第6話「日露戦争」
行くや毎毎大病
明治の内閣は
い・・・伊藤博文
く・・・黒田清隆
や・・・山県有朋
ま・・・松方正義
い・・・伊藤博文
ま・・・松方正義
い・・・伊藤博文
お・・・大隈重信
や・・・山県有朋
い・・・伊藤博文
から成る。
黒田清隆は憲法を発布、超然主義。
山県有朋の1回目は第1議会が開かれる。
更に2回目の伊藤博文では日清戦争・下関条約・三国干渉があった。
日清戦争後の1898年、3回目の伊藤博文は安定した財源確保の為、「地租増徴案」を議会に提出。
しかし、「自由党」と「進歩党」(元・立憲改進党)選挙基盤である地主を配慮し、これに反対。
自由党「進歩党ーーー、ドッキングだーーー!」
進歩党「憲政党ライザー、出る!」
両党は合体し「憲政党」へ。伊藤に代わり、憲政党党首の「大隈重信」を「首相」、「板垣退助」を「内務大臣」とする「日本最初の政党内閣」が結成。
これは「隈板内閣」と呼ばれた。
隈板内閣崩壊後は、2回目の「山県有朋」が首相に。「1900年」に「治安警察法」が制定され、社会主義運動や労働運動などを厳しく取り締まった。
更には陸軍・海軍大臣は現役の大将・中将から任命するとした「軍部大臣現役武官制」を定め、軍部の地位を高めた。
そんな中、同年(1900年)、「憲政党」「憲政本党」に分かれた憲政党のうち、「憲政党」を伊藤博文が吸収。
「立憲政友会」を結成し、自ら総裁に。4回目の伊藤博文内閣を組織した。
イギリス「威海衛・九龍半島もーらい!」
ロシア「旅順・大連ゲットー!」
フランス「広州湾くれー。」
ドイツ「膠州湾どもー。」
中国は列国により支配され、分割されていた。
その頃、中国国内では外国勢力の排除を主張する「義和団」が勢力を広め、1900年、遂に北京で各国公使館を包囲する「義和団事件」が発生。
これに対し日本・ロシアを含む8カ国は連合軍を組織し、北京を占領した。
これが「北清事変」である。
翌年の「1901年」、出兵した各国は清に「北京議定書」を結ばせ、賠償金と北京及びその周辺に軍を駐留させる権利を得た。
この頃、ロシアは旅順・大連、北清事変では満州も占領し、韓国にも勢力をのばしていた。
これに対し「第1次桂太郎内閣」は、ロシアを警戒するフランスと「日英同盟」を結び、1対1の戦争ならば「中立」、1対複数ならば「共同戦闘」を約束した。
三国干渉での怨みもあり(臥薪嘗胆)、こうして日本でもロシアへの主戦論が高まる中、非戦論を唱える者たちもいた。
「内村鑑三」「堺利彦」「幸徳秋水」は、社長の黒岩涙香が主戦論に変わった為「万朝報」を退社。
内村鑑三はキリスト教の立場から非戦論を唱え、幸徳秋水と堺利彦は「平民新聞」を創刊し、戦争反対を唱えた。
また「ロマン文学」で有名な「与謝野晶子」は「君 死にたまふことなかれ」という戦争反対の詩を「明星」にて発表した。
しかし、1904年、「日露戦争」が開幕。まず日本は漢城を占領。韓国と「日韓議定書」を調印し、軍事上に必要な土地を接収。
そして旅順・奉天を占領。機関砲で覆われた203高地を落としたり、日本海海戦はロシアのバルチック艦隊を全滅させたりと、日本の進撃は好調。
しかし、日本はここで資金切れ、ロシアは「血の日曜日事件」をきっかけに革命運動が起こり、戦争は終結した。
その後、アメリカの「セオドア・ローズヴェルト」大統領の仲介で、1905年に「ポーツマス条約」が結ばれる。
このときの日本全権は「小村寿太郎」、ロシア全権は「ウィッテ」であった。
これにより日本は「韓国における指導権」「旅順・大連の租借権」「長春以南の鉄道及び付属地の利権」「樺太の北緯50度以南の領有権」などを得た。
しかし、日本は日露戦争で大きく消耗したのにも関わらず、賠償金が得られず、国民の不満は爆発。
東京の日比谷では暴動が起き、政府は「戒厳令」をしき軍隊でこれを鎮圧した。
これを「日比谷焼打ち事件」という。
「1904年」、日本は韓国と「第1次日韓協約」を結び、日本が推薦する「財政・外交顧問」を置かせた。
翌「1905年」には、総理の「桂太郎」とアメリカの国務長官「タフト」が、「桂・タフト協定」を結び、アメリカは日本の韓国の指導権を承認した。(日本はアメリカのフィリピンの指導権を承認。)
また同年(1905年)、日本は無理やり「第2次日韓協約」を結び、なんと韓国の「外交権」を剥奪。
漢城に「統監府」をおいて「伊藤博文」を「初代統監」に任命した。
「1907年」、日本は「ハーグ密使事件」を理由に「第3次日韓協約」で韓国の「内政権」を手に入れた。
これにより、全国に抗日運動が拡大した。これを「義兵運動」という。
1909年、伊藤博文は義兵運動の指導者の一人、「安重根」に射殺された。
「1910年」、遂に日本は「韓国併合条約」を結び、韓国を植民地化。
漢城に「朝鮮総督府」をおき、初代総督には陸軍大臣の「寺内正毅」が就任。
更にこの年、朝鮮総督府は「土地調査事業」を実施し、朝鮮農民から土地を奪い取った。
1906年、日本は旅順に「関東都督府」を設置。更に同年、「半官半民」の「南満州鉄道株式会社(満鉄)」を設立した。
一方、ロシアとは「1916年」までの間に4次にわたる「日露協約」を結び、お互いの勢力範囲を決めた。
「1911年」、「辛亥革命」によって清国政府が倒され、「孫文」を臨時大統領とする「中華民国」が成立した。
日露戦争の結果、日本は列強の一員に加わった。