『婚約破棄ですか? では殿下、まずは認知バイアスのお勉強から始めましょう』――断罪するはずの王子様が、公開講義の教材になりました
王立学園の大講堂に、第二王子エリオットの声が響き渡った。
「セリア・フォン・バークレイ! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
卒業記念夜会の音楽が止まった。
金色のシャンデリアの下、招待客たちが一斉に振り返る。
壇上には、金髪を無駄にふぁさりと揺らしたエリオット殿下。その腕には、ピンクブロンドの髪をした男爵令嬢クララが、怯えた仔鹿のようにしがみついている。
いかにも絵に描いたような婚約破棄の断罪劇だった。
ただし、一つだけ予定外のことがあった。
断罪されるはずの公爵令嬢が、まったく怯えていなかったのである。
「……殿下」
セリアは群青色のドレスの裾を整え、静かに顔を上げた。
「何だ! 命乞いか!」
「いいえ。以前から申し上げておりますが、大講堂でそのような大声を出す必要はございません。こちらの音響設計は大変優秀ですので、普段の三割ほど声量を落としていただいても、最後列まで十分に届きます」
「なっ……!」
「それと、顎を上げすぎです。声が裏返りますわ」
実際、最後の一音は少し裏返っていた。
会場のどこかで、小さな笑い声が漏れる。
「減らず口を叩くな!」
エリオットは顔を赤くし、隣のクララを抱き寄せた。
「貴様は嫉妬に狂い、心優しいクララを階段から突き落とした! 教科書を破り、悪質な噂を流し、学園から追い出そうとした! このような冷酷な女を王子妃に迎えることなどできぬ!」
「ひどいです、セリア様……」
クララは潤んだ瞳を伏せた。
「私、ただ殿下をお慕いしているだけなのに……。どうしてそんな意地悪をなさるのですか……?」
周囲の生徒たちがざわめき始める。
「やはり噂は本当だったのか」
「公爵令嬢という立場を利用して、男爵令嬢をいじめたのね」
エリオットは満足そうに胸を張った。
「どうだ! これだけの者が貴様を疑っている! 言い逃れはできまい!」
「なるほど」
セリアは小さく頷いた。
そして、ドレスの内側に仕込んだ薄い革張りの手帳を取り出した。
「では、殿下。せっかくですので、一つお勉強をいたしましょう」
「……は?」
「本日の議題は、人間の思い込みについてです」
セリアは手帳を開いた。
「まず第一問。人は、自分が信じたい情報ばかりを集め、それに反する事実を無視してしまうことがあります。これを何と呼ぶでしょう?」
「貴様、何を言っている!」
「はい。残念、不正解です」
会場が静まり返った。
「正解は『確証バイアス』ですわ」
「かくしょう……何だと?」
「殿下は、クララ様が善良で、私が嫉妬深い悪女だと最初から決めつけておられます。ですから、クララ様が転んだだけでも、私が突き落としたことにしてしまう」
「転んだだけだと!? 目撃者がいるのだぞ!」
「では、証拠を確認いたしましょう」
セリアは手帳から一枚の紙を抜き取った。
「先週火曜日、午後二時十五分。私は西棟三階の会計監査室で、教頭先生と学園予算の確認をしておりました。出席記録と議事録がございます」
「そ、それは……」
「中央階段までは、早足でも五分以上。私が会議を抜け出した記録もありません」
セリアは次の紙を掲げた。
「一方、階段の現場には洋梨タルトのシロップが付着しておりました。クララ様が直前に召し上がっていたものです。警備員の報告書には、靴底にも同じシロップが付いていたと記されています」
「そ、それが何だと言うのです!」
「滑りやすい階段で、靴底にシロップを付けて歩けばどうなるか。殿下にも想像できますでしょう?」
「クララが自分で転んだと言うのか!」
「少なくとも、私が突き落としたという証拠にはなりませんわ」
クララが小さく肩を震わせた。
「でも……私、確かに背中を押されたような気がして……」
「転倒時の感覚については、私には判断できません。ただし、感じたことと、誰が何をしたかは別問題です」
セリアは微笑んだ。
「思い込みを事実として扱うのは、おやめくださいませ」
会場のざわめきが少し変わった。
先ほどまでセリアを非難していた生徒たちが、互いの顔を見合わせ始める。
「だ、だが!」
エリオットは拳を握りしめた。
「教科書の件はどうだ! クララのロッカーから、貴様の香水の匂いがしたのだぞ!」
「私の香水、ですか?」
「そうだ! あの高慢な香りを忘れるものか!」
「殿下。私が使用している香油は、ラベンダーと白檀です」
「それがどうした!」
「クララ様のロッカーに残っていたのは、ベルガモットの香りでした。学園の調査記録にも、そのように書かれております」
「な……」
「しかも、その香りを私のものだと最初に証言したのは、殿下ご自身です」
セリアは手帳を一枚めくった。
「第二問です。最初に抱いた印象に引っ張られ、ほかの情報まで都合よく判断してしまうことがあります。さて、何でしょう?」
「知るか!」
「『ハロー効果』ですわ。もっとも、今回の殿下は、単なる思い込みと確認不足も大いに混ざっておりますけれど」
「確認など必要ない! クララは嘘をつかぬ!」
エリオットはクララの肩を抱き、堂々と言い放った。
「見ろ! この澄んだ瞳を! こんなにも可憐で純粋な女性が、人を陥れるはずがない!」
セリアは一瞬、言葉を失った。
そして、ゆっくりと眼鏡を取り出してかけた。
「……殿下」
「何だ!」
「お顔立ちの美しさと、倫理観の正しさには、何の保証関係もございません」
「なっ!」
「美しい花にも毒はありますし、地味な根菜にも豊かな栄養がございます」
セリアはクララに目を向けた。
「クララ様が美しいことと、教科書を破ったかどうかは、まったく別のお話です」
クララの唇が引きつった。
「わ、私、そんなことしてません!」
「ええ。ですから、誰が破ったかは調査を続けるべきでしょう。殿下の好みのお顔を根拠に、結論を出してはいけませんわ」
どこかで、くすりと笑いが起きた。
「ふざけるな!」
エリオットは壇上から一歩踏み出した。
「貴様は難しい言葉を並べて煙に巻いているだけだ! ここにいる者たちを見ろ! 皆、私の意見に賛同しているではないか!」
取り巻きの側近たちが慌てて頷いた。
「そうです、殿下!」
「我々もクララ嬢を信じています!」
「ほら見ろ! 皆が正しいと言うのだから、私が正しいのだ!」
セリアの目が、きらりと光った。
「はい、出ました」
「……何がだ?」
「『バンドワゴン効果』ですわ」
「ば、ばんど……?」
「多くの人が支持しているという事実によって、その意見を正しいと感じやすくなる心理です」
セリアは会場をゆっくり見渡した。
「皆様にお尋ねいたします。私がクララ様を階段から突き落とすところを、ご自身の目でご覧になった方はいらっしゃいますか?」
誰も手を挙げなかった。
「では、私が教科書を破るところを見た方は?」
沈黙。
「私がクララ様の悪評を流しているところを、直接聞いた方は?」
やはり、誰も手を挙げない。
セリアはエリオットに向き直った。
「殿下。皆様がご存じなのは、誰かがそう言っていた、という噂だけです」
「ぐっ……」
「大勢が同じことを言っていても、情報源が一つなら、証拠が増えたことにはなりません」
セリアはにっこり笑った。
「昔は天動説が広く信じられておりましたけれど、多数決で太陽を地球の周りに回すことはできませんでしょう?」
今度こそ、会場のあちこちから笑い声が漏れた。
「ぷっ……!」
「確かに……」
「殿下、さっきから一問も正解していないぞ……」
エリオットの顔が林檎のように赤くなる。
「黙れ! 私は第二王子だぞ!」
壇上の床を、靴音が激しく打った。
「貴様ら、誰に向かって笑っている!」
笑い声がぴたりと止まる。
エリオットは勝ち誇ったようにセリアを見下ろした。
「そうだ! 私は王太子候補だ! 王家の権威をもって命じれば、貴様の屁理屈など何の意味もない!」
「……なるほど」
セリアは手帳を閉じかけた手を止めた。
「殿下は、王家の権威さえあれば、どのような決定も通るとお考えなのですね」
「当然だ!」
「では、第三問です」
「まだ続くのか!?」
「自分にとって都合の悪い結果が起きる可能性を、根拠もなく低く見積もる傾向を何と呼ぶでしょう?」
「知らんと言っている!」
「『楽観主義バイアス』ですわ」
セリアは壇上へ向かって一歩進んだ。
「殿下。王家の権威は、王国を支える制度と、人々の信頼の上に成り立っております。決して、殿下個人のお財布でも、気分次第で振り回せる杖でもございません」
「貴様、王家を侮辱する気か!」
「いいえ。王家を私物化なさる殿下の認識について申し上げております」
会場が、再び静まり返った。
「私はバークレイ公爵家の娘として、これまで王家との協力関係を大切にしてまいりました。北方防壁の改修資材、王都騎士団への兵糧調達、そして殿下の教育費や遊興費に充てられた特例融資も、その一環です」
「そ、それがどうした!」
「すべて、無条件の贈与ではございません」
セリアは手帳の最後のページを開いた。
「王家と公爵家の間には、正式な契約がございます。王子殿下と私の婚約を前提とした特例支援については、婚約解消時に契約を見直す旨が明記されております」
「な……何だと?」
「特に殿下個人への融資は、婚約解消の正式な成立をもって、新規支出が停止されます。既存の債務についても、契約に従って返済計画を再協議することになります」
エリオットの顔から血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待て。私の遊興費は……?」
「公爵家が負担する理由がなくなりますので」
「新しい馬車は!?」
「ご自身の予算でお求めくださいませ」
「来月の狩猟会は!?」
「ご自身の予算でお楽しみくださいませ」
「クララへの宝石は!?」
「ご自身の予算でお贈りくださいませ」
会場のあちこちで、肩を震わせる生徒が続出した。
セリアは静かに付け加えた。
「なお、北方防壁や騎士団への物資供給については、国民の安全に関わりますので、直ちに停止するつもりはございません。王国の担当官と協議し、婚約とは切り離した正式な調達契約へ移行いたします」
「そ、それなら……」
「ですが、殿下個人の贅沢を支える義務はございません」
「ぐあっ……!」
エリオットは胸を押さえた。
どうやら、これまでで最も痛烈な一撃だったらしい。
その隣で、クララが震える声を上げた。
「ま、待ってください……」
先ほどまでの可憐な微笑みは、すっかり消えていた。
「殿下は、私に約束してくださったんです! 結婚したら宝石もドレスも好きなだけ買ってくださるって! 王妃になれば何不自由なく暮らせるって!」
会場が凍りついた。
「……クララ?」
エリオットが振り向いた。
「君は、私のことを愛しているのでは……?」
「愛していますわ! だからこそ、約束を守っていただかないと困ります!」
「だ、だが……」
「私、殿下が王太子になれるって聞いたから……!」
そこまで言って、クララは慌てて口を押さえた。
しかし、もう遅い。
生徒たちの視線が、一斉に彼女へ集まっていた。
セリアは眼鏡の位置を直した。
「クララ様。将来の利益を期待すること自体は、悪いことではございません」
クララがほっと顔を上げる。
「ただし、その期待を確実な未来だと思い込み、現在の判断を誤ることは危険ですわ」
「……え?」
「殿下はまだ王太子ではございません。王位を継ぐと決まってもおりません。何より、王家の財産は殿下お一人の私有財産ではないのです」
セリアは優しく微笑んだ。
「根拠のない将来の贅沢を前提に人生設計をなさるのは、おすすめいたしませんわ」
「そ、そんな……!」
クララはへなへなと床に座り込んだ。
エリオットは彼女を見下ろし、呆然と呟いた。
「君は……私が王になれなくても、私を愛してくれるのだろう?」
「そ、それは……」
クララの目が泳いだ。
「だって、殿下は王子様でしょう……?」
それが答えだった。
会場の空気が、少しだけ冷えた。
エリオットはようやく、自分が信じていたものに疑問を抱き始めたらしい。
だが、彼はまだ諦めなかった。
「ま、待て、セリア!」
エリオットは必死に声を張り上げた。
「私はこれまで、貴様との婚約のために多くの時間を費やしてきた! 王子としての教育も受け、舞踏会にも出席し、苦手な外国語も学んだ! ここまで努力したのだぞ! 今さらすべてを無駄にはできぬ!」
セリアは、心底残念そうに首を振った。
「ああ……殿下」
「何だ!」
「『サンクコスト効果』まで実演してくださるとは」
「またそれか!」
「これまで費やした時間や費用が惜しいあまり、今後の判断まで誤ってしまうことです」
セリアは手帳を指先で軽く叩いた。
「もっとも、殿下が受けられた教育は、婚約のためだけのものではございません。王族として必要な教養です。それを私への恩着せにするのは、お門違いですわ」
「ぐっ……!」
「それに、婚約を破棄すると最初に宣言なさったのは、殿下ご自身でしょう?」
「そ、それは……!」
「私を悪女と断じ、クララ様を最愛の女性と宣言された。皆様の前で、堂々と」
セリアは一歩引き、完璧なカーテシーを披露した。
「ですから、婚約解消のお申し出は、謹んでお受けいたします」
「……えっ?」
エリオットの口から、間の抜けた声が漏れた。
「受ける……のか?」
「はい」
「泣いてすがったり……しないのか?」
「なぜでしょう?」
「私を愛していたのではないのか!?」
セリアは少しだけ目を伏せた。
「……殿下」
それまでの軽妙な口調が、ふっと静かになった。
「私は、殿下と共に国を支える未来を信じておりました」
エリオットの表情がわずかに緩む。
「で、では……」
「ですから、何度もご忠告したのです。人の話を聞くこと。事実を確かめること。立場の弱い者を、噂だけで裁かないこと」
セリアは顔を上げた。
「けれど殿下は、私の言葉を『冷たい説教』としか受け取ってくださいませんでした」
「セリア……」
「本日、ようやく分かりました。殿下に必要だったのは、私という婚約者ではなく、ご自身の判断を疑う機会だったのですね」
エリオットは言葉を失った。
「なお、正式な婚約解消には国王陛下の裁可が必要です。今夜の殿下のご発言と、私の受諾については、立会人の皆様の証言を添えて、明朝、王宮へ報告いたします」
「な、ならば、父上が認めなければ……!」
「その場合は、殿下がこの場で私を公然と侮辱された件も含め、改めて協議することになります」
セリアは穏やかに微笑んだ。
「どちらにせよ、なかったことにはできませんわ」
「ま、待て! 考え直してくれ!」
エリオットが壇上から駆け下りようとした。
「私の早とちりだった! その……ばいあすとやらを、今すぐ解除する! だから!」
セリアは思わず瞬きをした。
「殿下」
「何だ!?」
「認知バイアスは、魔法の呪いではございません」
「……え?」
「『解除する』と宣言すれば消えるものではないのです。自分にも思い込みがあると認め、事実を確かめ、判断を見直す。その積み重ねが必要なのですわ」
「で、では、今から積み重ねる! だから婚約だけは……!」
「それは素晴らしい心がけです」
セリアはにっこり笑った。
「ぜひ、私との婚約がなくなったあとも続けてくださいませ」
「セリアぁぁぁ!」
悲痛な叫びが大講堂に響き渡った。
セリアは最後にもう一度、会場を見渡した。
「皆様。本日の授業は、これにて終了です」
誰かが、ぱちりと手を叩いた。
続いて、もう一人。
やがて講堂には、戸惑い混じりの拍手が広がった。
セリアは優雅に一礼した。
「なお、本日の教材は第二王子殿下のご厚意によるものでございます」
「厚意ではなぁぁい!」
会場に、今度こそ堪えきれない笑い声が弾けた。
セリアはくるりと踵を返した。
生徒たちが自然に道を開ける。
大講堂の重厚な扉に手をかけたところで、背後からエリオットの声がした。
「待て! 最後に一つだけ聞かせろ!」
セリアは振り返った。
「何でしょう?」
「私は……私は、どうすればよかったのだ?」
初めて、怒鳴り声ではない問いかけだった。
セリアは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「簡単なことですわ」
春の夜風が、開いた扉から流れ込んでくる。
「ご自分が間違っているかもしれないと、一度でも考えてくださればよかったのです」
エリオットは、その場に立ち尽くした。
セリアは微笑んだ。
「それでは皆様、ごきげんよう」
扉が閉まる。
背後から、クララの泣き声と、エリオットの情けない呻き声が聞こえた。
けれど、セリアはもう振り返らなかった。
春の夜空には、無数の星が輝いている。
婚約者としての役目も、王子の尻拭いも、今夜で終わり。
明日からは、自分の知識と時間を、自分の望む未来のために使えるのだ。
セリアは眼鏡を外し、夜空を見上げた。
「……さて」
その唇に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「次は、どなたにお勉強していただきましょうか」
王立学園の卒業記念夜会は、後世まで語り継がれることになった。
第二王子が婚約破棄を宣言した夜としてではない。
王国史上初めて、断罪する側の王子が、心理学の公開講義で最後まで反面教師を務めた夜として。
ちなみに、その後エリオット殿下は、国王陛下から一冊の分厚い本を渡されたという。
表紙には、こう書かれていた。
『初学者のための心理学入門』
王子が最後まで読み切れたかどうかは、定かではない。
ただ、最初のページには、国王陛下の直筆で一言だけ添えられていたそうだ。
『まずは人の話を聞け』
おしまい。




