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女友達

 朝日が差すグランドは、清々しい秋の空とは対照的に、険悪な空気が満ちていた。昨日無断で部活をサボったカズマに対して、水村部長は特別メニューを課した。

「今日から一週間、朝と放課後だけでなく、昼休みも走れ。千五百を三本ずつだ。その他の練習は今までどおりだ」

 短距離走者の自分に中距離の練習は意味が無いように思ったが、文句を言うのは止めにして、カズマはただ黙って頷いた。いつになく大人しいカズマの態度に拍子抜けしたと見えて、水村はいくぶん声のトーンを和らげた。

「単なるシゴキだと言うやつも居るが、お前は中距離でも記録を出せるとオレは本気で思っている。余計な事を考えず走る事に集中しろよ」

 カズマは一礼すると一人でランニングを始めた。走る事に集中など出来るはずも無い。気がつけばマヒロのことばかり考えている始末だった。メールは出来なくなってしまい、直接会話する以外、コミュニケーションの方法は無い。カズマは一向に構わないと思っていたが、普段誰とも会話をしないマヒロにとって、やはり皆の前で自分と会話をするのは嫌に違いないと思った。それに、自分たちを監視しているらしい「誰か」の存在が大いに気になった。

 北斗に報告したければ、勝手にすればいい。

 カズマはトラックを回りながら徐々にペースを上げていった。

 教室に入るなり、カズマはギョッとしてマヒロに駆け寄った。彼女は顔半分が隠れるくらい大きなマスクをしていた。

「どうした? 具合、悪いのか?」

 カズマの問いに、マヒロは激しく首を横に振り「何でも無いの」と言った。尚も心配するカズマから顔を背け、マヒロは小声で言った。

「桃井くん、皆が見てるから……。席に戻って」

 カズマはぐるりと周囲を見渡した。マヒロの言うとおり、何人もの目が二人を見ていた。この中に北斗のスパイが居るのだろうか。そう考えると、何だか無性に腹が立ってきて、気がつくとカズマは立ち上がって大きな声で怒鳴っていた。

「見てんじゃねぇよ! マヒロが人妻だからって、別に話しかけたっていいだろ。クラスメイトなんだから!」

 言いたいことを言って、座ろうとした拍子に椅子が倒れた。完璧にクラス全員がカズマに注目していた。

 リクがへらへら笑いながら「ヒューッ」と口笛を吹くと、数人の女子がクスクスと笑って額を寄せ合った。カズマは眉根を寄せてクラス中を見回した。何だか今までと全く違う空気を感じた。こんな事は初めてだった。

 チラリとマヒロを見ると、彼女は小さな体をいっそう小さくして震えていた。

 背後に気配を感じて振り向くと、ユキノが倒れた椅子を直してくれていた。ユキノはカズマの肩に顔を寄せ、彼にしか聞こえない声で囁いた。

「カズマ、あんたが構えば構うほど、それはマヒロにとって迷惑なんじゃないかと思うけど?」

「どういう意味だ?」

 眉間にシワを寄せるカズマに、ユキノは「救いようが無いね」と言って肩をすくめると自席に戻った。


 ユキノの言った言葉をようやく理解できる事件が起こったのは、数日経ってからだった。

 昼休み、水村に課せられた特別メニューをこなし、汗を拭きながら帰って来たカズマは、マヒロの姿を見て首をかしげた。

 マヒロは四時間目に着替えたジャージのままで座っている。顔には相変らず大きなマスクをしたままだった。

 カズマはマヒロの背中をつつくと声をかけた。

「なんで、ジャージ?」

 振り向いたマヒロの目は真っ赤だった。カズマはギクリとして身を引いた。マヒロは何も言わずに背を向けると、午後の授業の教科書を並べ始めた。カズマは何となく声をかけづらくなって、そのまま口を閉ざした。

 放課後逃げるようにして教室を出てゆくマヒロを尾けて行き、校門の手前で捕まえた。

「放して、お願い!」

 本気で抵抗するマヒロを抱えるようにして、カズマはひと気の無い体育館の裏に彼女を引きずって行った。マヒロは寒くもないのにガタガタと震えていて、しきりに辺りを見回している。何だか目つきがおかしかった。カズマはマヒロの肩をつかむと、なだめるように声をかけた。

「マヒロ、何怯えてるんだよ。オレがお前に乱暴するはずないだろう?」

 マヒロは今初めてカズマを見つけたような顔をした。彼女の手から、学生カバンと共に紙袋がバサリと落ちた。何気なく目をやったカズマは、紙袋からはみ出したモノに目を奪われた。

「あ……」

 マヒロが手を伸ばすより先に、カズマは袋からはみ出た彼女のブラウスを手に取った。

 背中の部分に赤いマジックで文字が書かれていた。

『男好きのインラン女 ブス 死ね サッサと子供でも産んでろ! 学校来るな』

 マヒロはその場に座り込むと泣き出してしまった。カズマはどうして良いかわからず、ひどい中傷の書き付けられたブラウスを握り締めて突っ立っていたが、ふいに思い当たり、彼女の顔を覆う大きなマスクに手を伸ばした。

「ダメッ!」

 泣きながら慌てて顔を隠そうとするマヒロの前に跪き、カズマは彼女の顔を覗き込んだ。

 もうだいぶ腫れは引いていたが、彼女の唇には切れた痕があった。

「北斗に、殴られたのか?」

 マヒロはとうとう地面に突っ伏してしまった。マヒロがマスクをしてきた日の事を思い返した。あれは確か、車の中で彼女と会話をした次の日だったと記憶している。運転手から話が行ったのだろうと想像がついた。

 カズマは無意識に周囲を見回した。誰も居ない事を確認すると、突っ伏して泣いているマヒロを抱き起こして、そのままギュッと胸に抱きしめた。マヒロは無言で狂ったように抵抗してきたが、カズマは彼女の髪を撫でながら、耳元で優しく囁いた。

「大丈夫、誰も見てないから」

「本当に?」

 上目遣いで訊ねるマヒロに頷くと、カズマは彼女の切れた唇にそっと唇を重ねた。マヒロは震える指先でカズマのシャツの胸元を握り締めた。

 ――ドメスティックヴァイオレンス、夫婦間虐待――

 そんなDV夫の居るあの家にマヒロを帰したくなかった。

「マヒロ、あんなところ出ちまえよ。オレのところに来い」

 マヒロは黒目がちの瞳を大きく見開いてカズマを見上げた。

「うちの母ちゃん、結構話わかる人間だからさ、きっと話せば力になってくれると思うし」

 マヒロはふっと目を伏せると、カズマの腕から身を引いた。地面に落ちているブラウスを紙袋に押し込みながら、マヒロはハッキリと言った。

「逃げたって、ダメだもの。結婚しちゃってるんだから、どうにもならないことぐらい、桃井くんだって、わかってるよね」

 立ち上がってカズマを見下ろしたマヒロの目は切なげだった。マヒロは涙を拭うと、懸命に笑顔を作って言った。

「修学旅行、行かせてもらえるようになったから。それが今の私の楽しみなんだ」

 逃げるようにカズマの脇をすり抜けたマヒロを引き止めることも出来ず、カズマは無力感に囚われたままその場に座り込んでいた。


 マヒロに対する、誰ともわからぬ陰湿なイジメはその後も度々あった。それは決まってカズマの居ない昼休みに起きているようだった。物が無くなったりする程度は、子供じみた嫌がらせの範囲だろうと思ったが、ずぶ濡れでトイレから出てきた彼女を見たときには、もう黙ってはいられないと思った。体操服を掴んで女子更衣室へ走ってゆくマヒロの後姿を見ていたカズマは、通りかかったユキノを捕まえた。

 今しがた目撃した事を話すと、ユキノは驚いたような顔になり、すぐにマヒロの後を追ってくれた。

 数分後、ユキノは一人で戻ってきて、マヒロは保健室で休んでいると言った。

「いったい、何があったんだ?」

「よくわからないけど、トイレに入っていたら外からドアを押さえられて出られなくなったんですって。それで暫くしたら上からホースで散水されたって……」

 カズマは爪を噛んでいたが、やがてユキノに向き直ると小声で訊ねた。

「誰がやってるか、知ってたら教えてくれ」

 ユキノは顔をしかめると、小声で言った。

「私は知らないよ。はっきり言って、捜す気も無いし。だけど、今回の犯人捕まえたからって、イジメが無くなるとも思えないんだけど」

「どうして?」

 首をかしげるカズマに、ユキノはため息混じりに言った。

「彼女がいじめられる原因は色々あると思うけど、その一つがアンタなんだよ」

「え?」

「結婚しているくせに、学年で一、二番人気のカズマにまで色目使ってるってさ」

 な……! カズマは絶句した。何とか言葉を絞り出す。

「色目って……じゃあオレがお前としゃべってると、ユキノ、お前もいじめられるのか?」

 バカじゃないの? と、ユキノは鋭い流し目で睨み付けた。

「あの子大人しいから、絶対に抵抗しないって思われて、それで相手が調子に乗るんだ。女子のイジメって、大抵そういう流れでエスカレートするのよ」

 お手上げ状態だった。何とかしてやりたいと思うカズマの行動は、ことごとくイジメという形でマヒロに降りかかる。たとえ学校に来なくても、北斗の耳に入れば、マヒロは教育的指導の名の下にあの家で暴力を振るわれるのだろう。

 彼女を守ってやる事は出来ないのか?

 修学旅行が楽しみだと言っていたマヒロ。来週に迫ったそのイベントだけは、楽しく過ごさせてやりたい。カズマはユキノに頭を下げて言った。

「なあ、ユキノ。お前に頼む筋合いの事じゃないけどさあ、修学旅行でマヒロがいじめられないように、それとなく見てやってくれないかな」

 ユキノの目が大きく見開かれた。

「カズマ……あんた、何言ってるのかわかってるの? 私、あんたに(こく)ったんだよ? その私に……!」

 呆れて言葉を失くすユキノに、カズマは再び頭を下げた。

「だから……お前には悪いと思ってるよ。だけど、オレがいくら庇っても、庇いきれないし……てゆうか余計に逆効果だって、お前たった今、言ったじゃないか」

 昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。ユキノはふくれっ面をしたが、やがていつもの調子に戻って渋々頷いた。

「わかったわよ。友達の頼みは断れないからね」

「頼むよ、アネゴ」

 手を合わせて拝むカズマにデコピンを一発食らわすと、ユキノは自席に戻って行った。


 カズマの頼みどおり、ユキノは修学旅行に向けて出来るだけ手を尽くしてくれたようだった。『旅行のしおり』を手にしながら、カズマの横で弁当を食べていたリクがポツリと言った。

「ユキノ、一生懸命だったぜ」

「え?」

 カズマは箸を休めてリクの手の中のしおりを見た。男女別の部屋割りのページだった。

「もう、原稿とかも出来ちゃってたところに、マヒロと同じ部屋にしてくれって頼み込んで、クラス委員から文句言われたり、部屋を代わる為の相手にも頭下げてさ」

 カズマは窓際の列に固まって弁当を食べている女子の集団を見た。その中にマヒロはいなかったが、中心には笑顔でおしゃべりに興じるユキノが居た。カズマは笑顔のユキノのから目を背けた。彼女の好意に甘えて、いいように利用している自分が堪らなく嫌なヤツに思えた。

「ユキノには……そのうちオレに出来る範囲で精一杯の礼をするよ」

 リクは冷めた目でカズマを見て言った。

「バカだな、カズマは。オレだったら、さっさとユキノを彼女にするけどな」


 部活を終えてから、カズマは久しぶりに繁華街のキャバクラに足を向けた。「スマイル」でのバイトは、学校にバレた時点で辞めさせられていた。

 ピンクの看板を掲げた雑居ビルの裏にある従業員通用口から中に入ると、店で一番人気のアユミと店長のツヨシのキスシーンに出くわして、カズマはうろたえた。

「なんだ、カズくんか。びっくりした」

 言葉のわりには全く慌てた様子も無く、アユミはツヨシの腕からするりと抜け出して店へと続く扉に消えた。

「に、兄ちゃん……ゴメン」

「バ、バカヤロウ。妙に気を回すな。あんなの、挨拶だ」

 ツヨシは赤くなりながら事務机のある一画へと歩いて行った。

「ツヨシ兄ちゃんとアユミさんって、恋人同士だったの?」

 カズマはニヤニヤしながらツヨシの後にくっついて歩いて行った。ツヨシは迷惑そうに振り返ると用件を言うように促した。

「北斗さんの事、知りたいんだけど」

 ツヨシは端正な顔に険しい表情を浮かべてカズマを見た。

「何が知りたいんだ?」

「アイツが、奥さんを……マヒロを殴る理由」

 ツヨシは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに無表情になると、ポケットからタバコを取り出して事務机の椅子に座った。壁際に立てかけてあるパイプ椅子を目で示し、カズマに座るように身振りで示すと、彼は咥えたタバコに愛用のジッポで火をつけた。銀色に何かブランドのようなロゴが入っている。そういったさりげないおしゃれな小物はツヨシによく似合っていた。

 ゆらゆらと立ち昇る白い煙を見ながら、ツヨシは記憶を手繰るように話し出した。

「アイツは北斗の家の養子なんだよ。高校二年のときに苗字が変わったんだ」

 母と妹と三人暮らしだったという北斗は学校一の秀才だったらしい。ただ、金に苦労をしていて、大学受験の関係で養子の話に乗ったのではないかとのことだった。

「北斗の家は代々政治に縁がある家柄らしくてさ、アイツの場合頭が良くて政治にも興味を持っていたから、息子として、というよりあの女代議士の一族を補佐する為に選ばれた戦力だったんじゃないかと思うんだ」

「女代議士?」

「そう、アイツが今秘書をしている独身女性政治家。北斗の家はその政治家の家と関わりが深くて、代々つるんでは甘い汁を吸ってきたらしいよ」

 正義感が強く、純粋に政治に傾倒していた北斗青年にとって、腹黒い政治家たちとの付き合いは相当のストレスになったんじゃないかと、ツヨシは言った。

「あの女代議士がきちんとやれてるのは、たぶんアイツがそばにいるおかげだとオレは思うね」

 カズマは腑に落ちない顔で言った。

「だからってさ、ストレスを妻への暴力で解消するなんて、やっぱりおかしいよ」

 ツヨシも首をかしげた。

「それなんだけどさ、アイツの妹がちょうどお前と同じくらいの歳なんだよな。ってことはマヒロさんと変わらないくらいだろう? 北斗はそりゃ妹思いの男だったから、そのDV夫っていうフレーズが、どうも納得できないんだよな」

 カズマは難しい顔のまま「スマイル」を出た。北斗という男が、どんなに嫌なヤツなのか確認したくてココまで来たというのに、何だかますますわからなくなってしまった。彼の弱味の一つも聞けるかもしれないなどと、ツヨシを訪ねたが、逆に今の自分と同じ年の頃の、彼の苦労話を聞かされてしまい、先日言われた事が、かなりの重みでカズマの頭にのしかかってきただけだった。愛の無い結婚を選択せざるを得なかったのも、養子ゆえの苦渋の選択だったのかもしれない。その彼が、キャバクラでハメを外し、女を買って何が悪いか。

 やべぇ、これじゃあ、オレ、まるっきりアイツの味方じゃないか!

 ため息をついて佇むカズマの周囲は、夕闇が色濃く深まり、赤やピンクのネオンが目立ち始めていた。もうあと半時もすれば、この界隈は娯楽を求める大人たちで活気づく。補導されないうちに、早く家に帰ろうと思い歩き出したとき、声を掛けられた。

 振り向くと、従業員通用口からアユミが顔を出していた。アユミは後ろ手にドアを閉めると、カズマをチョイチョイと指で呼んだ。

「参考になるかわからないけど、カズくんだけに教えてあげるね」

 ツヨシには絶対に言わないでね、と口止めして、アユミは意外なことを教えてくれた。

「私をお持ち帰りした日、ホテルで二時間、私と彼何してたと思う?」

 ホテルでする事といえば一つしかないだろう! そう思いながらも、カズマは顔を赤らめて首をかしげるに留めた。

「ワインを飲みながら話をして、それから要求された事が……」

 カズマはゴクリと唾を飲み込んだ。アユミは悪戯っぽい顔でカズマの様子を見て楽しんだ後、言った。

「……膝枕」

「はあ?」

 カズマの頭に激しく?マークが飛んだ。

「二時間……膝枕?」

「そう、二時間、膝枕。でもけっこうなお金もらってさすがの私も心苦しかったから、抱いてもいいわよって言ったの」

「で、どうしたの?」

 カズマはドキドキしながら訊ねた。

「あっさり断られちゃって、プライド傷ついたわ。だから、ツヨシには言わないでね。色気が無いからだって、笑われそうなんだもの」

 アユミの話を聞いて、カズマはますます混乱してしまい、頭を抱えて家に帰った。


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