弍配信目『戌亥勧誘』
ベッドから立ち上がり。
トイレを済ませ。
少しだけ人生が整った状態で。
村上永和は、再びスマホを手に取った。
「……よし……」
深呼吸。
そして、メールを開く。
そこに書かれていた差出人名を見た瞬間。
永和の思考は、完全に停止した。
「……え?」
差出人。
戌亥 三頭地獄番犬
「…………え?」
もう一度、読む。
「……イヌイ……ケル……ベロス……?」
永和の指が、ぷるぷると震え始めた。
「トゥ……トゥフフフフ……」
反射的に、笑ってしまう。
現実感が、なさすぎた。
戌亥 三頭地獄番犬。
世界的に有名な。
世界初の犬系Vtuber。
配信黎明期に、突如として現れ。
「犬です。吠えます。噛みません。」という意味不明な自己紹介で大バズり。
世界同時配信で同接三百万人を叩き出し。
今や、教科書に名前が載っている存在。
「Vtuber史における革命的人物」
「バーチャル文化の母」
「番犬なのに人類を導いた偉人」
そんな肩書きが並ぶ化け物だ。
さらに。
あまりの人気ゆえに。
ルーマニアから大統領候補として推薦されたという、意味の分からない経歴まで持っている。
本人は「犬に政治は分からん」と言って断ったらしい。
「……その人から……俺に……?」
永和は、メール本文を読む。
『はじめまして。戌亥 三頭地獄番犬です。
突然のご連絡、失礼いたします』
文章は、意外なほど丁寧だった。
『先日、ある配信サイトのテスト配信一覧を眺めていたところ、
あなたの映像と音声が偶然、目に留まりました』
「……テスト配信……?」
永和は、思い出す。
昨日。
マイクの動作確認で。
カメラを起動したまま。
何も分からず。
腹をさすりながら。
「トゥフフフフ……難しいなぁ……」
と、独り言を言っていた。
『特に印象的だったのは、
あなたのお腹の存在感と、
「トゥフフフフ」という独特な笑い方です』
「そこ!?」
永和は、思わず声を上げた。
『あれは、才能です』
『自覚のないまま放置していい類のものではありません』
「……腹が……才能……?」
混乱する。
だが、メールは続く。
『私は現在、Vtuber事務所〈まじまんじ〉を経営しています』
『もしよろしければ、あなたをスカウトしたい』
「……え?」
目を見開く。
『事務所所属となれば、
配信機材、立ち絵、初期サポートはすべてこちらで用意します』
『あなたは、配信するだけでいい』
永和の喉が、ごくりと鳴った。
「……断る理由……ないよなぁ……」
大学は、もうない。
将来設計も、ない。
人生、ちょっと諦めかけていた。
そんな自分に。
世界的Vtuberが。
直々に。
スカウト。
「トゥフフフフ……意味、分かんないなぁ……」
だが。
心の奥で。
何かが、ふっと灯った。
「……でも……」
画面を見る。
メールの最後。
『ご興味があれば、
明日の二十時にオンライン面談を希望します』
『犬ですが、真剣です』
「……犬なのに……真剣……」
永和は、しばらく黙ったまま。
スマホを見つめていた。
そして。
「……やります……!」
誰に言うでもなく。
そう、呟いた。
「トゥフフフフ……どうせ……もう……」
失うものは、ほとんどない。
なら。
飛び込んでみるのも。
悪くない。
こうして。
村上永和は。
Vtuberになる権利を。
正式に。
手に入れたのだった。
それが。
後に。
世界を騒がせる。
伝説の始まりになるとも知らずに。




