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『婚約破棄ですか? では殿下、まずは認知バイアスのお勉強から始めましょう』――断罪するはずの王子様が、公開講義の教材になりました

掲載日:2026/10/29

 王立学園の大講堂に、第二王子エリオットの声が響き渡った。


「セリア・フォン・バークレイ! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」


 卒業記念夜会の音楽が止まった。


 金色のシャンデリアの下、招待客たちが一斉に振り返る。


 壇上には、金髪を無駄にふぁさりと揺らしたエリオット殿下。その腕には、ピンクブロンドの髪をした男爵令嬢クララが、怯えた仔鹿のようにしがみついている。


 いかにも絵に描いたような婚約破棄の断罪劇だった。


 ただし、一つだけ予定外のことがあった。


 断罪されるはずの公爵令嬢が、まったく怯えていなかったのである。


「……殿下」


 セリアは群青色のドレスの裾を整え、静かに顔を上げた。


「何だ! 命乞いか!」


「いいえ。以前から申し上げておりますが、大講堂でそのような大声を出す必要はございません。こちらの音響設計は大変優秀ですので、普段の三割ほど声量を落としていただいても、最後列まで十分に届きます」


「なっ……!」


「それと、顎を上げすぎです。声が裏返りますわ」


 実際、最後の一音は少し裏返っていた。


 会場のどこかで、小さな笑い声が漏れる。


「減らず口を叩くな!」


 エリオットは顔を赤くし、隣のクララを抱き寄せた。


「貴様は嫉妬に狂い、心優しいクララを階段から突き落とした! 教科書を破り、悪質な噂を流し、学園から追い出そうとした! このような冷酷な女を王子妃に迎えることなどできぬ!」


「ひどいです、セリア様……」


 クララは潤んだ瞳を伏せた。


「私、ただ殿下をお慕いしているだけなのに……。どうしてそんな意地悪をなさるのですか……?」


 周囲の生徒たちがざわめき始める。


「やはり噂は本当だったのか」


「公爵令嬢という立場を利用して、男爵令嬢をいじめたのね」


 エリオットは満足そうに胸を張った。


「どうだ! これだけの者が貴様を疑っている! 言い逃れはできまい!」


「なるほど」


 セリアは小さく頷いた。


 そして、ドレスの内側に仕込んだ薄い革張りの手帳を取り出した。


「では、殿下。せっかくですので、一つお勉強をいたしましょう」


「……は?」


「本日の議題は、人間の思い込みについてです」


 セリアは手帳を開いた。


「まず第一問。人は、自分が信じたい情報ばかりを集め、それに反する事実を無視してしまうことがあります。これを何と呼ぶでしょう?」


「貴様、何を言っている!」


「はい。残念、不正解です」


 会場が静まり返った。


「正解は『確証バイアス』ですわ」


「かくしょう……何だと?」


「殿下は、クララ様が善良で、私が嫉妬深い悪女だと最初から決めつけておられます。ですから、クララ様が転んだだけでも、私が突き落としたことにしてしまう」


「転んだだけだと!? 目撃者がいるのだぞ!」


「では、証拠を確認いたしましょう」


 セリアは手帳から一枚の紙を抜き取った。


「先週火曜日、午後二時十五分。私は西棟三階の会計監査室で、教頭先生と学園予算の確認をしておりました。出席記録と議事録がございます」


「そ、それは……」


「中央階段までは、早足でも五分以上。私が会議を抜け出した記録もありません」


 セリアは次の紙を掲げた。


「一方、階段の現場には洋梨タルトのシロップが付着しておりました。クララ様が直前に召し上がっていたものです。警備員の報告書には、靴底にも同じシロップが付いていたと記されています」


「そ、それが何だと言うのです!」


「滑りやすい階段で、靴底にシロップを付けて歩けばどうなるか。殿下にも想像できますでしょう?」


「クララが自分で転んだと言うのか!」


「少なくとも、私が突き落としたという証拠にはなりませんわ」


 クララが小さく肩を震わせた。


「でも……私、確かに背中を押されたような気がして……」


「転倒時の感覚については、私には判断できません。ただし、感じたことと、誰が何をしたかは別問題です」


 セリアは微笑んだ。


「思い込みを事実として扱うのは、おやめくださいませ」


 会場のざわめきが少し変わった。


 先ほどまでセリアを非難していた生徒たちが、互いの顔を見合わせ始める。


「だ、だが!」


 エリオットは拳を握りしめた。


「教科書の件はどうだ! クララのロッカーから、貴様の香水の匂いがしたのだぞ!」


「私の香水、ですか?」


「そうだ! あの高慢な香りを忘れるものか!」


「殿下。私が使用している香油は、ラベンダーと白檀です」


「それがどうした!」


「クララ様のロッカーに残っていたのは、ベルガモットの香りでした。学園の調査記録にも、そのように書かれております」


「な……」


「しかも、その香りを私のものだと最初に証言したのは、殿下ご自身です」


 セリアは手帳を一枚めくった。


「第二問です。最初に抱いた印象に引っ張られ、ほかの情報まで都合よく判断してしまうことがあります。さて、何でしょう?」


「知るか!」


「『ハロー効果』ですわ。もっとも、今回の殿下は、単なる思い込みと確認不足も大いに混ざっておりますけれど」


「確認など必要ない! クララは嘘をつかぬ!」


 エリオットはクララの肩を抱き、堂々と言い放った。


「見ろ! この澄んだ瞳を! こんなにも可憐で純粋な女性が、人を陥れるはずがない!」


 セリアは一瞬、言葉を失った。


 そして、ゆっくりと眼鏡を取り出してかけた。


「……殿下」


「何だ!」


「お顔立ちの美しさと、倫理観の正しさには、何の保証関係もございません」


「なっ!」


「美しい花にも毒はありますし、地味な根菜にも豊かな栄養がございます」


 セリアはクララに目を向けた。


「クララ様が美しいことと、教科書を破ったかどうかは、まったく別のお話です」


 クララの唇が引きつった。


「わ、私、そんなことしてません!」


「ええ。ですから、誰が破ったかは調査を続けるべきでしょう。殿下の好みのお顔を根拠に、結論を出してはいけませんわ」


 どこかで、くすりと笑いが起きた。


「ふざけるな!」


 エリオットは壇上から一歩踏み出した。


「貴様は難しい言葉を並べて煙に巻いているだけだ! ここにいる者たちを見ろ! 皆、私の意見に賛同しているではないか!」


 取り巻きの側近たちが慌てて頷いた。


「そうです、殿下!」


「我々もクララ嬢を信じています!」


「ほら見ろ! 皆が正しいと言うのだから、私が正しいのだ!」


 セリアの目が、きらりと光った。


「はい、出ました」


「……何がだ?」


「『バンドワゴン効果』ですわ」


「ば、ばんど……?」


「多くの人が支持しているという事実によって、その意見を正しいと感じやすくなる心理です」


 セリアは会場をゆっくり見渡した。


「皆様にお尋ねいたします。私がクララ様を階段から突き落とすところを、ご自身の目でご覧になった方はいらっしゃいますか?」


 誰も手を挙げなかった。


「では、私が教科書を破るところを見た方は?」


 沈黙。


「私がクララ様の悪評を流しているところを、直接聞いた方は?」


 やはり、誰も手を挙げない。


 セリアはエリオットに向き直った。


「殿下。皆様がご存じなのは、誰かがそう言っていた、という噂だけです」


「ぐっ……」


「大勢が同じことを言っていても、情報源が一つなら、証拠が増えたことにはなりません」


 セリアはにっこり笑った。


「昔は天動説が広く信じられておりましたけれど、多数決で太陽を地球の周りに回すことはできませんでしょう?」


 今度こそ、会場のあちこちから笑い声が漏れた。


「ぷっ……!」


「確かに……」


「殿下、さっきから一問も正解していないぞ……」


 エリオットの顔が林檎のように赤くなる。


「黙れ! 私は第二王子だぞ!」


 壇上の床を、靴音が激しく打った。


「貴様ら、誰に向かって笑っている!」


 笑い声がぴたりと止まる。


 エリオットは勝ち誇ったようにセリアを見下ろした。


「そうだ! 私は王太子候補だ! 王家の権威をもって命じれば、貴様の屁理屈など何の意味もない!」


「……なるほど」


 セリアは手帳を閉じかけた手を止めた。


「殿下は、王家の権威さえあれば、どのような決定も通るとお考えなのですね」


「当然だ!」


「では、第三問です」


「まだ続くのか!?」


「自分にとって都合の悪い結果が起きる可能性を、根拠もなく低く見積もる傾向を何と呼ぶでしょう?」


「知らんと言っている!」


「『楽観主義バイアス』ですわ」


 セリアは壇上へ向かって一歩進んだ。


「殿下。王家の権威は、王国を支える制度と、人々の信頼の上に成り立っております。決して、殿下個人のお財布でも、気分次第で振り回せる杖でもございません」


「貴様、王家を侮辱する気か!」


「いいえ。王家を私物化なさる殿下の認識について申し上げております」


 会場が、再び静まり返った。


「私はバークレイ公爵家の娘として、これまで王家との協力関係を大切にしてまいりました。北方防壁の改修資材、王都騎士団への兵糧調達、そして殿下の教育費や遊興費に充てられた特例融資も、その一環です」


「そ、それがどうした!」


「すべて、無条件の贈与ではございません」


 セリアは手帳の最後のページを開いた。


「王家と公爵家の間には、正式な契約がございます。王子殿下と私の婚約を前提とした特例支援については、婚約解消時に契約を見直す旨が明記されております」


「な……何だと?」


「特に殿下個人への融資は、婚約解消の正式な成立をもって、新規支出が停止されます。既存の債務についても、契約に従って返済計画を再協議することになります」


 エリオットの顔から血の気が引いた。


「ちょ、ちょっと待て。私の遊興費は……?」


「公爵家が負担する理由がなくなりますので」


「新しい馬車は!?」


「ご自身の予算でお求めくださいませ」


「来月の狩猟会は!?」


「ご自身の予算でお楽しみくださいませ」


「クララへの宝石は!?」


「ご自身の予算でお贈りくださいませ」


 会場のあちこちで、肩を震わせる生徒が続出した。


 セリアは静かに付け加えた。


「なお、北方防壁や騎士団への物資供給については、国民の安全に関わりますので、直ちに停止するつもりはございません。王国の担当官と協議し、婚約とは切り離した正式な調達契約へ移行いたします」


「そ、それなら……」


「ですが、殿下個人の贅沢を支える義務はございません」


「ぐあっ……!」


 エリオットは胸を押さえた。


 どうやら、これまでで最も痛烈な一撃だったらしい。


 その隣で、クララが震える声を上げた。


「ま、待ってください……」


 先ほどまでの可憐な微笑みは、すっかり消えていた。


「殿下は、私に約束してくださったんです! 結婚したら宝石もドレスも好きなだけ買ってくださるって! 王妃になれば何不自由なく暮らせるって!」


 会場が凍りついた。


「……クララ?」


 エリオットが振り向いた。


「君は、私のことを愛しているのでは……?」


「愛していますわ! だからこそ、約束を守っていただかないと困ります!」


「だ、だが……」


「私、殿下が王太子になれるって聞いたから……!」


 そこまで言って、クララは慌てて口を押さえた。


 しかし、もう遅い。


 生徒たちの視線が、一斉に彼女へ集まっていた。


 セリアは眼鏡の位置を直した。


「クララ様。将来の利益を期待すること自体は、悪いことではございません」


 クララがほっと顔を上げる。


「ただし、その期待を確実な未来だと思い込み、現在の判断を誤ることは危険ですわ」


「……え?」


「殿下はまだ王太子ではございません。王位を継ぐと決まってもおりません。何より、王家の財産は殿下お一人の私有財産ではないのです」


 セリアは優しく微笑んだ。


「根拠のない将来の贅沢を前提に人生設計をなさるのは、おすすめいたしませんわ」


「そ、そんな……!」


 クララはへなへなと床に座り込んだ。


 エリオットは彼女を見下ろし、呆然と呟いた。


「君は……私が王になれなくても、私を愛してくれるのだろう?」


「そ、それは……」


 クララの目が泳いだ。


「だって、殿下は王子様でしょう……?」


 それが答えだった。


 会場の空気が、少しだけ冷えた。


 エリオットはようやく、自分が信じていたものに疑問を抱き始めたらしい。


 だが、彼はまだ諦めなかった。


「ま、待て、セリア!」


 エリオットは必死に声を張り上げた。


「私はこれまで、貴様との婚約のために多くの時間を費やしてきた! 王子としての教育も受け、舞踏会にも出席し、苦手な外国語も学んだ! ここまで努力したのだぞ! 今さらすべてを無駄にはできぬ!」


 セリアは、心底残念そうに首を振った。


「ああ……殿下」


「何だ!」


「『サンクコスト効果』まで実演してくださるとは」


「またそれか!」


「これまで費やした時間や費用が惜しいあまり、今後の判断まで誤ってしまうことです」


 セリアは手帳を指先で軽く叩いた。


「もっとも、殿下が受けられた教育は、婚約のためだけのものではございません。王族として必要な教養です。それを私への恩着せにするのは、お門違いですわ」


「ぐっ……!」


「それに、婚約を破棄すると最初に宣言なさったのは、殿下ご自身でしょう?」


「そ、それは……!」


「私を悪女と断じ、クララ様を最愛の女性と宣言された。皆様の前で、堂々と」


 セリアは一歩引き、完璧なカーテシーを披露した。


「ですから、婚約解消のお申し出は、謹んでお受けいたします」


「……えっ?」


 エリオットの口から、間の抜けた声が漏れた。


「受ける……のか?」


「はい」


「泣いてすがったり……しないのか?」


「なぜでしょう?」


「私を愛していたのではないのか!?」


 セリアは少しだけ目を伏せた。


「……殿下」


 それまでの軽妙な口調が、ふっと静かになった。


「私は、殿下と共に国を支える未来を信じておりました」


 エリオットの表情がわずかに緩む。


「で、では……」


「ですから、何度もご忠告したのです。人の話を聞くこと。事実を確かめること。立場の弱い者を、噂だけで裁かないこと」


 セリアは顔を上げた。


「けれど殿下は、私の言葉を『冷たい説教』としか受け取ってくださいませんでした」


「セリア……」


「本日、ようやく分かりました。殿下に必要だったのは、私という婚約者ではなく、ご自身の判断を疑う機会だったのですね」


 エリオットは言葉を失った。


「なお、正式な婚約解消には国王陛下の裁可が必要です。今夜の殿下のご発言と、私の受諾については、立会人の皆様の証言を添えて、明朝、王宮へ報告いたします」


「な、ならば、父上が認めなければ……!」


「その場合は、殿下がこの場で私を公然と侮辱された件も含め、改めて協議することになります」


 セリアは穏やかに微笑んだ。


「どちらにせよ、なかったことにはできませんわ」


「ま、待て! 考え直してくれ!」


 エリオットが壇上から駆け下りようとした。


「私の早とちりだった! その……ばいあすとやらを、今すぐ解除する! だから!」


 セリアは思わず瞬きをした。


「殿下」


「何だ!?」


「認知バイアスは、魔法の呪いではございません」


「……え?」


「『解除する』と宣言すれば消えるものではないのです。自分にも思い込みがあると認め、事実を確かめ、判断を見直す。その積み重ねが必要なのですわ」


「で、では、今から積み重ねる! だから婚約だけは……!」


「それは素晴らしい心がけです」


 セリアはにっこり笑った。


「ぜひ、私との婚約がなくなったあとも続けてくださいませ」


「セリアぁぁぁ!」


 悲痛な叫びが大講堂に響き渡った。


 セリアは最後にもう一度、会場を見渡した。


「皆様。本日の授業は、これにて終了です」


 誰かが、ぱちりと手を叩いた。


 続いて、もう一人。


 やがて講堂には、戸惑い混じりの拍手が広がった。


 セリアは優雅に一礼した。


「なお、本日の教材は第二王子殿下のご厚意によるものでございます」


「厚意ではなぁぁい!」


 会場に、今度こそ堪えきれない笑い声が弾けた。


 セリアはくるりと踵を返した。


 生徒たちが自然に道を開ける。


 大講堂の重厚な扉に手をかけたところで、背後からエリオットの声がした。


「待て! 最後に一つだけ聞かせろ!」


 セリアは振り返った。


「何でしょう?」


「私は……私は、どうすればよかったのだ?」


 初めて、怒鳴り声ではない問いかけだった。


 セリアは少し考えた。


 そして、静かに答えた。


「簡単なことですわ」


 春の夜風が、開いた扉から流れ込んでくる。


「ご自分が間違っているかもしれないと、一度でも考えてくださればよかったのです」


 エリオットは、その場に立ち尽くした。


 セリアは微笑んだ。


「それでは皆様、ごきげんよう」


 扉が閉まる。


 背後から、クララの泣き声と、エリオットの情けない呻き声が聞こえた。


 けれど、セリアはもう振り返らなかった。


 春の夜空には、無数の星が輝いている。


 婚約者としての役目も、王子の尻拭いも、今夜で終わり。


 明日からは、自分の知識と時間を、自分の望む未来のために使えるのだ。


 セリアは眼鏡を外し、夜空を見上げた。


「……さて」


 その唇に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。


「次は、どなたにお勉強していただきましょうか」


 王立学園の卒業記念夜会は、後世まで語り継がれることになった。


 第二王子が婚約破棄を宣言した夜としてではない。


 王国史上初めて、断罪する側の王子が、心理学の公開講義で最後まで反面教師を務めた夜として。


 ちなみに、その後エリオット殿下は、国王陛下から一冊の分厚い本を渡されたという。


 表紙には、こう書かれていた。


『初学者のための心理学入門』


 王子が最後まで読み切れたかどうかは、定かではない。


 ただ、最初のページには、国王陛下の直筆で一言だけ添えられていたそうだ。


『まずは人の話を聞け』


 おしまい。



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