第1話「幕末・志士達の時代」
高一の学習、日本史Aを小説風にした物です。
テスト勉強にご活用ください。
※あくまでテスト対策用ですので、細かい部分は脚色してあります。
1860年― 大老、井伊直弼を襲った「桜田門外の変」。
彼の死をきっかけに、幕府の独裁政治は終わりを告げる。
そして、歴史は大きく夜明けへと動き出す―
安藤信正「もはや、これしか手はありませぬ。」
老中、安藤信正が孝明天皇にそう告げた。
孝明天皇「しかし・・・。」
安藤信正「孝明天皇の妹である和宮様、そして我が江戸幕府14代将軍徳川家茂様の結婚・・・。朝廷と幕府の結びつきを強め、尊攘派を抑えるのです。」
孝明天皇「それがお前の言う公武合体・・・か。」
そして、孝明天皇は頷く。
孝明天皇「・・・やむを得ん。」
しかし・・・その2年後だった。
1862年、「坂下門外の変」は起こったのだ。
「安藤覚悟ッ!」
安藤信正「なっ・・・!?」
安藤の背中を太刀が一閃― 辺りに飛び散る血飛沫。
彼は公武合体運動の反対派の者に、背中を斬られ負傷した。
それは、武士にとって「失脚」を意味していた。
島津久光「幕府に改革を要求する。」
薩摩藩の島津久光。彼は孝明天皇の許可を得て、はるばる江戸まで来ていた。
彼が要求した「文久の改革」。それを担当したのは主にこの3人であったと言う。
政治総裁職・松平慶永。
将軍後見職・徳川慶喜。
京都守護職・松平容保。
そしてこの「京都守護職」の元には、かの有名な「新撰組」が在ったのだ。
1863年―
この年、薩摩藩と長州藩が大きく動き出す。
薩摩武士A「グハッッッ!」
吹き飛ぶ薩摩藩士。
薩摩武士B「エゲレスの力は・・・ここまで・・・!」
この年の7月に起きた「薩英戦争」。元はと言えば、例の島津久光の行列をイギリス人が横切った事が発端だった。
激怒した薩摩武士はイギリス人を斬り捨てた。だが異国人である彼らは大名行列の仕来たりなど、知る由もなかったのだ。
この「生麦事件」の報復として、薩摩を攻めるイギリス軍。
その圧倒的な技術力の差に、薩摩藩は完敗したのだ。
鹿児島市街を焼き払われて・・・。
同じく1863年。長州藩は幕府に5月10日に攘夷を決行する事を約束させた。
そしてその当日、長州藩は単独で攘夷を決行したのである。
下関海峡を通る外国船を砲撃した長州藩。
その行動が、後に長州藩の過失となる。
薩摩武士C「行くぞ・・・会津の武士よ!」
会津武士A「おう!斬り捨て・・・御免!」
公武合体の立場に立つ薩摩藩は会津藩と手を結び、長州藩や尊攘派を京都から一掃した。
蒸し暑い日だったと言う。この事件はこう呼ばれている。
「八月十八日の政変」と。
-1864年-
長州武士A「おのれ薩摩、会津・・・!同志よ!長州の勢力を回復する!時は満ちた!明日、京都へ攻め入る!」
この年の7月、長州藩は巻き返しを図り京都へ攻め入った。しかし・・・。
薩摩武士C「懲りぬな長州め・・・!」
会津武士A「京都へ攻め入るとは・・・!貴様らはもう、朝敵(朝廷の敵)という汚名を背負う覚悟だな。」
桑名武士A「その薄汚い意地ごと、叩き斬ってくれる。」
結果は、長州の惨敗。薩摩・会津・桑名藩に破れ、更には「朝敵」のレッテルまで貼られてしまったのだ。
長州武士A「禁門の変・・・敗北なり・・・!」
そう、この事件が「禁門の変」。この事件が、長州に更なる悲劇を呼ぶ。
-8月-
禁門の変から一か月後、「朝敵」である長州藩の征討を命じた幕府。
全国を敵に回した長州― 「第一次長州征討」。
更に振りかかる戦い。
前年に外国船を砲撃したツケが、このタイミングで回って来た。
「四国連合艦隊下関砲撃」。英・仏・米・蘭の4カ国連合艦隊が下関を占領した。
こうして、長州は幕府に降伏したのである。
だがここ数年の出来事は、歴史の歯車を確実に動かしていた。
薩・長の両藩は欧米諸国との戦いを経験し、攘夷は不可能であることを悟っていた。
ならば選ぶ道は一つ。
「討幕」。
高杉晋作「近代的な軍隊を作る。入隊したい奴は名乗り出ろ。我が奇兵隊の戦力として、重宝する。」
木戸孝允「軍備の洋式化を図る・・・その近代的な戦力で、幕府を討つ。」
この二人が藩論を討幕へと転じて行ったのだ。
また、薩摩でも似たような動きが起こっていた。
西郷隆盛「イギリスは強い・・・攘夷は不可能でごわす。」
大久保利通「討幕・・・どうやらそれが残された唯一の道らしい。」
長州武士A「ふざけるなっ!誰が薩摩なんかと・・・!」
薩摩武士C「こっちの台詞だ!長州とは組めぬ!」
幕府の無力を知って、薩・長両藩に近付いて来たのはイギリス公使パークスだった。
幕府を援助するフランスよりも優位に立とうとして、薩長に目をつけたのだ。
だが両藩のわだかまりは、簡単には解消されなかった。
だがこのままで良いはずがない。日本が夜明けを迎えるには、薩長の協力が不可欠―
一体どうすれば・・・。
そこに現れたのは、伝説の男「坂本竜馬」だった。
-1886年-
坂本竜馬「いつまでいがみあっとる気じゃ。夜明けは始まっとる。」
中岡慎太郎「薩長の力なくして、夜明けは訪れぬ。」
土佐藩出身のこの2人の仲介により、遂に両藩は同盟を締結。
それこそが「薩長同盟」、日本を大きく動かした瞬間である。
-幕府-
「長州を再び攻めよ・・・!」
「第二次長州征討」が下された。だがもはや、薩摩藩はもちろんのこと、幕府に従う藩など少ない。出兵に消極的な藩が大多数だった。
薩摩武士C「来おった・・・幕府の働きアリ共が・・・。」
長州武士A「夜明けが見えぬ連中め・・・薩長の近代的装備の力、ここに示す!」
幕府は各所で薩長に大敗。更に14代将軍徳川家茂が大阪城で病没。もはや幕府には引き上げることしか出来なかった。
-1867年-
亀山社中・海援隊に所属していた竜馬。
彼は船中で、「船中八策」を考案する。
遂には土佐藩を動かし、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を実現させた。
この「船中八策」が慶喜に渡るまで、2人の人間を通したと言う。
竜馬から「後藤象二郎」へ、象二郎から「山内豊信」へ。そして豊重から慶喜へ。
10月14日、「討幕の密勅」が薩長へ下った。
そしてその日、大政奉還が行われたのである。大政奉還の目的、それは「討幕の機先を制する」ことにあった。また、政権が天皇に戻ったとしても、徳川家は再び必要とされる。大きな力を持った大名家なのだから。慶喜はそこまで読んでいた。
だがそんな思惑も虚しく、12月9日に「王政復古の大号令」が出されてしまったのだ。
幕府は廃止、そして天皇自らの政治を宣言。更に夜に行われた「小御所会議」で、慶喜は「辞官(内大臣)」・「納地」を迫られる。
こうして徳川家は役職も土地も奪われ、失脚した。
そして、坂本竜馬暗殺。近江屋で襲われた彼は、額を一閃され「もう無理じゃ」と言い残し逝ったという。
-1868~1869年-
戊辰戦争、開幕。
「鳥羽・伏見の戦い」
旧幕府軍の15000の兵と、新政府軍の4~5000の兵が激突した。
だがその圧倒的な質量差虚しく、新政府軍の近代的な武装によって旧幕府軍は大敗。
「年貢半減」を唱えた相楽総三ら「赤報隊」も処刑された。
-3月13・14日-
「江戸城、無血開城」
西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城は無血開城された。
「会津の戦い」
この戦いでは、悲劇が起きた。白虎隊の悲劇である。
20人自殺、そのうち1人のみ蘇生。
1869年5月、箱館で遂に最終決戦。
「五稜郭の戦い」
土方歳三「む・・・無念ッ・・・!」
元新撰組の土方歳三、敗死。
中心人物である榎本武揚は捕獲されたが、黒田清隆の命乞いで助かり、明治新政府でも活躍したと言う。
こうして幕を閉じた戊辰戦争―
その戊辰戦争の中、幕府は明治維新を続けていたのだ。
全国は統一され、新政府が動き出す。
これが、明治時代の幕開け、日本の夜明け―