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日本史A  作者: MICKEY
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第3話「自由民権運動」

明治六年の政変の後―


1875年、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)に近い「江華島」付近で、朝鮮の領海に侵入し測量を行っていた日本の軍艦が砲撃されると言う「江華島事件」が起こった。


だが、これは日本の武器となった。


この事件を理由に、1876年、日本は強硬な態度で「日朝修好条規」を朝鮮に結ばせ、開国させたのだ。

これは、領事裁判権や関税免除の特権を朝鮮に認めさせる不平等条約であった。


この頃、琉球王国は薩摩藩と清国の両方に従属する状況だった。

そんな中、1871年に日本は「日清修好条規」を清と結び、対等な立場に立つ。

同年、琉球島民が台湾で殺害される事件が発生。

翌1872年、日本は清国に責任を追及すると共に、一方的に琉球を「琉球藩」とし、琉球国王の「尚泰」を「琉球藩王」とした。


1874年、日本は例の琉球島民の殺害事件を理由に「台湾出兵」をし、琉球の領有を主張。子の時の指揮をとったのは「西郷従道」。

1879年、「琉球処分」によって琉球藩を「沖縄県」としたが、清国はこれを認めず、日本への帰属が確定したのは日清戦争後だった。



-国境の確定-


日本はロシアとの国境を明確にするため、1875年「樺太・千島交換条約」を結び、1876年にはアメリカ・イギリスに小笠原諸島の領有を宣言し、日本領とした。



そうして、日本が近代国家として成長して行く中、時代に取り残された彼らが最後の意地を見せる。



1874年、「江藤新平」らの「佐賀の乱」を始めとし、1876年には「神風連の乱」(熊本県)・「秋月の乱」(福岡県)、また「前原一誠」の「萩の乱」(山口県)がone after another(次々と)起こった。


上の3つの乱が起きた1876年には、地税に不満を持つ農民たちも各地で一揆を起こし、なかでも三重県を中心とした4県にまたがる「地租改正一揆」は激しかった。



「西郷さん・・・!戦いましょう!見せつけてやりましょうよ!士族の意地を・・・強さを・・・志を!」


西郷「おいどんは・・・ただ平和に暮らしたいでごわす。政府を抜け、この故郷、薩摩(鹿児島)に帰って来たのだから・・・。」


「士族にはもう・・・俺達にはもう、帰る場所なんてないんですよ。」


西郷「最後の意地でごわすか・・・。」



1877年、西郷隆盛と鹿児島県士族が立ちあがる。

徴兵制によって組織された政府の軍隊と激闘の末、半年後に敗れた。


西郷敗北により、武力による反政府行動は影を潜め、代わって言論による反政府運動が高まった。

これがかの有名な「西南戦争」である。



明治六年の政変で政府を去った「板垣退助」や「後藤象二郎」らは、1874年に「民撰議院設立建白書」を政府に提出。これをきっかけに「自由民権運動」が始まった。


-自由民権運動その1・士族民権-


板垣は故郷の高知で「片岡健吉」らと「立志社」を結成。全国にも政治結社が誕生し、1875年には全国組織として「愛国社」(大阪)が結成された。

そんな中、政府は立憲体制に移行して行く方針を示し、立法上の諮問機関として「元老院」、四方の最高機関として「大審院」を設け、「地方官議会」で地方議会である「府県会」の開催についての審議を行っていた。


政府は1875年の「大阪会議」で板垣と「木戸孝允」(台湾出兵に反対し下野)の政界復帰、立憲政体樹立の詔

みことのり

、前述の「元老院」「大審院」、そして「地方官会議」の設置でを決めた。


一方で弾圧策として、1875年に「讒謗律」と「新聞紙条例」を出し、取り締まりを強化した。


-自由民権運動その2・豪農民権-


1879年、府県会が開かれると、有力農民らは府県会議員として地方政治に参加、一方で自由民権運動を指導した。

1880年には「国会期成同盟」が結成され、全国の政治結社に「私擬憲法」の作成を呼び掛けた。

私擬憲法の例としては「植木枝盛」の「日本国国権案」や「千葉卓三郎」の「五日市憲法」などがある。

これに対し政府は1880年4月に「集会条例」を出し、警察官が集会の解散を命じることができるようにした。



1878年、政府の中心であった大久保利通が暗殺されると、「伊藤博文」や「大隈重信」が実験を握った。

国会の早期開設を望む大隈は伊藤と対立。そんな中、1881年に「黒田清隆」が、同じ薩摩出身の政商「五代友厚」に官有物をタダ同然で払い下げようとした。

これを「開拓使官有物払下げ事件」と言う。

それを「東京横浜毎日新聞」のみがスクープし、大スキャンダルになった。

またこの新聞は福沢諭吉関係の新聞であり、大隈と福沢は仲が良かったと言う。


そのことを知った伊藤は大隈を政界から追放(薩長藩閥政府へ)、払下げを中止した。

その後、1881年「国会開設の勅諭」を出し、10年後の1890年に国会開設を約束した。

これを「明治十四年の政変」と呼ばれる。これ以後、伊藤が政府の実権を握った。


国会開設に備え、1881年には板垣を党首とする「自由党」が成立、更に翌年1882年には大隈を党首とする「立憲改進党」が結成された。

そんな中、「岸田俊子」ら女性の民権家も生まれた。


自由党   板垣退助

立憲改進党 大隈重信

立憲帝政党 福地源一郎



-自由民権運動その3・農民民権-


西南戦争の費用をまかなう為、政府は紙幣を発行。産業の発達も手伝い、流通する通貨量が膨らみ「インフレーション」になってしまった。


明治十四年の政変後、大蔵卿となった「松方正義」は松方財政というデフレ対策を行った。

1882年、「日本銀行」を設立し、紙幣回収を行ったのだ。

結果、今度は「デフレーション」に陥り、特に「米と生糸」の価格が暴落。

土地を手放す農民が出没する中、土地を小作人に貸し小作料を取る「寄生地主」が現れた。


「いるんだよなぁ、こんな景気の時に小作人に取りついてわずかな金を吸い取る、ヒルみたいな人間がよッ!」


そんな中―1882年、県令「三島通庸」の強圧的な県政(会津三方道路建設を命じるなど)に対して起こった「福島事件」。

県議会議長の「河野広中」は対立し、農民も蜂起した。その後、「群馬事件」「加波山事件」も起こった。「加波山事件」の直後、自由党は解散した。

1884年には「秩父事件」が起こり、困窮した農民たちが「困民党」や借金党を組織して蜂起。軍隊により鎮圧された。


この頃、大隈重信の脱党で立憲改進党は活動停止した。


1886年、旧自由党の「星亨」・「後藤象二郎」は自由民権派の再結集を呼び掛ける「大同団結運動」を開始。

翌年1887年には、「地租軽減」、「言論・集会の自由」、「外交失策の挽回」の要求をかかげる「三代事件建白運動」を展開した。

それに対し政府は「保安条例」を定め。星らの有力自由民権家を東京から追放した(皇居の半径3里には入れない)。

後藤の入閣などで、運動は分裂したかに思えたが、大同団結運動は留まることを知らず、1890年、旧自由党が中心になって「立憲自由党」を結成した。


1891年ごろから、「川上音二郎」の「オッペケペー節」で自由民権思想を広めた。

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