第2話「明治維新」
開国直後に、全国規模で流行した「コレラ」。
また、それに重なる政治・経済の混乱。
その結果、人々の間に芽生えた「世直し」の意識。
それが、幕府を大きく苦しめることとなる。
-1866年-
薩長同盟が結ばれ、この年、神戸・堺・大阪などで起こった激しい「打ちこわし」。更には江戸でも起こり、それは幕府への不信を表していた。
第二次長州征討の最中の出来事である。
-1867年-
東海地方から中国・四国地方にかけて都市を中心に起こった「ええじゃないか」。
伊勢神宮の御札が降ったとして、人々は乱舞した。
これは討幕派が、幕府の治安を混乱させるために起こしたものでもある。
この年は、大政奉還や竜馬の暗殺、王政復古の大号令や小御所会議などが行われた重要な年でもある。
また、この頃、苦しい生活や病気から民衆を救済する事を目的とした宗教が生まれる。
黒住教←黒住宗忠
天理教←中山みき
金光教←川手文治郎
開港場の「居留地」で貿易が行われ、そこには国際色豊かな景観が存在した。
またアメリカ人医師で宣教師でもあるヘボンは、日本最初の和英辞典を完成させ、また英語塾を開いたりローマ字を伝えたりするなど、様々な方面で活動した。
その英語塾は今の明治学院大学となっている。
-1868年-
戊辰戦争のさなか、新政府は「五箇条の誓文」を発表し、その翌日には「五榜の掲示」を示した。
「五箇条の誓文」の原案は、由利公正→福岡孝弟→木戸孝允を経て完成されたと言う。
誓文に出てくる「陋習」とは「攘夷運動」のことであり、「天地ノ公道」とは「国際法」のことである。
これを神々に誓う形で、新政府は発布した。
また、五榜の掲示ではキリスト教や一期の禁止を定めた。「邪宗門」とはキリスト教のことである。
また、政府は「政体書」を公布し、太政官に権力を集中させる政府の組織を示した。
更には江戸を東京都改め、年号を明治とし「一世一元の制」を定める。
「神仏分離令」も出され、政府は「文明開化」を進める一方で、神道を国の宗教とする方針を決め、その結果仏教を排除する「廃仏毀釈」が起こった。
戊辰戦争と同じ頃に「浦上信徒弾圧事件」も起こり、外国から抗議の声が相次いだ。
-1869年-
薩長土肥の四藩が「版籍奉還」を実行。諸藩主もこれを見習う。
旧藩主は「知藩事」とされ、そのまま藩政にあたっていた。
-1870年-
大教宣布=「神道の国教化」宣言→中止
また「工部省」が新設され、お雇い外国人を招いて欧米の技術を導入した。
-1871年-
本格的に動き出す明治政府。薩長土の三藩の兵士を東京へ収集し「親兵」とし、その武力を背景に「廃藩置県」を行う。
例の知藩事は東京へ移住させられ、地方には政府が任命した「府知事」「県令」が派遣された。
更に太政官を「正院」「左院」「右院」とし、政府の要職は薩長土肥の四藩の出身者で占められた。
早くも表れ始める「藩閥政府」の性格・・・。不満を持つ者は決してゼロではなかった。
これら幕末から明治初年にかけての変革を「明治維新」と呼ぶ。
四民平等によって、大名や公家は華族、武士は士族、農工商は平民とされた。平民にも名字の使用が許された。
更に1871年、「解放令」によりえた・ひにんも平民とされたが、差別は根強く残っていた。
また、この年、岩倉具視を大使とする「岩倉使節団」が日本を出発する。
この年に定められた「新貨条例」。それは円・銭・厘を単位とする新貨幣を作ると言うものだった。
-1872年-
徴兵告諭が出される。
その中には「血税」の文字があり、人々は生き血を取られると恐れた。
したがって、各地で起きた反対一揆を「血税一揆」と呼ぶ。
文部省が設立され、「学制」が定められた。フランスにならったものだと言う。
反対一揆が各地で起こった。
この年、「国立銀行条例」が定められた。当初は4行しか設立されず、「金貨と交換できる貨幣の発行」を義務付けられていた為、それ以上の設立が進まなかった。
この中心となった人物は「渋沢栄一」。これはアメリカの「ナショナル・バンク」の制度を真似たものであったと言う。
またこの年、土地の自由売買が認められ、地価が定められた。
「地券」の発行もこの年である。土地所有者(納税者)に発行された。
富岡製糸場が設立されたのもこの年である。フランス人ブリューナが関係している。
またイギリスの技術を導入し、鉄道も開通した。
-1873年-
地租改正条例が施行された。
地価の3%を地租として金銭で納税させるといった物だった。
徴兵令、開始。満20歳以上の男子は兵役につかされると言う、国民皆兵の原則による近代的な軍隊が作られて行った。
この徴兵令は「大村益次郎」が構想し、暗殺された彼に代わりそれを「山県有朋」が受け継ぎ実現された。
更にこの年、政府は欧米諸国からの非難を受け、キリスト教を黙認した。
大久保利通を卿とする「内務省」の設立。この内務省は官営事業の育成に努めた。
中でも群馬県の「富岡製糸場」はフランスの技術を導入して作られた「官営模範工場」であった。
これら殖産興業の推進に伴い、政商が急成長を遂げた。
太陽暦が採用されたのも、この年である。
「学問のすすめ」を著した福沢諭吉、そして中村正直らは明六社を設立し、明六雑誌などを発行して欧米思想の紹介に取り組んだ。
-1874年-
戊辰戦争後に「北海道」と改められた蝦夷地には開拓使が設置され、この年には「屯田兵制度」も設けられ開拓が進んだ。
-1876年-
士族へ配給されていた家禄が廃止され、代わりに金録公債証書を配布する「秩禄処分」が行われた。
その後、武士たちは慣れない商売で失敗。「士族の商法」と皮肉られたりもした。
死フは救済策(士族授産)として、資金を貸し付け屯田兵として北海道へ送った。
また、この年政府は「国立銀行条例」を改正し、例の義務を免除したので、銀行は153行まで増えた。
-1877年-
地租改正一揆により、地租率は3%から2.5%に引き下げられた。
-1879年-
「教育令」が出されたが、翌年には改正された。当初はアメリカ式だったと言う。
そしてこの年、地租改正事業はほぼ完了した。
新政府のスローガンは「富国強兵」。その言葉通り、様々な改革が進められた時代だった。
※徴兵令で免役されたのは、「長男」「戸主」「養子」「代人料270円納入者」「病弱者」「官立学校生」などであった。
-1899年-
北海道旧土人保護法の制定。アイヌを保護しようとしたが、更に破壊してしまった。
-1873年-
「明治六年の政変」。
岩倉使節団 留守政府
・右大臣岩倉具視 ・太政大臣三条実美
・大久保利通 ・西郷隆盛
・木戸孝允 ・大隈重信
・伊藤博文 ・板垣退助
・江藤新平
この年の9月に帰国した使節団は、留守政府が決定した「征韓論」を「内治優先」を理由に反対し、征韓派と離別する。
西郷達征韓派は下野し、大久保利通政権が誕生した―。