第4話「立憲政治と条約改正」
1890年の国会開設に向け、政府は憲法制定の準備を進めた。
1882年、「伊藤博文」らは憲法調査のためヨーロッパへ、「ドイツ」や「オーストリア」などを訪れ、君主権の強い「ドイツ憲法」を学んだ。
ベルリン大学では「グナイスト」、ウィーン大学では「シュタイン」に。
その後、帰国した伊藤は1884年、「制度取調局」を設けて、立憲政治の実現に向けて邁進した。
まず「華族令」を出し、明治維新に関わった者や、政府の人間が華族になれるようにした。
これは「貴族院」開設の準備であり、やがて開設される議会で、「衆議院」を牽制し、藩閥政府を擁護させる為の策であった。
1885年には太政官制を廃止して「内閣制度」を作り上げた。初代内閣総理大臣には伊藤が任命され、第1次伊藤博文内閣が誕生した。
初代内閣は
大蔵卿 「松方正義」
文部卿 「森有礼」
内務卿 「山県有朋」
外務卿 「井上馨」
で構成された。
憲法草案作成は伊藤の元、「井上毅」、「伊東巳代治」、「金子堅太郎」が中心となり、ドイツ人の法律顧問「ロエスレル」の助言を入れながら進められた。
1888年に設けられた天皇の最高諮問機関「枢密院」で憲法は天皇臨席のもと審議され、1889年2月11日に「欽定憲法」(天皇の定める憲法)として「大日本帝国憲法」が発布された。
ドイツ人医師「ベルツ」は内容も分からず憲法発布を祝う日本人を自らの日記で皮肉っている。
cf.ドイツ人ベルツの日記
憲法では帝国議会が関与できない数々の権限「天皇大権」を求めていた。
国民は天皇に従う「臣民」とされ、法律の範囲内で言論・著作・集会・結社の自由が認められた。
また憲法と合わせて「皇室典範」も制定された。この時の首相は「黒田清隆」であった。
地方制度の整備は、「山県有朋」とドイツ人「モッセ」を中心に進められた。
また民法はフランス人「ボアソナード」が起草し、1890年に公布(梅謙次郎など賛成)されたが、「穂積八束」の「民法出でて忠孝亡ぶ」などの反対を受け、「民法典論争」にまで発展。
その為大幅に改められ、8年後の1898年までに新しい「民法」、「明治民法」が施行された(ドイツ流)。
しかし、この時の民法ではまだ男尊女卑が認められていた。
更に1889年、「衆議院議員選挙法」が公布され、翌年1890年に初の総選挙が実施された。
しかし、選挙権があったのは「直接国税15円以上を納める、満25歳以上の男性」のみだったので、有権者は全人口の「1.1%」にあたる45万人しかいなかった。
同年(1890年)、第1回帝国議会が開かれ、「立憲自由党」が130議席、「立憲改進党」が41議席を占め、民党は300議席中171議席を占めた。
政府側の「吏党」は大成会(79議席)・その他など劣勢だった。
第1議会の首相は「山県有朋」で、「政費節減・民力休養」という民党側の主張に対し、政党を無視する「超然主義」(黒田清隆の言葉)の態度で対応した。
政府と議会の対立は1894年に日清戦争が起こるまで続いた。第1議会から第6議会までを「初期議会」と呼ぶ。
初代衆議院議員達―
「憲政の神様」と言われた「尾崎行雄」、後に首相となる「犬養毅」、足尾銅山鉱毒事件で有名な「田中正造」、私擬憲法を作っていた「植木枝盛」など。
立候補条件は「満30歳以上の男子」「直接国税15円以上納税者」だった。
欧米諸国と肩を並べる強国をつくることを国家の目標とする日本にとって、関税自主権の確立と領事裁判権の撤廃は最も重要な課題であった。
-条約改正までの流れ-
岩倉具視 1871年に日本出発 73年に帰国 欧米の文物・制度の視察
寺島宗則 1878年に条約改正にアメリカを同意させる
↓
イギリス・ドイツの反対で白紙に
また1877年には「アヘン密輸事件」が起こる
↓
犯人のイギリス人「ハートレー」は無罪
井上馨 1882年から交渉開始
外国人に「内地雑居」を認めることや
裁判所に外国人判事を採用、などを条件に
条約改正を迫ったが「ボアソナード」らが反対
イギリス人「コンドル」設計の「鹿鳴館」を作るなど
極端な「欧化政策」をとる
1886年の「ノルマントン号事件」により
領事裁判権の撤廃を求める声が大きくなる
<この時>「三大事件建白運動」 1877年に辞任
大隈重信 「大審院」に限り外国人判事を採用することを条件と交渉した
結果、1889年に玄洋社員に襲われ右脚を失う
青木周蔵 イギリスの同意を得るも、
1891年、ロシア皇太子を「津田三蔵」が襲う
「大津事件」が発生 責任を取り辞任した
またこの時、大審院長「児島惟謙」は
政府の圧力に負けず津田を無期懲役に処した
これは司法権の独立を物語っている
陸奥宗光 1892年第2次伊藤博文内閣
ロシアに警戒したイギリスは1894年「日英通商航海条約」を締結
領事裁判権の撤廃に成功
その後、「蹇々録」(蹇蹇録)を出す
小村寿太郎 1911年「日米通商航海条約」を締結 関税自主権を回復
40年以上の時を経て、日本は遂に不平等条約改正に成功したのだった。