彼女の事情
三日たってもマヒロは来なかった。担任に聞きに行くと、頭のケガとは無関係の家事都合ということだった。腑に落ちない顔のまま職員室を出てきたカズマは、いきなり声をかけられてドキリとした。
「ユキノ……?」
ユキノは付いて来いというように、アゴをしゃくると、教室とは別の方向へ歩き出した。もうすぐ午後の授業が始まるというのに、どこへ行くつもりなのだろう?
無言のユキノについて行くと、彼女は下駄箱で革靴に履き替えた。
「おい、外、行くのか?」
困惑気味のカズマに、靴を履き替えるように指示しただけで、ユキノは元来た廊下を戻り始めた。
「おい~」
カズマは諦めて、再び黙って彼女について行った。
ユキノは普段使われていない非常口から校舎の外に出ると、建物を回りこむようにして、校庭の金網沿いに歩いて行った。確かこの先には金網の切れ目があり、学校を抜け出すときの便利な通路になっている。案の定、ユキノは金網の切れ目に体を滑り込ませると外のアスファルトに飛び降りた。
「授業サボってどこ行くんだよ」
とうとう黙っていられなくなったカズマはユキノの腕をつかんだ。振り返ったユキノは一瞬何かを堪えるような表情をしたかと思うと、フッと笑った。
「カズマさあ、マヒロと連絡とりたいんじゃないの?」
「え!」
不意打ちを喰らったように、カズマは言葉を失った。
「大当たり~」と言って、ユキノは踊るようにその場でくるりとターンした。短いプリーツスカートが跳ねる。
「知ってるなら、わざわざこんなことしなくたって……フツーにメアドとか教えりゃいいじゃねぇか!」
何だかからかわれているようで、真っ赤になったカズマはむっつりと低い声を出した。ユキノは苦笑いしながら言った。
「やだ、私あの子と交流無いもん。メアドなんて知らないよ。聞いてみたけど、クラスの女子、誰も知らないみたいだよ」
カズマは眉根を寄せた。じゃあ、なんで?
疑問が顔に出ていたらしく、ユキノはなだめるように言った。
「隣町の私立中学校にあの子の弟が通ってるんだって。だから、弟なら姉の事知ってるかもって思ったんだよ」
顔がわからないから、下校時刻に待ち伏せしてコンタクトを取るつもりだとユキノは言った。
「じゃあ、行こうか」
スカートの裾を翻して前を歩くユキノに、カズマはボソリと言った。
「お前……どうして?」
「さあね、どうしてかな……?」
ユキノは背を向けたままで応えると、僅かにグイと背筋を伸ばした。白いカーディガンの背中で、ユキノの茶色いロングヘアが秋風に揺れた。
マヒロの弟はすぐに見つかった。小柄でやせっぽちの少年は、見知らぬ高校生に怯えたような目を向けた。
「マヒロお姉ちゃんの、友だち?」
校門の前で立ち話をしていると、何台もの乗用車が校門を入って行った。少年は車を振り返りながら言った。たずねもしないのに。
「お迎えの車だよ。こんなの、毎日の、当たり前の光景さ。……でもボクは、バスで帰るけどね」
どこか口惜しそうな少年を見ながら、ユキノが言った。
「公立高校通いの庶民には、わかんない世界だわね……」
ユキノの提案で、三人は近くのファミレスに入った。
「弟が金持ち中学でさあ、どうしてマヒロは庶民の高校なわけ?」
大きなフルーツパフェをつつきながら、ユキノが無遠慮に言う。弟はようやく二人の高校生に馴れてきたようで、チョコレートケーキをほおばりながら言った。
「マヒロお姉ちゃんは、タネチガイだからだってさ。パパがそう言った」
ふーんと言って、カズマとユキノは目を合わせた。フクザツな家庭の事情ってヤツだ。
「マヒロお姉ちゃんは二年前にうちの子になったんだよ」
興が乗った様子で、少年は特ダネをバラすようにニヤリとした顔つきで言う。もっと聞きたい? と言っているようだった。
ユキノが笑顔でファミレスのメニューを差し出した。
「よかったら、もっと食べなよ。このおにいちゃんがご馳走してくれるから」
「な……!」
コーヒーをちまちまとすすっているカズマの目がつり上がったのもまるで無視し、ユキノはプリンアラモードを追加注文した。
弟の話によれば、二年前に急に母親にもう一人子供がいることが発覚して、三井家は大騒ぎになったとのことだった。
「お母さんがバツイチだったなんて、ボク初めて聞いたんだもん」
マヒロの父親が病気で亡くなったために、彼女は別れた母親をたよって三井家にやって来たらしい。
「マヒロお姉ちゃん、とっても大人しいから居るんだか居ないんだかわかんないし、ボクは別に好きでも嫌いでもないよ」
そう言って弟はカズマにマヒロの携帯番号とメールアドレスを教えてくれた。目的は達成したのでカズマが伝票を掴むと、ユキノが唐突な質問をした。
「ねえ、マヒロって、なんで結婚したの?」
カズマは首をかしげた。そんなの、縁があったからに決まっているじゃないか。
弟は「ふふふ」と目を細めて二人の高校生を見て言った。
「内緒だよ」と前置きして、彼はとんでもない事を口にした。
「やっかいばらいだって。それから、コネを作るため、とかなんとか言ってた。お母さんは泣いてたけど、お姉ちゃんが自分で決めたみたいだったよ」
黄色い街路樹を見上げながら、カズマはマヒロに思いを馳せていた。実家を見ながら一人で泣いていたマヒロ。お化け屋敷みたいな家で暮らすマヒロ。送り迎え付きで、友達と接することもないマヒロ。バラ色の新婚生活とはかけ離れたヴィジョンばかりがカズマの脳裏に去来した。
「あいつ、今ごろ何してんのかな」
ぽつりとつぶやいたとき、それまで黙っていたユキノが強い口調で言った。
「カズマ、何考えてる?」
「え……?」
「まさかと思うけど、マヒロを好きになったからって、どうにもならないんだよ」
カズマはユキノの顔をじっと見た。切れ長の目がカズマの瞳をとらえ、その奥の奥までさぐるように覗き込む。耐えきれなくなって目をそらしたカズマに、ユキノは厳しい口調のまま、諭すように言った。
「わかってるよね、カズマ。マヒロは人妻なんだよ。法律で定められた、北斗さんの正式な奥さんだ。誰かの彼女を取るのとは訳が違うんだからね」
ユキノの言葉が、カズマの胸に深く突き刺さる。
「そんなことわかってるよ。何言ってんだよ」
震える唇で言葉を絞り出し、カズマはユキノにくるりと背を向けた。わかっていると言いながらわかっていない自分を自覚して、動揺する顔を見られたくない。追いかけるように、ユキノの言葉が背中に聞こえる。
「マヒロのプライバシーを詮索するのは失礼なことだ。それに今日の目的は、あの子のケガの様子を知るために連絡先をつかむことだったはずよ」
ユキノは、まるでカズマの心を読んでいるように言う。
「あの子の結婚生活が幸せなのかそうでないかなんて、他人には決してわからないんだよ」
胸をえぐるようなユキノの言葉は、いちいちもっともだった。やり場のない感情が込み上げてきて、カズマは近くにあった街路樹の根元を思いっきり何度も蹴った。鮮やかな黄色の葉がバラバラと頭の上に舞い落ちる。
「やめなよ、カズマ」
ユキノがため息混じりに声をかけるが、カズマの行動は止まらない。幹がしなり、排気ガスをまとった葉が音を立てて落ち続ける。
「ねえカズマ、授業もさぼっちゃったことだしさ、これから二人でどっか行かない?」
「行かない」
間髪を入れずに即答し、カズマは木の幹を蹴り続ける。頭のなかをマヒロの弟の言葉がぐるぐる回る。
――やっかいばらいだって。
――マヒロお姉ちゃん、居るんだか居ないんだかわかんない。
そうじゃないだろ!
心の中でふつふつと何かが湧きあがり、カズマの思考いっぱいに膨れ上がる。
どうして、誰もアイツのこと気にしてやらないんだ? 同級生って、一年間同じ空間にいる、ただそれだけのことなのか?
ユキノがカズマの袖を引く。
「ゲーセンいく? カラオケでもいいよ。あたし、駅前の店の割引券もってるから……」
「行かねっつってんだろ!」
カズマはユキノの手を振り払った。大きく弧を描いた腕のやり場に困り、そのまま拳を固めて木の幹を一発殴った。散々蹴りつけられた街路樹からは、もう一枚の葉っぱも落ちてこなかった。
肩で息をして佇んでいたカズマは、急に背中から抱きすくめられて、大きく目を見開いた。ユキノがカズマの背中に顔を押し当てて囁いた。
「カズマにあの子をあきらめてほしくて、私、今日つきあったんだよ。あたし、本当は知ってたんだ、マヒロの結婚相手のこと」
「え……」
「北斗多一郎さん。お見合いのようなモノだって聞いたけど、なにか事情があるみたい。マヒロも……ずっと暗い顔してるの、気づいてたし」
「じゃあ、どうして?」
「カズマ、あたしのこと陸上部の仲間としか見てないけど、でもね、あたしはずっとカズマが好きだった」
「ユキノ……?」
胸に回されたユキノの手に力がこもる。カズマは固く組み合わされた彼女の細い指を見下ろした。自分の鼓動に重なるように、もう一つの鼓動を背中に感じる。
なんだか息が詰まる。
「あの子を見ないで、あたしを見て欲しい。マヒロはもう北斗さんのモノなんだから、どうしようもないじゃん。マヒロなんて、どうだっていいじゃん!」
いきなりの事に、どうしていいかわからず、カズマはユキノから逃れるように身をよじった。肩越しに、背中にしがみつくユキノの茶色い頭髪が見え、くぐもったつぶやきが聞こえた。
「初めて会ったときから好きだった。……あのとき、勝負に勝たなきゃよかったなって、ずっと後悔してたんだよ」
「え……勝負?」
今年の春休み、桜の木の下で初めてユキノに会った。四月にこの学校に編入する予定だから、陸上部に入れて欲しいと水村部長にあいさつしていたっけ。私服姿で陸上部の練習を見学していたユキノに、最初にちょっかいを出したのは確か自分だったと、急に思い出す。
――短距離やってんだって? じゃあ、オレと競争しない? 200の勝負でハンデ40メートルやるよ。
――あたし、けっこう早いわよ?
茶色のロングヘアのせいか、どことなく自分と同じようなニオイがしたし、つんとアゴを突き出す仕草がナマイキだったから、つい軽口を叩いたのだ。
――じゃあ、オレが勝ったらチューしてくれる?
そっと耳打ちすると、ユキノは不敵な笑みを浮かべた。
はやし立てる部員たちの声に押しだされるように、ユキノはフィールドに立った。カズマの脳裏に、すぐ前を美しいフォームで走るユキノの後姿が鮮やかによみがえる。ミニスカートから伸びた長い足、後方に流れる茶色いロングヘア。ゴールまでとうとう追いつかなかった、春の日……
二年生になったとき、同じクラスにユキノの姿があった。夏休み中も毎日部活で顔を合わせていたユキノ。姉御肌でサッパリしていて、あっという間にみんなに溶け込んだ彼女は、他の男子部員からも「アネゴ」と呼ばれて人気がある。そのユキノが自分に特別な感情を持っているなんて、思いもよらなかった。
「オレ、ユキノは水村部長が好きなんだと思ってた」
ユキノはカズマを解放すると、ポツリと言った。
「私はカズマみたいに人のモノを欲しがったりしないのよ」
街路樹の歩道を学校に向かって駆けて行く、ユキノの綺麗なランニングフォームを見つめながら、カズマは混乱する頭を抱えて途方に暮れていた。
部活の間、ユキノはカズマを無視した。憂鬱な気分で練習を終えると、カズマはバイト先のある繁華街へ向かった。バーテンダーのコスチュームに着替えてカウンターに入ると、店長のツヨシが険しい顔でカウンターのスツールに座った。
「ツヨシ兄ちゃん、何かあったの?」
ツヨシはハッとしたような顔をしたが、すぐにいつもの営業スマイルに戻ってニコッと笑った。
「カズマは悩みが無さそうでいいよなぁ」
パフパフとカズマの頭を叩いて、ツヨシは灰皿を引き寄せると、タバコに火をつけた。
もうすぐ開店の時間だが、のんびりしていていいのだろうかと気になり、カズマは当たり障りの無い事を言った。
「今日はアユミさん、遅いね。お休み?」
「……ああ、うん。……誰かと旅行だそうだ」
カズマの頭の中に、この間のアユミと上客の後姿がちらついた。
「その誰かって、きっとアユミさんの彼氏だ」
ツヨシの訝しげな視線に、カズマは違うという意味で両手をひらひらと振った。
「いや、以前に彼氏がいるみたいなこと言ってたし。……ただ、アユミさんみたいな仕事してるとさあ、その、彼氏っていつも心配じゃないのかなあ?」
何気なく言ったつもりが、なぜか睨みつけられてしまい、カズマはうろたえた。
「仕事なんだから、仕方がないんじゃないのかな。そんな事いちいち気にするような器の小さいヤツに、アユミの彼氏はつとまらないだろう!」
珍しく声を荒げるツヨシに、店内に居た女の子たちが何事かと一斉に振り向いた。
「週末のかき入れ時だっていうのに、ナンバーワンに連休されたんじゃ、商売にならない」
吐き捨てるように言うと、ツヨシは大股でフロアを横切って事務所へ続く扉に消えた。
ぼんやりと事務所の扉を見つめているカズマの前に、ナンバーツーのミキがやってきた。胸元の大きく開いた黒いニットワンピースにラメ入りのシルバーストールを羽織っている。やや濃い目の化粧が大人の女性の色気を惹き立てている。アユミが知的で清楚なら、OLをしているというミキは、スタイルと色気がセールスポイントだった。
「何か、アユミちゃんをめぐってお客とトラブってるらしいわよ」
「ふ~ん、大人も大変なんだな」と、わかった風な口を利いてみると、ミキはクスクスと笑ってカズマの頭をぐるぐる撫でた。乱されたヘアスタイルを気にしつつも、カズマがニコッと微笑んでみせると、ミキはとろけるような眼差しを返してきた。カズマの笑い方は年上女性の母性本能をくすぐるらしい。すかさず情報をゲットするためにたずねてみる。
「ねえ、そのお客ってだれ?」
「必ずアユミちゃんを指名する、店長の友人よ。何でも、女性議員の秘書をしているんですって。スーパーエリートよね。私にもそんなお得意さんが出来ればいいのに」
ミキはスツールから降りると、豊かなヒップをフリフリ来店したお客を出迎えに行ってしまった。
ここにいるといい勉強になるなといつも思う。女性のこと、客のあしらい、そんなことのほうがこれから生きてゆく上で学校の勉強より何倍も役に立つんじゃないかと思う。
カズマは早速注文の入ったシャンパンの栓を抜いた。楽しそうにお客と会話をする女性たちを目で追いながら、カズマはまたマヒロの事を考えていた。学校にも来ず、あの暗い屋敷の中でマヒロは毎日何をしているのだろう。あれほどの金持ちの家ならば、家事をする必要も無いだろうし、それが幸せと言えなくも無いが。
明日は土曜日だし……月曜日は学校に来るのかどうか、電話してみようかな。
カズマはポケットの中の携帯を握り締めた。
何度かけてもマヒロの携帯は繋がらなかった。仕方が無いのでメールを入れて連絡を待つことにした。
「このメールもいつ見てくれるやら」
土曜の午前十時、混み始めた商店街を歩く。大きなバッグを背負って部活に向かう道すがら、カズマはため息をついた。
学校の部室で着替えてグラウンドに出ると、部長の水村がたった一人で待っていた。
「あれ? みんなは?」
キョロキョロと辺りを見回すカズマに、水村は聞いたことも無いような冷たい声で言った。
「今日はお前だけ特別だ」
「へ……?」
「知ってのとおり、もうすぐ全国大会がある。お前は短距離だが、中距離もいけるだろう。オレの併せ馬として、中距離の練習につきあえ」
「何でオレだけ?」そう言おうとして、カズマは口をつぐんだ。グラウンドの片隅で、マネージャーの大橋キヨコがこちらを見ていた。
へー、そういうこと。
水村らしいやり方だった。彼女の前で徹底的に上下の差を見せつけようという魂胆が見え見えだった。どちらが実力があり、どちらが上に立つものなのかをハッキリさせようというのだろう。
バカらしい! カズマは心の中で水村に向って唾を吐いた。
千五百メートルを十本走らせたところで、水村はようやくカズマを解放した。走り慣れていない中距離はペース配分が難しく、カズマはゴールに倒れたまま大きく胸を喘がせた。
酸欠状態でグラウンドに転がっているカズマを一人残して、水村とキヨコはサッサと引き上げて行った。
――人のモノに手を出すからだ。
そんな水村の声が聞こえた気がしたが、限界を超えていたカズマの意識は、とうとうフェードアウトした。
携帯の着メロで意識を取り戻した。いつの間にか陸上部の部室に転がされていた。
ふらつく足で立ち上がり、ロッカーの中から携帯の入ったバッグを引きずり出す。
「……もしもーし」
掠れた声で応答すると、ゲラゲラ笑うリクの声が流れ出した。
『気がついたらしいぞ、ギャハハハ、え? そうそうカズマだよ!』
複数の男子の声が不愉快な雑音となって、耳に流れ込む。どうやら倒れたカズマは野球部の連中によってここまで運ばれたらしい。
『火遊びもたいがいにしろよな!』
嫉妬に狂った水村によって、理不尽なシゴキを受けるカズマを見て、野球部の連中はかなり楽しんだようだった。
「見物料金払え!」
カズマは大声で喚いて通話を切った。携帯を放り出し、汗と砂にまみれたTシャツを脱いで部室の床に叩きつける。すると転がっていた携帯がメールを受信した。メッセージを見たとたん、腹立たしさが一気に消しとんだ。
《メールありがとう。とても嬉しかったです。
私は今、学校の図書館に居ます。少しだけなら時間があるので、部活が終わったら寄ってみて下さい マヒロ》
「やった!」
カズマは大急ぎで制服に着替えると、図書館を目差して走り出した。さっきまで酸欠状態で気を失っていた人間とは思えない、見事な走りっぷりだった。
――人のモノに手を出すからだ。
先輩からのありがたい忠告は、カズマにとって何の教訓にもなっていなかった。
窓際の日当たりのよい席に、北斗マヒロはポツンと座っていた。土曜日の午後、広い図書館には他に人影は無かった。図書館など、一年生の最初の頃に一度来たきりだったカズマは、少々緊張気味に静かな室内を移動して行った。椅子を引いて正面の席に座ると、マヒロは読んでいた本から目を上げた。
「……ケガ、大丈夫?」
声をかけると、マヒロは一瞬首をかしげ、それから「ああ……」と言って頷いた。
「あの時は、ありがとう……。その、わざわざ、保健室まで……」
小声で言って、マヒロは真っ赤になった。彼女を抱っこしたときの温もりと重みが鮮やかに甦ってきて、カズマは無意識に胸を押さえた。
柔らかな日差しに包まれた図書館に、心地良い沈黙が降りて来る。カズマはふと思いついて自分のカバンを探ると、マヒロの目の前に、昨日配られた数枚のペーパーを置いた。
「これ、修学旅行のプリント。見てないだろう?」
マヒロは目を輝かせてプリントを手に取った。
「来月だね。北海道か……私、行ったことないんだ」
「オレもだよ」
ニコッと笑ったカズマに目を向けて、マヒロはポツリと言った。
「修学旅行、行きたかったな」
マヒロはカズマの手にプリントを返すと、淋しそうに笑った。
「私、修学旅行、行けそうもないから」
「え……」
家の都合なのだろうか。しらなかったとはいえ、カズマは自分のタイミングの悪さ呪った。
「楽しんできてね」と言ってマヒロはふわっと柔らかい笑みを湛えた。ほんのり色づいた頬と、可愛らしいピンクの唇にドキリとする。
「おみやげ、いっぱい買ってきてやるよ」
照れ隠しに言うと、マヒロは目を輝かせて「ありがとう」と小さく頷いた。
マヒロの帰る時間になってしまったので、二人は並んで図書館を出た。何だかもう少しだけでも一緒に居たくて、カズマはわざと遠回りをするように、校舎の裏手の道を選んだ。マヒロは大人しくついてきた。
黄色く色づき始めた銀杏の木々を横目で見ながら、カズマは思い切って言ってみた。
「あのさあ、たまに電話とかしても、いいか?」
彼女の足が止まったので、カズマは何気なく振り返った。マヒロは困惑したような表情で、ゆるゆると首を横に振っていた。
「携帯にでも、ダメ?」
気軽な様子を装ってみたが、結果は同じで、さらにトドメのようにマヒロの口から拒絶の言葉が流れ出た。
「……北斗さんに叱られるから。ごめんなさい」
――北斗さん
よそよそしい言い方だったが、すっかり舞い上がって忘れていた。いや、忘れたフリをしていた。
「そっか、旦那に怒られちゃうよな。そりゃそうだ、うっかりしてた。……オレって、ダサいな。なんか、お前とゆっくりしゃべれたの初めてだったから、すっかり友だち気分で浮かれちまった」
あっさりと玉砕したショックを隠すように、「気にしないでくれ!」と笑い飛ばすと、マヒロは驚いたように黒目がちの目を見開いた。
「友だち? お友だちになってくれるの? 桃井くんが、私のお友だち?」
「だって、同じクラスじゃん」
マヒロの目から大粒の涙が転がり落ちた。カズマはギクリとして身を硬くした。何か、気に障ることでも言ってしまったのだろうか?
マヒロは両手で顔を覆って小さく嗚咽を漏らした。
「おい、どうした? オレ、何か気に障る事、言ったか?」
オロオロとマヒロの周りを回りながら、カズマは懸命に明るく声をかけた。マヒロは鼻をすすると小さな声で言った。
「あんまり嬉しかったから、つい……。ごめんなさい」
カズマはホッと胸を撫で下ろすと同時に、熱い衝動に駆られて眩暈がした。目の前のマヒロがたまらなく可愛いと思った。誰のものだろうが、関係ない。今すぐこの腕に抱きしめて、そして……!
「私、お友だち居ないから、すごく嬉しい。メールなら大丈夫だから」
そう言って涙を拭ったマヒロはニコッと笑った。
カズマは大きく深呼吸をすると、込み上げる衝動を必死に押さえつけた。
「じゃ、メールするからさ」
うっすらと汗を掻きながら、懸命にそれだけ言うと、カズマは大股で歩き出した。
爽やかに晴れ渡った秋の午下がり、マヒロが小走りについてくる軽やかな足音が、耳に心地良かった。