調で言うと、リクの坊主頭にカッパえびせんを一つ乗せた。すかさずカモメが襲ってきて、リクは悲鳴を上げた。

 こんな風にリクとユキノと三人でバカやるのも久しぶりで楽しかった。ひとしきり笑い合った後、ユキノがカズマをリクから引き離して甲板の隅へ連れて行った。ユキノはカズマの手を取ると、見慣れぬカードを乗せた。それはキャッシュカード大のプラスチックのカードだった。

「これ、何?」

 カズマが訊ねると、ユキノは彼にクルリと背を向けて言った。

「札幌のホテルのルームキー。明日配られる予定のぶんだよ」

 カズマは手の中のカードを凝視した。

 これって……?

「私とマヒロ、二人部屋のカードキー。暗証番号は0722にセットしておくから」

「ちょっと待てよ。おまえ、どうすんだよ」

「私、札幌の夜はマリカたちの部屋に行くことにしたから」

 カズマは潮風になびくユキノの茶色いロングヘアと、手渡されたカードを交互に見比べた。

「ユキノ……お前……」

「マヒロには何も言ってないけど……。でもたぶんあの子も望んでると思うから」

 ユキノは背を向けたまま言った。声が僅かに震えている。

「……サンキュ、ユキノ」

「0722だからね」

 念を押すように暗証番号を繰り返すと、ユキノは長い髪で顔を隠すようにしてカズマの横をすり抜け、リクの所に戻って行った。


 自由行動の日の天気は、カズマの心を映したように晴れ渡っていた。教師のくどいほどの注意事項が終わり、解散宣言が申し渡されると、生徒たちはクモの子を散らすように札幌の街へと飛び出して行った。

 人目を避けるように落ち合ったカズマとマヒロは、札幌駅の片隅で額を寄せ合ってガイドブックをめくった。札幌市内はたぶんどこを回っても誰かしらに会ってしまう気がする。

「高速バスで一時間くらいなんだけど、小樽まで行ってみない?」

 自由行動の名目は、札幌市内観光と限定されていたが、別にどこに立ち寄ったかなど、一人ひとりチェックされているわけでもない。カズマはマヒロの手を引いて、札幌駅のバスターミナルを探した。いいタイミングで到着したバスには、カズマとマヒロ以外の学生は居なかった。

「昨日、ガイドブックで調べたんだ。快速エアポートで三十分くらいだから、もし小樽へ行く奴らが居るとすれば、大抵そっちを使うだろうと思って」

 二人は後方の座席に並んで座った。半分ほど空席を残した状態でバスは発車した。窓際の席に座って札幌の街並みを眺めているマヒロの手を、カズマはそっと握り締めた。

 マヒロはリラックスした笑顔で振り向くと、握られた手を解いて、かわりに指を絡ませるようにして繋ぎ直した。普段の彼女からは想像もつかない積極的な意思表示に、カズマの心臓がドキドキした。二人きりになれる行き先を選んで正解だったと、カズマは嬉しくなった。

 手をつないだまま、二人でどこに行こうか相談するのは、舞い上がるほど楽しい。いつも人目を気にして怯えたような目をしているマヒロが、終始笑顔を見せている。それが、自分だけに向けられているのだと思うと、満足感と共に、カズマの心に危険な錯覚を起こさせた。

 オレの……マヒロ。

 カズマはポケットに手を入れた。指先に冷たくて硬いものが触れる。ユキノから手渡されたホテルのカードキー。カズマの意識の半分は、この時点からすでに夜の中へとさまよい出していた。

 JR小樽駅に到着した二人は、小樽の主要観光地を十五分間隔で周回している『散策バス』のフリーパスを買った。一日乗り放題で750円とお得なチケットだ。赤い車体のバス「ろまん号」に揺られて、小樽運河沿いの北一ヴェネツィア美術館に立ち寄った。

 白亜の建物は、中世ヨーロッパの宮殿を模したものだという説明があった。

「そういえば、おまえんちもヨーロッパ風のすげぇお屋敷だよな」

 美術館を見上げながら何気なく口に出して、カズマはハッとした。隣を歩くマヒロの表情が曇る。

「うちに、来たんだ……」

 ウソをついても仕方がないので、カズマは何でもない事のように軽い調子で言った。

「ああ、前にね。頭ケガさせちまった日だよ。ちっさいジジイが出てきて、門の前で追い払われた。犬じゃねぇんだから」

 自虐ネタに「ハハハ」と笑うカズマを見て、マヒロはポツリと言った。

「大きい家ってね、寒いんだよ」

 ――体が? 心が? それとも、両方?

 カズマは小柄なマヒロを見下ろした。彼女の華奢な肩に手を回して、ギュッと引き寄せる。胸にもたれかかるマヒロの重みとやわらかさを意識しながら、カズマはさざ波の立つ小樽運河に目を向けた。

 右手の先にレンガ造りの橋がかかっていて、観光客の流れがそちらに向かっている。運河からの風が、マヒロの柔らかい髪を弄んでは吹き過ぎる。肌寒くて少し湿った風を感じながら、マヒロの家には、きっとこんな風が吹いているに違いないとカズマは思った。

 広いけれど、淋しくて暗くて寒い、マヒロの鳥かご……。

 運河沿い、人の流れに沿って行くと、北一硝子の工房がある。こちらは明治時代に建てられた建築物で、元々は倉庫だったという説明書きがあった。灰色の、レンガのような石を積み上げた壁が、時の流れを感じさせる。

 二人は、工房内の体験コーナーに立ち寄ってみた。

「うわあ、かわいい」

 マヒロが目を輝かせる。手にとったのは、カラフルなガラス玉をつないだアクセサリーだ。とんぼ玉というらしい。ヴェネツィア美術館のほうは、高価なクリスタルを扱っているので壊したら大変だと、どこか緊張気味にしていたマヒロだったが、こちらは庶民的な価格で手づくり体験もできるようだ。

「作ってみますか? 携帯ストラップなら、千円くらいからできますよ」

 ペアでいかがですか? と係員の女性にニッコリされて、二人して顔を見合わせた。マヒロの顔が赤く色づいているのを見て、カズマもドキドキした。他人から見たら、やっぱり恋人同士に見えるんだと思うと、照れくさいけれど嬉しい。

 結局、女性の言葉に乗せられて、二人でとんぼ玉作りに参加した。二十分ほどで簡単に出来上がった作品は、カズマは携帯ストラップ、マヒロはブレスレットだった。

「おそろいだね」

 ブレスレットを手首にはめて、マヒロが微笑む。使用したパーツはまったく同じ色、形のものだから、さりげなくおそろい仕様になっているのだ。

 運河沿いを並んで歩く。マヒロの髪が風にもてあそばれ、ほっそりとした首筋があらわになった。そこに赤い痣を見つけて、カズマは息を飲む。マヒロはカズマの目の中に何かを見てとったようだった。さりげなく襟元を直す彼女の腕で、とんぼ玉がやけにきらびやかに光る。

「空が高いね」

 何かをごまかすようにそう言って、振り向いたマヒロを、カズマは思わず抱きしめていた。観光客の目があるということはわかっていた。でも、小鳥が空高く飛んで行ってしまいそうな、そんな不安がカズマの胸をつまらせる。こんなに近くにある笑顔が、自分だけのものになることはないのだと、首筋の赤い痣が雄弁に語る。

「マヒロ……、オレさあ」

 抱きたい。マヒロをオレだけのものにしたい。あの痣を消して、自分の所有印をマヒロの体全部に刻みたい。

 マヒロは困ったように何度も身じろぎしていたが、やがて観念して大人しくなった。マヒロはなだめるようにカズマの背中を何度も何度も優しく撫でる。その指先の動きすらが、カズマにとっては切なかった。

 その後、観光バスを足代わりにして、二人は一日中小樽めぐりを楽しんだ。夕食は札幌でラーメンを食べる事に決めていたので、川風が冷たくなる前に小樽を出た。

 札幌ラーメン横丁の狭い路地で、リクたち野球部集団とばったり会ってしまった。カズマとマヒロ、見慣れぬツーショットを見て、他の野球部員が騒ぎ出す前に、リクはニコニコ笑って言った。

「カズマ、ご苦労だったな。マヒロが迷子になってるってユキノが探してけど、お前、手伝ってやったのか?」

 カズマは一瞬キョトンとしたが、リクが気を使ってくれたのだと察して言った。

「あ……ああ、そこで会ったから、メシ食ってこうって話になって」

 カズマの背中に隠れるようにして小さくなっている、地味な少女に興味を無くしたように、他の野球部メンバーは目的のラーメン店へと入って行った。

「リク!」

 カズマの呼びかけにチュッと投げキッスのまね事をすると、リクはひらひら手を振って野球部メンバーの入って行った店に消えた。

 人目のある札幌に戻ってきてしまったのだという事を肝に銘じて、二人はやや早めに宿泊先のホテルに戻った。

 今夜の宿は駅前のビジネスホテルなので、全ての生徒がツインルームに二人ずつ割り振られている。ロビーに集められた生徒たちは、クラス委員から部屋のカードキーを渡された。

 カズマは、無意識にポケットの中のもう一つのカードキーを握り締めた。今日一日、マヒロとデートしている間中、カードキーの事を正直に言おうか言うまいかと悩んでいた。マヒロの気持ちを尊重しなければいけないと思った。キチンと話をして、拒絶されたら素直に引き下がろうと、始めはそう考えていた。でも、あの首筋のキスマークを目にした時点で、カズマは口をつぐんだ。

 今夜を逃したら、二度とマヒロに触れるチャンスは無い。彼女の気持ちをハッキリ確かめるのも、もう今夜しかないのだ。明日の昼には飛行機に乗って羽田に着く予定だと、担当の教師がスケジュールを確認しながら言った。前に立つ教師たちは心労のためか、かなり疲れた様子だった。今日の自由行動で問題が起きるのではないかとハラハラしていたのだろうと思い、カズマは教師たちが少々気の毒になった。

 オリエンテーションが終わり、生徒たちはそれぞれの部屋に引き揚げた。ここはビジネスホテルなので大浴場が無い。同室の男子生徒に断りを入れて、先にシャワーを浴びていると、カズマの部屋にリクが乱入してきた。

「カズマ~! 来てやったぞ!」

 使用中のバスルームのドアを無遠慮に全開にされたので、カズマはリクの頭にシャワーの湯をお見舞いしてやった。

 シャワーを済ませてバスルームを出ると、びしょ濡れのリクがくつろいだ様子で床に座ってテレビを見ていた。

「あれ? タナカは?」

 リクはベッドの上に置いた自分の荷物一式を指さして言った。

「部屋、代わってもらったんだ」

「え……?」

 問題発生だった。一晩中部屋を開けるつもりでいるカズマは、同室のタナカには「リクの部屋で寝るから」と言うつもりでいたのだ。

「修学旅行最後の夜だぜ。菓子いっぱい買ってきたから食おう」

 そう言ってリクは「白い恋人」の包みをバリバリと破き始めた。

「お前、それ土産じゃねーの?」

 少々引きつった笑顔を貼り付けて、カズマは渋々リクの隣に腰を下ろした。

 深夜のバラエティ番組を見ながら携帯のデジタル時計を気にしているカズマに、リクはため息をつくと言った。

「やっぱ、ダチよりオンナだよな」

 リクは坊主頭をポリポリと掻きながら犬猫を追い払うようにシッシッと手を振った。

「なんだよ、いきなり」

 カズマはドキドキしながらリクを横目で見た。リクはベッドに這い上がるとゴロリと横になって言った。

「ユキノの厚意が無駄になっちまうもんな」

 リクの言葉に、カズマは目をみはった。

「お前、知ってたの?」

「ああ、だけどな、オレはあんまり感心しないよ、そういうの。マヒロは人妻だ。これは間違いなく『不倫』ってやつだ。友だちが人の道を外れるところを黙って見ているのはいけない事だって思った」

 カズマはうなだれて膝を抱えた。リクの言う事は、全く、一部の隙も無く正しいと思った。無言になってしまったカズマに、リクは反動をつけて起き上がるとベッドサイドのメモ用紙に何かをさらさらと書きつけた。

「だけど、こんな言葉もある。『()やらないで後悔するより、()って後悔しろ』」

 メモ用紙を見てカズマはプッと吹き出した。

「お前、明らかに字が違うぞ」

「違うもんか。今夜のおまえにゃ、ピッタリの言葉だろうが!」

「うるせ」

 リクは自分の携帯にちらりと目を走らせると言った。

「もう大丈夫かな」

「なにが?」

 問い返すカズマに、リクは真顔で言った。

「カズマのことだからさ、たぶんテンパっちゃって、見回りのことなんか気にしてないだろうと思ってさ」

 カズマはなぜリクがわざわざ部屋を変えてまで自分のそばにいてくれたのか、その理由に初めて気づいた。ニヤリと笑うリクの坊主頭をぐるぐると撫で回し、カズマはポケットのカードキーを確認すると音を立てないようにドアを開けて廊下を覗いた。背後でリクがボソボソと言った。

「オレ思うんだけどさ、つくづく女って何考えてるのかわからない生き物だよな……」

 この時のリクの言葉は、何故かカズマの頭の隅にいつまでも残る事となるのだが、今のカズマには知る由もなかった。


 カズマは階段を使って女子が泊まっている五階へと移動した。消灯をとっくに過ぎており、非常灯の薄青い灯りだけがボウッと長い廊下を照らしている。リクの情報どおり、今の時間帯はもう見回りの教師も居なかった。

 カズマは渡されたカードキーを取り出すと、薄暗い光で部屋番号を確認した。何だか泥棒に入るような後ろめたい気分になってきて、心拍数が有り得ないくらいに跳ね上がった。扉についているスキャン式のロックにカードをスラッシュさせ、暗証番号を入力すると、小さなランプが緑になった。震える手で素早くドアを開けると、カズマは部屋の中に滑り込んだ。カチッと小さな音がして、ドアがオートで施錠される。

「ユキノちゃん?」

 急に声がして、カズマは飛び上がりそうになってしまった。ベッドサイドの小さな灯りが点灯して、学校ジャージで寝ていたマヒロが体を起こした。

「マヒロ、オレだよ」

 囁くように声をかけると、マヒロは「ヒッ!」と引きつったような声を出した。彼女は無意識に毛布を首の辺りまで引きずり上げると、ようやく声を絞り出した。

「桃井くん、ど、どうして……!」

 カズマはゆっくりとマヒロのベッドに近付いた。驚かせないように、小声で言う。

「ユキノに、キーを借りた」

 マヒロは信じられないという目でカズマを見上げて、ひたすらゆるゆると首を振っている。カズマはベッドの側に跪いて囁いた。

「今日一日中マヒロと一緒に居たくせに、オレ、それでも足りなくて……。今夜もお前と一緒に居たい」

 カズマはそろそろと手を伸ばしてマヒロの小さな手を取った。マヒロの体が大きく震える。言葉も出ないほどに驚愕した顔で、マヒロはカズマの手から自分の手を引き抜こうと力をこめる。カズマはぐいとマヒロを引き寄せた。怖がらせないように、ひとことずつゆっくりと言う。

「マヒロが好きだ。一緒に居たい。一緒に居られるの、今夜だけだから……」

 カズマは大切な物を扱うように、マヒロの指先一本一本にそっと口づけた。

「……カズマ……くん」

 薄暗い間接照明の光の中、初めて名前で呼んでくれたマヒロは、そっとカズマの手を握り返してきた。

 カズマはマヒロの顔を見上げた。彼女の表情は言葉では言い表せないものを湛えていたが、カズマは無視した。

「今、オレの手、握り返してくれたの、それがお前の答えだって……受け入れてくれたんだって、勝手に解釈するからな」

 最後まで何も言わないマヒロにもどかしい思いを募らせながらも、カズマは性急な動作で彼女のベッドに乗り上げた。巻きつけられた毛布を剥ぎ取って、華奢な体を抱きしめる。彼女の上着のジッパーを下げると、Tシャツの襟ぐりから首に赤い痣が見えた。カズマの中に、どこか凶暴な意識が目覚める。カズマはその痣を覆うように手のひらでマヒロの首を押さえた。マヒロが悲しげな眼で見上げている。

 こんなこと、いいのだろうか。

 ほんの少しの背徳感のようなものが芽生えかけたが、あえてそれを意識しないように、カズマは彼女の小さな唇にキスした。やわらかい唇の感触に、あっというまに気持ちが持ってかれる。もう、何も考えられなかった。首に触れているカズマの手に、マヒロの手がそっと重なる。その手首にとんぼ玉があった。

 間接照明の下で、じっと見つめ合ったあと、どちらからともなく唇が触れ合い、後は流されるままに求めるだけだった。

 マヒロはカズマを拒まなかった。感極まったように乱れて、少しだけ泣きはしたけれども。

 昂ぶった激情の波が去ると、カズマはマヒロを抱きしめてトロトロと浅い眠りに落ちていった。


 どのくらいそうしていたのだろう。大きな物音に、二人はビクッとして目が覚めた。

 薄暗い間接照明の明かりの中に、仁王立ちする人物を見て、マヒロが大きく息を飲んだ。

 震える唇でその名前を絞り出す。

「北斗さん……!」

 カズマは目を瞬いた。なぜここに居るはずの無い人物が居るのだ?

 薄暗い中で、彼の表情は良く見えない。

「……二人とも服を着ろ。見苦しいぞ」

 北斗は無機質な声で言って、一旦部屋から出て行った。カズマはベッドから転がり落ちるようにして、慌ててジャージを身につけたが、マヒロは毛布で体を隠したまま放心状態で座り込んでいた。目線は、北斗が出て行ったほうへ向けられたままだ。何と声をかけたらよいのか思いつかず、カズマはマヒロを残して部屋を出た。

 暗い廊下に腕組みをして立つ北斗の背後に目をやったとき、カズマは初めて全ての事態を把握した。

「ユキノ……なんで?」

 ユキノは俯いたまま携帯を握り締めて立っていた。カズマの視線を追うように、北斗はユキノに向き直ると言った。

「ユキノ、お前はいったい、何をやっているんだ?」

「だって、だってあたしは……」

 ユキノの声が震えている。

「もういい、行け」

 北斗はユキノに向って冷たく言うとくるりと背を向けた。表情を失くした顔が再びカズマに向けられると、その背後でユキノが何か言いかけて、思い直したように口をつぐんだ。ユキノはカズマを見もせず滑るように廊下を走って、二つ先のドアへと消えた。

 呆然としたまま閉じられたドアを見つめていると、北斗が感情の無い声で言った。

「もう……終わりだ。さっさと自分の部屋に帰れ」

 殴られるのを覚悟していたのに、意外にも静かに言われてカズマは我に返った。マヒロの部屋のキーを操作する北斗に、カズマは低い声で訊ねた。

「これからマヒロに暴力を振るうのか?」

 北斗は怪訝そうな顔でカズマを振り返ったが、何も言わなかった。カズマはその場に土下座すると、額を廊下にこすりつけるようにして言った。

「頼む、マヒロを傷つけたりしないでくれ。オレはいくら殴られてもいいから。彼女には手を出さないでくれ」

 北斗がドアを開ける気配がして、冷たい声が降ってきた。

「静かにしろ。私には時間が無い。このままマヒロを連れて帰らなければならないから、今ココでお前と話している暇は無い」

 バタンと大きな音でドアが閉まると、気配に気付いたのか、近くの部屋から話し声が聞こえて来た。カズマは大急ぎで階段を降りて自分の部屋へと引きあげた。


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