表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本史A  作者: MICKEY
1/8

第1話「幕末・志士達の時代」

高一の学習、日本史Aを小説風にした物です。

テスト勉強にご活用ください。


※あくまでテスト対策用ですので、細かい部分は脚色してあります。

1860年― 大老、井伊直弼を襲った「桜田門外の変」。

彼の死をきっかけに、幕府の独裁政治は終わりを告げる。


そして、歴史は大きく夜明けへと動き出す―



安藤信正「もはや、これしか手はありませぬ。」


老中、安藤信正が孝明天皇にそう告げた。


孝明天皇「しかし・・・。」


安藤信正「孝明天皇の妹である和宮様、そして我が江戸幕府14代将軍徳川家茂様の結婚・・・。朝廷と幕府の結びつきを強め、尊攘派を抑えるのです。」


孝明天皇「それがお前の言う公武合体・・・か。」


そして、孝明天皇は頷く。


孝明天皇「・・・やむを得ん。」



しかし・・・その2年後だった。

1862年、「坂下門外の変」は起こったのだ。


「安藤覚悟ッ!」


安藤信正「なっ・・・!?」


安藤の背中を太刀が一閃― 辺りに飛び散る血飛沫。

彼は公武合体運動の反対派の者に、背中を斬られ負傷した。

それは、武士にとって「失脚」を意味していた。




島津久光「幕府に改革を要求する。」


薩摩藩の島津久光。彼は孝明天皇の許可を得て、はるばる江戸まで来ていた。

彼が要求した「文久の改革」。それを担当したのは主にこの3人であったと言う。


政治総裁職・松平慶永。

将軍後見職・徳川慶喜。

京都守護職・松平容保。


そしてこの「京都守護職」の元には、かの有名な「新撰組」が在ったのだ。



1863年―

この年、薩摩藩と長州藩が大きく動き出す。


薩摩武士A「グハッッッ!」


吹き飛ぶ薩摩藩士。


薩摩武士B「エゲレスの力は・・・ここまで・・・!」


この年の7月に起きた「薩英戦争」。元はと言えば、例の島津久光の行列をイギリス人が横切った事が発端だった。

激怒した薩摩武士はイギリス人を斬り捨てた。だが異国人である彼らは大名行列の仕来たりなど、知る由もなかったのだ。

この「生麦事件」の報復として、薩摩を攻めるイギリス軍。

その圧倒的な技術力の差に、薩摩藩は完敗したのだ。

鹿児島市街を焼き払われて・・・。


同じく1863年。長州藩は幕府に5月10日に攘夷を決行する事を約束させた。

そしてその当日、長州藩は単独で攘夷を決行したのである。


下関海峡を通る外国船を砲撃した長州藩。

その行動が、後に長州藩の過失となる。



薩摩武士C「行くぞ・・・会津の武士よ!」


会津武士A「おう!斬り捨て・・・御免!」


公武合体の立場に立つ薩摩藩は会津藩と手を結び、長州藩や尊攘派を京都から一掃した。

蒸し暑い日だったと言う。この事件はこう呼ばれている。


「八月十八日の政変」と。



-1864年-


長州武士A「おのれ薩摩、会津・・・!同志よ!長州の勢力を回復する!時は満ちた!明日、京都へ攻め入る!」


この年の7月、長州藩は巻き返しを図り京都へ攻め入った。しかし・・・。


薩摩武士C「懲りぬな長州め・・・!」


会津武士A「京都へ攻め入るとは・・・!貴様らはもう、朝敵(朝廷の敵)という汚名を背負う覚悟だな。」


桑名武士A「その薄汚い意地ごと、叩き斬ってくれる。」


結果は、長州の惨敗。薩摩・会津・桑名藩に破れ、更には「朝敵」のレッテルまで貼られてしまったのだ。


長州武士A「禁門の変・・・敗北なり・・・!」


そう、この事件が「禁門の変」。この事件が、長州に更なる悲劇を呼ぶ。


-8月-


禁門の変から一か月後、「朝敵」である長州藩の征討を命じた幕府。

全国を敵に回した長州― 「第一次長州征討」。


更に振りかかる戦い。


前年に外国船を砲撃したツケが、このタイミングで回って来た。

「四国連合艦隊下関砲撃」。英・仏・米・蘭の4カ国連合艦隊が下関を占領した。


こうして、長州は幕府に降伏したのである。



だがここ数年の出来事は、歴史の歯車を確実に動かしていた。


薩・長の両藩は欧米諸国との戦いを経験し、攘夷は不可能であることを悟っていた。

ならば選ぶ道は一つ。


「討幕」。


高杉晋作「近代的な軍隊を作る。入隊したい奴は名乗り出ろ。我が奇兵隊の戦力として、重宝する。」


木戸孝允「軍備の洋式化を図る・・・その近代的な戦力で、幕府を討つ。」


この二人が藩論を討幕へと転じて行ったのだ。


また、薩摩でも似たような動きが起こっていた。


西郷隆盛「イギリスは強い・・・攘夷は不可能でごわす。」


大久保利通「討幕・・・どうやらそれが残された唯一の道らしい。」




長州武士A「ふざけるなっ!誰が薩摩なんかと・・・!」


薩摩武士C「こっちの台詞だ!長州とは組めぬ!」


幕府の無力を知って、薩・長両藩に近付いて来たのはイギリス公使パークスだった。

幕府を援助するフランスよりも優位に立とうとして、薩長に目をつけたのだ。

だが両藩のわだかまりは、簡単には解消されなかった。


だがこのままで良いはずがない。日本が夜明けを迎えるには、薩長の協力が不可欠―

一体どうすれば・・・。

そこに現れたのは、伝説の男「坂本竜馬」だった。



-1886年-


坂本竜馬「いつまでいがみあっとる気じゃ。夜明けは始まっとる。」


中岡慎太郎「薩長の力なくして、夜明けは訪れぬ。」


土佐藩出身のこの2人の仲介により、遂に両藩は同盟を締結。

それこそが「薩長同盟」、日本を大きく動かした瞬間である。



-幕府-


「長州を再び攻めよ・・・!」


「第二次長州征討」が下された。だがもはや、薩摩藩はもちろんのこと、幕府に従う藩など少ない。出兵に消極的な藩が大多数だった。



薩摩武士C「来おった・・・幕府の働きアリ共が・・・。」


長州武士A「夜明けが見えぬ連中め・・・薩長の近代的装備の力、ここに示す!」



幕府は各所で薩長に大敗。更に14代将軍徳川家茂が大阪城で病没。もはや幕府には引き上げることしか出来なかった。


-1867年-


亀山社中・海援隊に所属していた竜馬。

彼は船中で、「船中八策」を考案する。

遂には土佐藩を動かし、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を実現させた。


この「船中八策」が慶喜に渡るまで、2人の人間を通したと言う。

竜馬から「後藤象二郎」へ、象二郎から「山内豊信」へ。そして豊重から慶喜へ。


10月14日、「討幕の密勅」が薩長へ下った。

そしてその日、大政奉還が行われたのである。大政奉還の目的、それは「討幕の機先を制する」ことにあった。また、政権が天皇に戻ったとしても、徳川家は再び必要とされる。大きな力を持った大名家なのだから。慶喜はそこまで読んでいた。


だがそんな思惑も虚しく、12月9日に「王政復古の大号令」が出されてしまったのだ。

幕府は廃止、そして天皇自らの政治を宣言。更に夜に行われた「小御所会議」で、慶喜は「辞官(内大臣)」・「納地」を迫られる。

こうして徳川家は役職も土地も奪われ、失脚した。


そして、坂本竜馬暗殺。近江屋で襲われた彼は、額を一閃され「もう無理じゃ」と言い残し逝ったという。



-1868~1869年-


戊辰戦争、開幕。


「鳥羽・伏見の戦い」


旧幕府軍の15000の兵と、新政府軍の4~5000の兵が激突した。

だがその圧倒的な質量差虚しく、新政府軍の近代的な武装によって旧幕府軍は大敗。

「年貢半減」を唱えた相楽総三ら「赤報隊」も処刑された。


-3月13・14日-


「江戸城、無血開城」


西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城は無血開城された。


「会津の戦い」


この戦いでは、悲劇が起きた。白虎隊の悲劇である。

20人自殺、そのうち1人のみ蘇生。



1869年5月、箱館で遂に最終決戦。


「五稜郭の戦い」


土方歳三「む・・・無念ッ・・・!」


元新撰組の土方歳三、敗死。


中心人物である榎本武揚は捕獲されたが、黒田清隆の命乞いで助かり、明治新政府でも活躍したと言う。




こうして幕を閉じた戊辰戦争―

その戊辰戦争の中、幕府は明治維新を続けていたのだ。


全国は統一され、新政府が動き出す。



これが、明治時代の幕開け、日本の夜明け―

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ