第8話「大戦中の日本」
行くや毎毎大病→桂園時代
時代は明治から大正(1972年~)へ―
日露戦争後、「桂太郎」と「西園寺公望」が交互に内閣を作った時代を「桂園時代」という。
桂太郎のバックには「山県有朋」、西園寺公望のバックには「伊藤博文」がいた。
この黒幕たちの事を「元老」という。
桂太郎Ⅰ・・・「1902年・日英同盟」「1904年~05年・日露戦争」「1905年・ポーツマス条約→日比谷焼打ち事件」
西園寺公望Ⅰ・・・「1906年・鉄道国有法」「1907年・帝国国防方針」(陸軍→17師団から25師団へ)(海軍→「八・八艦隊」設置)この八・八の意味は「軍艦」と「巡洋艦」である。
桂太郎Ⅱ・・・「1910年・韓国併合・大逆事件」「1911年・工場法」桂太郎は総理を辞任後、「内大臣」となり政界を引退。
西園寺公望Ⅱ・・・1912年、「1911年・辛亥革命」に干渉したい陸軍が「2師団増設」を要求。しかし、内閣はこれを拒否したため、陸軍大臣「上原勇作」は辞職し、「軍部大臣現役武官制」を利用して陸軍大臣を出さなかった。これにより、第2次西園寺公望内閣は総辞職に追い込まれる。
桂太郎Ⅲ・・・総辞職に追い込まれた西園寺内閣の代わりに、再び桂太郎が首相となるが、国民からの強い批判を受ける。「1912年」、「尾崎行雄」(立憲政友会)、「犬養毅」(立憲国民党)(元・立憲改進党→憲政本党)らを中心とした「第一次護憲運動」が起こり、桂太郎は「立憲同志会」を作って対抗。
しかし失敗し、50日あまりで退陣へと追い込まれた。
この「第一次護憲運動」のスローガンは「憲政擁護・閥族打破」であった。
この西園寺内閣の総辞職から桂内閣の退陣までの一連の流れを「大正政変」と呼ぶ。
-大正政変後-
酒屋を寺は鷹とも夜景
さ・・・西園寺
か・・・桂
や・・・山本権兵衛
を・・・大隈重信
てら・・・寺内正毅
は・・・原敬
た・・・高橋是清
かとも・・・加藤友三郎
や・・・山本権兵衛
けい・・・清浦奎吾
山本権兵衛Ⅰ(薩摩・海軍)・・・「立憲政友会」の支持を得て成立した山本権兵衛内閣は、1913年、軍部大臣現役武官制を改正し、OBでも可とする。
しかし海軍らの汚職事件「1914年・シーメンス事件」が発覚し、山本内閣は退陣した。
大隈重信Ⅱ・・・「立憲同志会」を与党とした大隈内閣は、1902年の「日英同盟」を理由に「1914年・第一次世界大戦」に参戦。
三国同盟国(独・伊・墺)VS三国協商国(英・露・仏) ※イタリアは途中で脱退
この国々がバルカン半島にて戦争を開始。ドイツの3B政策に対し、イギリスは3G政策。
ドイツのパン・ゲルマンに対し、ロシアはパン・スラブ。
ヨーロッパ全土に戦火が広がった。
日本はドイツに宣戦布告、ドイツ支配下の中国・山東省を攻撃し、「青島」「済南」を占領。
赤道以北のドイツ領「カロリン諸島」も占領。
「1915年」、「袁世凱」政府に対し「二十一カ条の要求」を突きつける。
第3号「漢冶萍公司」(大冶鉄山を含む製鉄会社)の共同経営
山東省の日本への譲渡
旅順・大連の租借期限、満鉄の営業期限を99カ年延長
※第5号「日本人顧問の採用」は削除
中国は「二十一カ条の要求」の大部分をやむなく受諾。5月9日は中国の「国恥記念日」となっている。
寺内正毅(長州・陸軍)・・・「1917年・西原借款」首相の秘書「西原亀三」が袁世凱の跡を継いだ「段祺瑞」政府に借款を与えた。
更に日本への警戒心を強めていたアメリカとは同年(1917年)「石井・ランシング協定」を結び、アメリカは日本の中国への特権、日本はアメリカが主張する中国の「門戸開放」を認め合った。
※石井菊次郎とランシング国務長官
また「1917年」、「レーニン」による「ロシア革命」によりソヴィエト政権が成立。
ロシアはドイツと単独講和を結び戦争を離脱した。
このソヴィエトを倒す為、「1918年」、日本はアメリカの提案で「チェコスロバキア人の救助」を口実に「シベリア出兵」を開始した。
第一次世界大戦の長期化により、日本は「軍需品」の輸出で「大戦景気」と呼ばれる好景気になっていた。
更にアジア・アフリカへは「綿糸」「綿織物」の輸出、アメリカへの「生糸」の輸出も活発化し、「輸入超過」から「輸出超過」の貿易黒字となった。
その結果、「船成金」「鉄成金」が生まれたり、欧米からの輸入が途絶え、「化学肥料」などの「化学工業」や「機械工業」も急速に成長するなど、「重化学工業」が発展した。
また「水力発電」が発展し遂に「電力」が「蒸気力」を上回った。
こうして日本の工業生産額は農業生産額を超え、日本はアジア最大の工業国になった。
こうした中で有力な紡績会社は「上海」「青島」に進出し、工場を建設。「在華紡」となった。
また米価の上昇で大きな利益をあげた「寄生地主」はまずます巨大化した。
大戦の影響により物価は上昇。「シベリア出兵」を見越した地主の売り惜しみや承認の買い占めにより、米価は日ごとに上昇。
「おいこらテメェら何ナメた真似してくれとんじゃああん!?」
「1918年8月」、暑い夏で主婦達もキレ気味だったのか、遂に「富山県」で女性達が米屋に押し掛けて安売りを要求する「女一揆」が発生。
それが報道されると、「青森・岩手・秋田・沖縄」を除く全国各地で「米騒動」が発生。
「寺内正毅内閣」はこの騒動の鎮圧に対し軍隊を出動させたことを批判され、総辞職に追い込まれた。
原敬・・・立憲政友会総裁。「平民宰相」として期待された。初の「本格的な」政党内閣であったという。
※初の政党内閣は「隈板内閣」。
「1918年・大学令」。またこの年、第一次世界大戦はドイツの降伏により終結した。
「1919年・パリ講和会議」。これにより「ヴェルサイユ条約」が締結され、日本は旧ドイツの山東省と、カロリン諸島の「委任統治権」を得た。
これに基づく新しいヨーロッパの国際秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼ぶ。
「1920年・国際連盟発足」。アメリカ大統領「ウィルソン」の提唱により、世界平和の為に発足された。日本は英仏伊と共に「常任理事国」となったが、「アメリカ」だけは不参加であった。ぼっち。
日本の事務局次長は「新渡戸稲造」。※著書「武士道」
この頃、アメリカ大統領「ウィルソン」の主張の影響で民族自決の風潮が広まり、「1919年」に京城の「万歳事件」をきっかけに、朝鮮で「三・一独立運動」が起こる。
また中国では、「1919年・五四運動」を北京の学生らが起こしたほか、ヴェルサイユ条約への調印も拒否した。
理由としては、山東省を日本が得ることへの抗議だった。
高橋是清・・・立憲政友会総裁。「1921~22年・ワシントン会議」。この時の全権は「加藤友三郎」。
ワシントン会議では「1921年・四カ国条約」により「日英同盟」を破棄。
「1922年・九カ国条約」により「石井・ランシング協定」を破棄。
同年「海軍軍縮条約」により、主力艦が制限され、「米・英:日:仏・伊=5:3:1.67」というトン数の比が決定された。
また日本は中国に山東省の権益の大半を返還した。
ワシントン会議の結果、アメリカを中心とする「ワシントン体制」が形成された。
1924年に加藤高明内閣の外務大臣となった「幣原喜重郎」はワシントン体制の維持に努めた。中国に対しては日本の利益を守るよう、内政に干渉しない原則をかかげ、1925年にはソ連と「日ソ基本条約」を締結し国交を樹立。
これらの「協調外交」は幣原外相の名をとって「幣原外交」とも呼ばれた。
おまけ・・・日本人の「柳宗悦」は朝鮮美術品を愛し、「民芸運動」を展開した。