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しのびよる影

 週末のキャバクラは、ハメを外した男たちで賑わっていた。よくもこんなに金とヒマを持て余した男たちが居るものだと、カズマはしらけたような目で、酔って騒ぐ大人たちを見ていた。

「カズく~ん、こちらにシャンパン一本入れてくれるぅ?」

 甘ったるい声で、ナンバーツーのミキが店中に聞こえるようにオーダーを入れた。こうやって、客の競争意識を煽るのも、やり手のホステスのテクだそうだ。ミキの声をかわきりに、再び店内が活気づいた。もうそろそろバイト終了の時間だったが、この分では定時上がりは無理そうだった。

 オーダーされたシャンパンとつまみを持って行くと、ミキのテーブルになぜかアユミの上客が居た。清潔そうな身なりに、涼しげな目元をキリリと引き立てる縁無しのメガネ。確か女性議員の秘書をしていると言っていたっけ。

 カズマは興味をそそられて、ボックス席の背後の壁際に立った。近くのキャビネットを整理するフリで、客とミキの会話に耳を傾ける。

「ボクはあの女議員にいつも奉仕させられてるんだよ」

「だからこうやってプライベートではハメをはずしてるのね」

 男性はかなり酔っているようだった。ミキの滑らかな太ももに手を置いて、男は注がれる酒を一気に煽った。

「でも、新婚なんでしょう? 奥さん寂しがってるんじゃなあい?」

 アユミと同じ事言うな! と、男は不機嫌そうに言って、ミキの太ももをピシャリと叩いた。カズマは思わず割って入ろうかと思い、一歩動いたとき、誰かに腕をつかまれた。

「あ……」

 人差し指を唇に当てたツヨシが立っていた。

「騒ぐな、ミキなら大丈夫だ」

 カズマはツヨシと並んで男性客の会話に集中した。

 男性は「ははは」と笑い、ミキのこめかみにチュッとキスして無礼を詫びた。

「キミみたいに大人ならよかったんだけど、あいにくウチのは子供でね。男を喜ばせる事は何ひとつ知らないんだよ」

「あら、じゃあなおさら、しこみ甲斐があるじゃない」

 ミキが含み笑いをする。男性は苦々しげな顔をすると言った。

「冗談は止めてくれ。何でボクがそんな事までしなきゃならないんだ?」

 ミキはキョトンとした。

「だって、奥さんでしょう?」

「妻と言ったって、形だけさ。あの女議員の都合だよ。ボクとの関係がすっぱ抜かれた途端に、知り合いの娘をボクに押し付けて、今すぐ婚姻届を出せってね」

「まあ、ひどい!」

 ミキの相槌に気を良くしたのか、男性はべらべらと日頃のうっぷんを吐き出し始めた。

「だから、結婚に愛なんか無いのさ。カモフラージュだよ。新婚ほやほやの秘書が、上司である独身女性議員に手を出すはずもないってね。あの女、いいタマだ。散々ボクにベッドの相手をさせたくせに」

「でも、奥さん一人で家にいるのでしょう?愛が無くても、なんだか可哀想じゃない? 少しは構ってあげたら?」

 カズマが興味を無くしてその場を離れようとしたとき、男性の口から思いがけない名前が飛び出した。

「……ああ、構ってやらなくてもいいんだよ。そのほうが、マヒロも気が楽だろう。初夜に抱いたときなんか、初めてだったから痛がって……それから何度してやってもなじまない。アイツと居ると、ボクも疲れるんだ」

 カズマはマジマジと酔っ払った男性を見つめた。

 コイツが、マヒロの……!

 カズマは両手の拳が白くなるほどに、強く握り締めた。

 こんなサイテー野郎が、マヒロの夫!

 胸がムカムカして、飲んだわけでもないのに吐き気が込み上げてきた。

 こんなヤツが、マヒロを抱いてるなんて!

 許せない! 絶対に許せない!

 カズマの様子に気付き、ツヨシが声をかけてきた。

「おいカズマ、どうした? 気分でも悪いのか?」

 ツヨシの声にミキと男性客が振り向いた。カズマはお客であるマヒロの夫をキッと睨み付けると、思わず捨てゼリフを吐いた。

「マヒロは、籠の鳥じゃないんだぞ!」

 ツヨシの呼び止める声が聞こえたが、カズマは振り返らず、バーテンダーのコスチュームのまま深夜の街に飛び出して行った。


《桃井くん、今何してますか? 私は編み物をしてます。桃井くんが走る姿を見てたら、私も何か始めたくなったの。不器用だから、失敗ばかりしてちっともはかどらないけど、出来上がったら一番に見せるね。月曜日は学校へ行けそうです。ではでは、おやすみなさい  マヒロ》


 深夜の街角で、カズマは携帯を握り締めた。

 酔っ払って家に帰ったアイツは、マヒロを抱くのだろうか。

 どうにもならない悔しさと切なさで涙が出そうだった。カズマはシャッターの閉まった弁当屋の壁にもたれかかると、ずるずると座り込んだ。夜空には見事な月が出ていたが、見上げるカズマの視界には何も映っていなかった。


 朝練の途中から雨が降り始めた。グランドに出ていた生徒は大急ぎで引き揚げなければならないほどの激しい降り方だ。

 体育倉庫の屋根の下に駆け込んだカズマの頭にタオルがパサリと投げられた。

「台風、来てるんだよね」

 ユキノが恨めしそうに屋根から落ちてくる雫を見上げて言った。彼女が口を利いてくれたのは、マヒロの弟に会った日以来だった。カズマはユキノのタオルで顔を拭くと、「サンキュ」と言って返却した。

 他の部員が体育倉庫にハードルやマットをしまうのを手伝いながら、ユキノはいつもの調子で言った。

「あの事、気にしないでね」

「え……?」

 カズマは片付けの手を止めてユキノを見た。気まり悪そうな表情から、それが告白のことを言っているのだとようやく思い当たったが、カズマにとってそれは、もうとっくにどうでもいい事だった。

 ユキノはタオルを首に引っ掛けるとニコッと笑った。

「修学旅行で、誘えばいいじゃん」

 首をかしげるカズマに、ユキノは言った。

「札幌の自由行動。マヒロと二人になれるチャンスじゃない」

 カズマは曖昧に微笑むと、ゆるゆる首を横に振った。

「アイツ、修学旅行行かないんだって」

「え、そうなの? どうして?」

 そんなの、こっちが聞きたいよ。

 心の中にくすぶり始めた思いをもみ消して、カズマは会話を打ち切るように「お先」と言って教室へ戻って行った。


 久しぶりに見るマヒロの後姿だった。雨に濡れた髪を拭きながら席に座ると、本を読んでいたマヒロがチラリと肩越しにカズマを振り返った。ドキリとして固まるカズマに、マヒロは口の形だけで「お・は・よ・う」と言った。

 外は憂鬱な大雨なのに、彼女の顔を見ただけで自然とカズマの口元に笑みが浮かんだ。バイブにした携帯の受信メールを見て、さらに彼の表情が輝きを増す。


《お休みしている間の数学で、わからないところがあるので、昼休みに図書館で教えてもらえますか? 待ってます。  マヒロ》


 カズマは鼻歌を歌いながら、英語の宿題に取り組み始めた。チラチラと目を上げてはマヒロの小さな背中を眺めて彼女の存在を確認したりした。

 学校にいる間は、マヒロは自由だ。誰のものでもない。

 誰が聞いても勘違いも甚だしいと呆れるような、それはそれは勝手で、そして危険なカズマの解釈だった。

 昼休み、カズマはもう一度マヒロのメールを確認した。教室を見回すと、すでに彼女の姿は無い。数学は数少ない得意科目の一つだったので、カズマは胸を撫で下ろしながらノートを手に立ち上がった。

「カズマ、タケシたちがDS持って来たから、対戦ゲームしようぜ」

「わりィ、ちょっと……ぶ、部室行くから」

 リクの誘いをドキドキしながらかわすと、カズマは図書館に向かってダッシュした。

 昼休みの図書館は思ったよりも混雑していた。天気が雨だというのも関係があるのかもしれない。カズマはゆっくりと館内を見渡した。ほとんどが三年生ばかりだったので、正直ホッとした。マヒロの姿を探していると、誰かが袖を引いた。いつの間に来たのか、マヒロがすぐ横に立っていた。

「こっち、来て」

 彼女は小声で言うと、中二階への階段を上り始めた。

「ここ、上っていいのか?」

「うん、でも机が無いんだ。それにホコリっぽいんだけど」

 本当にそのとおりだった。一段上るたびに細かなホコリが舞い上がる。カズマは近くの本棚に目をやった。百科事典がずらりと並んでいる。インターネットが普及した今、百科事典を見る生徒など居ないのだろう。

 マヒロはホコリを気にする様子もなく、少しでも明るいと思われる窓際の一画の床にぺたりと座り込んだ。

 古い美術の画集が並ぶその一画は、腰を下ろすと他からは完全に隔離されて見えなくなった。すぐにその事に気付いたカズマは急に胸がドキドキしてきた。マヒロは全く気づいていない様子で、布地の手提げ袋から数学の教科書を取り出してぱらぱらとめくっている。

 カズマは自分のノートを広げながら、さりげなく尻をずらしてマヒロとの距離を縮めた。

 女の子特有の甘い香りにくらくらする。

「あの、ここが良くわからなくて」

 ふいに質問されて、カズマはマヒロの方に目を向けた。驚くほど近くに彼女の小さな顔があった。黒目がちの大きな瞳を見た瞬間に、もうカズマはセーブが利かなくなっていた。

 激しい雨が腰高の窓を叩き、階下のざわめきが波音のように辺りに漂う。

 マヒロの艶やかな唇を見ているうちに、ふっと北斗の端正な顔が脳裏をよぎった。

 あの男が、この唇にキスするのだ。そう思うと、胸の中に熱を持ったどす黒いモノが渦巻き始めた。カズマの頭の中に、酔っ払った北斗がマヒロをムリヤリ抱こうとしているヴィジョンが浮かんだ。ベッドに押し倒されるマヒロ、その上にのしかかり、泣いている彼女の体を強引に開いてゆく男の図。

 北斗を殴りたいと思う。今すぐにボコボコにしたくてたまらない。黒い熱が体中の毛穴から湯気を立ててあふれ出しそうだ。自分の負の感情をどうしたらいいのかわからない。

 マヒロはそんな行為を望んでないんだ。今、マヒロはオレといる。オレに向かって微笑みかけてるじゃないか。

 顔を近づけて、カズマはマヒロの小さな唇にキスしていた。軽く触れ合うだけの口づけ。キスは初めてじゃないのに、初めてのときみたいに緊張した。

 何が起きたのかわからない様子で、マヒロはぼんやりとカズマの顔を見上げている。

 今、マヒロにキスしたのは、誰でもなくオレだ!

 そのことを自分にもマヒロにもハッキリとわからせるために、今度は彼女の頬を両手で包み込むとカズマはありったけの思いを込めて口づけた。緊張のせいだろうか、歯がぶつかった。

「……ん……っ……」

 思わず叫びだしそうな彼女の声を強引なキスで塞ぎながら、逃れようとする華奢な体をギュッと抱きしめる。合わせた唇から観念したようなマヒロの吐息が漏れた。すると、浄化されたように黒い感情が静まり、カズマの心を透明な水が満たしてゆく。

 マヒロの体からふっと力が抜けたのを確認すると、カズマは唇を離して彼女の瞳を覗き込んだ。

「驚かせてごめんね。でも、これがオレの気持ちだから」

 マヒロは涙目でカズマを見上げてしきりにイヤイヤをしている。彼女の云わんとしている事が手に取るようにわかった。

 ――ワタシハ ヒトノ ツマ デス

 絶望的な思いに囚われながらも、カズマはマヒロをさらに強く抱きしめた。甘い香りのする耳元で吐息と共に囁く。

「マヒロが誰のものでも、カンケーねぇから。オレが一番お前の事好きだから。アイツなんかより、ゼンゼン本気だから……だから……」

 言ってるうちに、カズマ自身も何がなんだかわからなくなってしまった。告白に対するマヒロからの返事は当然もらえず、カズマはハアハアと荒い呼吸を繰り返しながら、チャイムが鳴るまでずっとマヒロを抱きしめていただけだった。ただ、最後にマヒロが両腕をしっかりと背中に回してくれたことだけは覚えていた。


 五・六時間目のホームルームは、間近に迫った修学旅行のグループ分けなどだったが、マヒロの参加しない修学旅行など、今のカズマにとっては何の魅力も無かった。

 学級委員があらかじめ用意した案に従って、速やかに議事が進行してゆく。

「じゃあ、見学のグループは今座っている席順で六名ずつとします」

 カズマは欠伸を噛み殺しながら、斜め前のマヒロをぼんやりと見ていた。席順にしたがってのグループ分けならば、当然二人は同じグループで四泊五日をずっと一緒に行動できたはずなのに。考えてみてもどうにもならないと諦めてウトウトし始めたとき、ふいに胸ポケットの携帯が震えてカズマは一気に覚醒した。

《マヒロが修学旅行に参加しないのは、旦那に「行かなくていい」って言われたからだって》

 ユキノからのメールに、カズマは眉根を寄せた。いくら夫だからと言って、そんな事にまで口を出す権利があるのだろうか。

 カズマは険しい顔のまま、斜め前の小さな背中を見つめた。

 翌日も、昼休みを二人で過ごした。図書館の中二階は二人だけの秘密の隠れ家のようだった。昨日とは打って変わって晴天の本日は、窓から暖かな光が差し込んでいる。本棚に背をもたせ掛け、並んで教科書を開く。昨日は勉強どころではなかったけれど、今日はマジメに数学に取り組むつもりでいる。

 本気で好きになった女の子に、下半身主体のヤツと思われるのは、絶対に嫌だった。

 カズマのノートをキレイな文字で写し取るマヒロをじっと見つめる。マヒロは本当に物静かな子だった。会話をすれば一方的にカズマが中心だったが、それでも一緒に居るだけで温かな空気を感じた。植物のようなマヒロの沈黙は、カズマにとってどこか心地良かった。マヒロと居ると疲れると言っていた、彼女の夫の神経が理解できなかった。

 嫌なヤツを思い出しちまった……

 こんなに近くに居るのに、婚姻という呪縛の糸で他の男とつながれている事が口惜しい。

 ちょうどノートを取り終わったマヒロが顔を上げてお礼を言った。カズマはドギマギしながらノートを受け取ると、躊躇いがちにそっとマヒロの細い髪に触れた。一束すくい取って口づけると、マヒロは真っ赤になって顔を背けた。

「ゴメン……少しだけ、触れさせて欲しい」

 返事も待たずに肩に回されたカズマの手を、マヒロは拒まなかった。


「おい、カズマ! 昨日も今日も、どこに行ってたんだよ」

 昼休みが終わって教室に入るなり、リクが背後からアームロックをかけてきた。

「部室だよ! く、くるし……」

 本当に息が詰まりそうで、慌てて振りほどこうとするカズマに、リクは妙な流し目で言った。

「さっきユキノに聞いたけど、お前部室に居なかったって言ってたぞ」

 カズマは内心大いに焦りながらも「行き違いだろう。何か用事か?」と言って逆に問い返した。

 リクはカズマを解放すると言った。

「用事があるのはオレじゃなくて、担任」

「え?」

 カズマが振り向いたとき、タイミングよく後ろのドアから入ってきた担任が、小声で彼を呼んだ。

「カズマ、ちょっと話がある。一緒に来てくれ」

 ざわめきの中、カズマは担任に付いて教室を出た。シンとした廊下を歩き、階段の踊り場まで来ると、担任は立ち止まってカズマに向き直った。

「実はお前が風俗店で働いているという情報が校長に直接寄せられたんだ」

 カズマは思わず息を飲んだ。担任は彼の仕草で事実関係を敏感に読み取ったようだった。

「何か、事実と違っている所はあるか?」

「……ないです」

 カズマは素直に認めるしかなかった。担任はため息をつくと言った。

「お母さんに連絡するけど、いいかな?」

「母は、知っています」

 担任は怪訝そうな顔をしたが、「教室に戻っていいぞ」と言って職員室に行ってしまった。

 カズマは教室に戻る気にもなれず、そのまま一階に下りて、非常口からふらふらと外に出た。どこまでも青くて高い秋の空が広がっている。カズマは校舎を回りこんで、先日ユキノと抜け出したフェンスの切れ目から学校の外に出た。行くあても無いので、このまえ散々蹴りつけた街路樹の側に座り込むと、今後の身の振り方を考え始めた。

 陸上部にはもう居られないだろう。退部するだけで済むかどうかはわからないが、部活に未練は無かった。つい先日までなら、全国大会出場が決まっている水村に申し訳ないと心から思っただろうが、例の理不尽なシゴキの一件で、もう水村に対しては何の後ろめたさも感じなかった。

 妙に吹っ切れた気分で立ち上がったとき、数メートル先の曲がり角から黒塗りの乗用車が現れて、カズマの目の前で停車した。

 いきなりの事にその場で突っ立っていると、後部の窓がスルスルと下がって、見た事のある顔がのぞいた。

「どこかでお会いしましたね」

 縁無しのメガネをかけたイケメンビジネスマンは、間違いなくマヒロの夫だった。

「私の妻が、大変お世話になっているみたいですね」

 カズマはギクリとして、一歩後ろに下がった。マヒロの夫・北斗氏は、形の良い口元に笑みを浮かべて言った。

「その節は、わざわざ私の妻に会いに家まで来てくださったのに、家の者が大変失礼をして、申し訳なかったです」

『私の妻』というフレーズを強調する北斗に、カズマは両手の拳をきつく握り締めた。黙ったまま睨み付けていると、北斗はバカにしたように言った。

「ところで、余計なお世話かもしれませんが、授業時間中なのに、こんなところに居てもいいんですか?」

 カズマは言い返す言葉が見つからず、唇をキュッと引き結んだ。北斗はカズマの顔を面白そうに眺めて言った。

「公立でもけっこうレベルの高い進学校だと聞いていたのに、残念です。平気で校則をやぶったり、授業をサボったりするような生徒が居るなんて、信じられませんね」

 今の北斗の言葉で、カズマはようやく事態が飲み込めた。

「バイトの事、校長にチクッたのは、あんただな?」

 カズマの物言いに、北斗は顔をしかめた。

「こんな不良の生徒と一緒では、マヒロも落ち着いて勉強などできないでしょう。やはり転校の手続きを取ったのは正解でしたよ」

 カズマの瞳が大きく見開かれた。

「転校……?」

「マヒロはまだ何も知りませんが。ま、どのみち私が決めた事には逆らわないように(しつけ)ていますからね。編入先が決まり次第、転校させます」

 カズマが何か言おうと口を開きかけたのを遮って、北斗は冷たい口調で言った。

「……クラスメイトでも何でもなくなったら、もうマヒロに近付く理由は見当たらないでしょう」

 こ、こいつ!

 スルスルと閉まりかけた窓に、カズマは咄嗟に自分の腕をねじ込んだ。

「あんたさっき、マヒロの事、妻だって連呼したよな。なのにどうして彼女の事、所有物みたいに扱うんだ?」

 カズマの言葉に、北斗はキョトンとした顔で首をかしげる。しまりかけた窓がスルスルと再び開いた。

「……キミはおかしな事を言うな。所有物みたいではなく、マヒロはまさに私のモノなんだよ。婚姻とはお互いがお互いのモノになるという、一種の契約だ」

 カズマはぐっと言葉を詰まらせた。『婚姻』『契約』そんな単語に何だかとても重みを感じた。

「わかっていないようだから、ハッキリ言っておく。ボクは結婚に際して彼女に無理強いをした覚えは無い。婚姻届にサインをしたのもマヒロの意志だ。未成年の彼女を妻にしたことは、ボクにとっては少々計算外だったが、それでもボクなりの誠意は尽くしているつもりだ」

 カズマは北斗をキッと睨み付けた。

「構ってもやらず、ただ閉じ込めておく事がアンタの誠意なのか?」

 北斗は話にならないといった態度でカズマを見て言った。

「キミはどこに目を付けているんだ? 結婚とは恋愛ごっこじゃないんだ。相手の人生を丸ごと面倒見る、それが結婚だ。ボクはマヒロに何不自由のない生活をさせてやっているし、義務教育でない高校にだってキチンと通わせている。安全の為の送り迎えだって付けてやってるのに、どいつもこいつも!」

 彼は後部ドアを開けると、車の外に降り立った。

 カズマはギョッとして一、二歩後ろに下がった。

「アイツが死んだような目をしていたって、これ以上ボクにどうしろっていうんだ! ボクはやるべきことはやっているし、責任は果たしている!」

「で、でも……彼女の事、なんでもかんでもアンタが決めてしまうのは、それは違うだろう? 修学旅行だって学校の勉強の一部だ。それを行かなくてもいいなんて、アンタが決めるのはおかしいし、それに転校だって……」

 何かがおかしいと思ったが、うまく言葉で言い表せず、カズマの声がだんだんと小さくなった。

 黙って聞いていた北斗の目が鋭く細められた。ずいと目の前に立たれて、カズマは息を飲む。北斗氏は、カズマより背が高かった。趣味の良い濃紺のスーツにはシワ一つ無く、清潔に切りそろえられた髪は、一筋の乱れも無い。完璧な成人男性の風格を漂わせて、北斗はカズマを見下ろした。

「まったく、物好きなヤツが居たもんだな。あまりに存在感が無くて、親にさえ十数年も忘れられていたような娘なのに」

 北斗はさもおかしそうに「ハハハ」と笑って言った。カズマは怒りで真っ赤になった。

「マヒロをバカにするな! あんた、店で彼女を愛してないって言ったよな。偽装結婚だって。それなら、婚姻届を出したことで、もう十分だろう?」

「どういう意味だ?」

 北斗は怪訝そうにカズマを見下ろす。カズマはキッと彼を睨み上げて言った。

「愛してないって言ったクセに、どうして彼女を束縛するような事するんだ?」

「束縛?」

「訪ねて来た友達にも会わせず、電話も禁止でその上修学旅行も行かせない。歯医者の前でマヒロが泣いてたのは、どうせ実家に帰ることも禁止しているからだろう」

 北斗はまだ唇の端を歪めて笑っていた。笑いながら右腕を突き出し、カズマの胸にグイと拳を押し付けて言った。

「束縛じゃない。ボクは心配性なんだよ。安心して通わせていた学校にさえ、人のモノを欲しがる、お前みたいな常識の無いガキが居るのだからな」

「なに!」

「お前、マヒロが好きなんだろう?」

 北斗は優越感を滲ませた眼差しでカズマを見下ろした。

 カズマは胸に突きつけられた北斗の拳を払い退けた。相手が僅かによろける。北斗は冷たい目でカズマを睨みながら言った。

「何の取り柄も無いただの子供でも、マヒロは私の正式な妻だ。世間体というものがある。愛情云々の前に、貞操の問題なんだよ。言い替えるなら無知な妻に対する教育的指導だ」

 カズマはフッと口の端を歪めた。

「何が教育的指導だ! 貞操が聞いて呆れるね。自分はキャバクラ通いの挙句にキャバ嬢買ってるくせに」

 言った途端に胸倉を掴み上げられて、カズマは身を硬くした。どうやら触れてはいけない部分に触れてしまったらしい。北斗は引きつった顔で放り出すようにカズマを突き飛ばした。

「口を慎め! 社会の厳しさの何たるかもわからない、ぬるま湯に浸かったガキのくせに! 愛だの恋だのと、そんなくだらない事ばかりにうつつを抜かしてる青臭いヤツに、ボクのプライベートをとやかく言われる筋合いは無い!」

 北斗は言っているうちに、何やら興奮状態になってきたらしい。肉の無い白い頬に赤みが差した。

「アユミも、ツヨシも……その上こんなガキにまで! 口を開けば皆してマヒロが可哀想だという。いいだろう、ボクだってそんなに了見の狭い人間じゃない。修学旅行ぐらいは行かしてやるさ。ただ……」

 北斗はメガネの奥の目で探るようにカズマを見た。

「ボクの目の届かない所で、マヒロに妙なマネをしたら、法的措置をとらせてもらうからな」

「妙なマネって、何だよっ!」

 カズマはカチンときて声を荒げた。少しばかり後ろめたいだけに、怒鳴った声が震えた。

「お前はあまり頭が良さそうじゃないから、もう一度言う。愛情があろうと無かろうと、マヒロはボクの妻だ。その事はマヒロも十分承知しているはずだ。にもかかわらず、お前が妙な事をすれば……それはすべてマヒロの責任だ!」

 豹変したように声を裏返して怒鳴った後、北斗は憤然として乗用車に乗り込んだ。自動ドアなのに思いっきり叩きつけるようにして後部ドアを閉める彼を、カズマは呆然として見つめるばかりだった。


 放課後、カズマは校長室に呼ばれた。担任と共にソファに座っていたのは、母親ではなく従兄のツヨシだった。

 身内の商売を手伝っていたという、特別な事情を考慮されて、カズマは今回お咎め無しということになった。

 校長室を出たツヨシは、カズマに向かって深々と頭を下げた。

「カズマ、迷惑かけてごめんな」

「別に、いいよ」と笑うカズマに、ツヨシは激しく首を横に振った。

「オレ、自分の商売には誇りをもってるけど、やっぱり世間からは認められてないんだなって……何ていうか、ちょっと、ヘコんだっていうか……」

 カズマは前を歩くツヨシの広い背中を見ながら先程の北斗の言葉を思い返していた。 

 ――社会の厳しさの何たるかもわからない、ぬるま湯に浸かったガキのくせに!

「大人になるって、何だか大変だな」

「え?」

 ツヨシが何事かと目を丸くして振り返った。

「……マヒロの旦那も、大変なのかな」

 つぶやくカズマに、ツヨシは労るような目を向けただけだった。


 翌日の昼休み、また図書館で過ごす約束をしたにもかかわらず、マヒロは現れなかった。

 都合が悪くなったのかもしれないと思いメールしたが、返事は返ってこなかった。まだ昼休み中だったが、教室に戻ったカズマはぐるりと室内を見渡した。マヒロの姿は無い。

 仕方が無いので自席に座って五時間目の教科書を出そうとするとメモがひらりと落ちた。


『桃井くんゴメンナサイ。もうお昼休みに会うのは止めます。携帯で連絡したかったのですが、トイレに落として壊れてしまいました』


 無記名だったが、マヒロの文字だった。

 会うの止めるって……?

 いきなりの事に納得できなかった。予鈴が鳴ってもマヒロは現れない。ようやく彼女が戻ってきて席に着いた時には、ほとんど同時に前のドアから五時間目の先生が入ってきてしまい、声をかけるタイミングは無かった。

 何とか話をしたくて見計らっていたが、マヒロはわざとそうしているように、カズマの方を振り向くことは無かった。

 授業が全て終了したので、思い切って堂々と声をかけるつもりで腰を浮かしたカズマを、ユキノが呼び止めた。

「カズマ! バイトの事、聞いたよ。部長が激怒してるって、知ってる?」

「ああ、あの件なら、もう片付いてんだけど」

 ユキノと話している間に、マヒロはもう姿を消していた。カズマはため息をついた。

「『オレに対する嫌がらせのつもりで、わざとそんなところでバイトしてたに違いない』って、水村さんが、そう言いふらしてるらしいよ」

「ばかばかしい!」

 カズマは吐き捨てるように言うと、カバンを掴んで立ち上がった。水村の事も、マヒロの夫も、そして今日のマヒロの態度にも、全てに腹が立った。

 部室とは逆方向へ走りだしたカズマに、ユキノが慌てて声をかけた。

「ちょっと、どこいくの? 部活、出ないの?」

 ユキノを無視して、カズマは全速力で廊下を駆け抜けた。

 昇降口を出たところで、校門に向かって小走りに走るマヒロを発見した。門の外にはいつものとおり黒塗りの車が横付けされている。

「マヒロ!」

 辺りもはばからず、大声で呼び止めたカズマの声は、マヒロにも聞こえているはずだった。彼女は後姿のまま一瞬ビクンと肩を震わせたが、すぐに歩みを速めてそのまま迎えの車の後部シートに滑り込んだ。

「ちくしょう!」

 走り出した車を、カズマは全速力で追いかけていった。短距離走で県大会準優勝の成績は伊達ではない。あっという間に追いついたカズマは走る車のトランクをバシバシと叩いた。運転手はさすがに危険を感じた様子で、すぐにハザードを出すと路肩に停車した。

 後部ドアの窓ガラスを乱暴に叩くカズマを困ったように見つめてマヒロは、あきらめたようにするするとウィンドウを下ろした。

「マヒロ!」

 首を突っ込んだカズマを手で制して、マヒロは運転手に向って言った。

「すみません、彼と少しだけ、話をさせてください」

 運転手はカズマとマヒロを乗せて、学校から少し離れた住宅街の中の公園の近くに車を停めた。二人を車内に残したまま「三十分したら戻ってくる」と言い置いて運転手は車を降りた。彼の姿が見えなくなると、マヒロは消え入るような声で謝罪した。

「謝るくらいなら、すっぽかすな」

 カズマは怒ったフリをして、マヒロの反応を伺った。マヒロは泣きそうな顔で俯いている。もういじめるのは止めにしようと思い、彼女を抱き寄せようと手を伸ばしたとき、マヒロが言った。

「あの人……北斗さんは、悪い人じゃないの。だけど、とても厳しい人。自分にも、他人にも。私は結婚をするとき、彼の言うとおりにする代わりに、不自由の無い生活を約束してもらったの。それを違える事は、許さないって言われた」

 カズマはマヒロの肩を抱こうとしていた手のひらを、ギュッと握り締めた。震える唇から、思わず言ってはいけない言葉が滑り出す。

「どうして、好きでもない男と結婚なんてしたんだよ! どうして、そんなバカみたいな事、したんだよ!」

 俯いたマヒロの目元から零れ落ちた涙が、彼女の紺色のスカートに大きなシミを作った。

「……桃井くんにはわからない。誰かに依存するしかない、そんなお荷物みたいに暮らしてきた人間の気持ちは、絶対にわからない」

「マヒロ、何言ってんだよ」

 マヒロはしゃくり上げながら、ささやくように言った。

「お父さんが亡くなって、小さいときに私を置いて出て行ったお母さんを頼らなきゃいけなかった……。私を見たお母さんの顔が忘れられない。まるで幽霊を見たような顔だった」

 マヒロの弟が言っていたっけ。確か二年前に三井家に突然現れたマヒロのことで、大騒ぎになったと。

「三井の家に、私の居場所は無かった。だから私はなるべく居るか居ないかわからないように大人しくしてるしかなかった。でも、義父はそれなりに誠意を尽くしてくれた。それは義父の計算づくの誠意だったけれど」

「計算?」

「歯科医師会の幹部になる為に、国会議員の関係者と親戚づきあいをする必要があるので、三井の籍に入れてやるからすぐ嫁に行ってくれないかと言われたわ」

 カズマは絶句した。

「母は初めて私のために泣いて反対してくれたけど、その時の私は結婚の意味も深く考えられなかった。どこに居ても同じだと思っていた。……私って、本当にバカなのよ」

 マヒロは涙を溜めた瞳を真っ直ぐカズマに向けた。

「私ね、誰かに気にしてもらったり、ましてや好きだなんて言ってもらった事、今までに一度も無かったの。だから、とても嬉しかった。……ありがとう」

 カズマは険しい顔でマヒロを見た。まるでこれじゃあ一方的な別れ話のように感じる。

「ありがとうって……それだけかよ!」

 マヒロは俯いたまま黙り込んだ。車内のデジタル時計は無情に時を刻んでゆく。マヒロが観念したように重い口を開いた。

「北斗の家に泥を塗るようなマネをするなって。……北斗さんは、学校での私の行動にも目を光らせているらしいの」

「え?」

「誰かに頼んで、私とあなたの行動を見張らせているみたい」

 カズマの背筋に冷たい汗が流れた。図書館での秘密の逢瀬は秘密じゃなかったという事だ。

「今日、体育の間に、私の携帯がバケツの水に沈められてた」

 マヒロは震える唇で、とぎれとぎれに声を絞り出した。

「次に沈めるのは携帯じゃ済まないって、メモがあって……。私に関わると、桃井くんに迷惑がかかるから。北斗さんは……そういったこと、必ず実行するような人だから」

 カズマは豹変したように自動車のドアを閉めた北斗を思い返した。

 北斗……。危ない男。

 怯えた目で見上げるマヒロの様子からしても、自分が判断した北斗という男に対する評価は、決して大げさではないのだろう。

 三十分時間をやると言ったくせに、遥か前方にもう運転手の姿が見えた。カズマは涙で濡れたマヒロの頬に優しいキスをすると言った。

「オレも、マヒロに負けず劣らずバカなんだ。だから、お前の事ぜったい諦めないから」

「桃井くん……!」

「オレがお前を自由にしてやる! アイツの籠から、出してやるから!」

 運転手が来る前に、カズマは後部座席から降りると、振り返らずに走り出した。


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