⑧
ウェイターに勧められるがままオレンジ色の液体が入ったグラスを受け取る。
またアルコールだろうかと匂いを確かめると柑橘系の爽やかな香りを強く感じた。
(これもお酒なのかしら……)
目の前に立つウェイターはシルヴィーが飲むのを待っているのだろうか。
気まずい沈黙が流れる。この場合、どうすればいいかわからずにシルヴィーはグラスを一気に空にする。
カッと熱い液体が喉を通り抜けて咽せてしまいそうになったがなんとか堪えた。
どうやら強いお酒だったようだ。後から襲う苦味に顔が歪んでしまう。
ウェイターは空のグラスを受け取ると丁寧に頭を下げて去っていく。
どうやらグラスを空にして正解だったようだ。
自分のことに手一杯だったため、ウェイターの唇が弧を描いていることに気づくことはなかった。
シルヴィーは仮面は顔を上半分ほど覆い尽くしているため、口元を押さえつつも端へと向かう。
しばらく吐き気が落ち着くまで待っていようかと思ったのだが、浮遊感はどんどんと強くなるばかり。
(とても強いお酒だったのかしら……このままだとよくないわ。一旦、外に出て気分転換しなくちゃ)
視界が時折ぐにゃりと歪んできたため、シルヴィーは人混みをかき分けながら少しでも酔いを覚そうとテラスに移動しようとおぼつかない足を必死に動かしていると……。
「……っ!?」
「おやおや、大丈夫かい……?」
肉厚で柔らかい何かに当たり跳ね返ってしまう。
勢いよくぶつかってしまったせいか、シルヴィーは後ろにフラフラと倒れそうになってしまう。
なんとか転ばずに済んで安心しているのも束の間、「大丈夫かい?」と、生温かい息がかかる。
無意識に体を引くと、手首を強く引かれて体ごと引き寄せられる。
(な、なに……!? 誰なの?)
シルヴィーはゆっくりと顔を上げる。
目の前にいる男性はお腹がでっぷりと膨らんでおり、汗臭い匂いが鼻につく。
先ほどの柑橘系の匂いはすっかりと消えてしまった。
しっとりと汗で濡れたシャツにゾワリと鳥肌が立ってしまう。
「は、離して……っ」
「ははっ、かわいらしいじゃないか」
反射的に距離を取ろうとするものの、壁に押さえつけられて身動きが取れなくなってしまう。
お酒のせいなのか視界がぼやけていき、力が入らずにされるがままになってしまう。
嫌だと叫ぼうとしても、大きな体で挟まれてしまい声が出ない。
嫌悪感から涙が滲む。ドキドキと心臓が警告するように高鳴っていく。
(どうしよう……! このままじゃこの人に……っ)
シルヴィーは助けを求めるように辺りを見回すのだが、こちらを小馬鹿にするように笑みを浮かべているだけで誰も動かない。
会場の真ん中で彼が何をしようとも止めることも気にする様子はない。
まるでこうなることが当然だと言わんばかりに……。
シルヴィーが悲鳴を上げる前に強引に腕を引かれてしまう。
それでもなんとか声を絞り出す。
「だ、誰か……っ!」
「ヒッヒッ、叫んでも無駄だ。誰もお前のことなど助けたりしない」
その一言が重たくシルヴィーの耳に響く。
まるでこうなることがわかっているようにも思えてゾッとしてしまう。
今まで感じたことがない恐怖に鳥肌が立つ。
夜会というのはこういうものなのだろうか。何も知らないのはシルヴィーだけなのかもしれない。
シルヴィーは男性に引きづられるようにして会場を出る。
必死に抵抗しようとするものの薄暗い廊下を進んでいく。
(うぅ……気持ち悪い! 誰か助けてっ)
抵抗しても無駄だと言わんばかりにニヤニヤと唇を歪めている男性。
こんな状況なのに廊下ですれ違う人たちは見てみぬフリをして誰も助けてはくれない。
無理やり体を動かされているからか、どんどんと酔いが回ってくる。
(こんなとこ来なければよかった……!)
今更後悔が押し寄せてくる。夢にまで見たパーティーは最悪なものになってしまった。
そんな時、視界の端に映るシルバーの髪と顔全体を覆い隠す仮面をつけた青年の姿。
(……あれ? どうしてここに?)
彼が一人で立っている姿が見えたような気がしたが、こんなところにいるはずはない。
きっと今も令嬢やご夫人たちに囲まれているのではないだろうか。
(あの人、どこかで……)
一瞬、頭の中に素晴らしい刺繍やレースが浮かび上がる。
それもパーティーに出席しているからだろうか。
シルヴィーが何かを思い出せそうな気もしたが、掴まれた手首の痛みで現実に戻る。
男性に掴まれている腕を振り払おうとするが、シルヴィーの体からどんどんと力が抜けてしまう。
あんな少しの量のお酒だけでこうなってしまうのなら、母の忠告を聞いて飲まなければよかったと思っても手遅れだ。
意識が朦朧とする中、ついに腰を掴まれて抱え上げられてしまう。
(嫌っ……! 振り払いたいのに体が思うように動かせない!)
精一杯、抵抗していたが、身動きができないまま部屋の中へ。
ベッドに放り投げられて、ふかふかなシーツに体が沈む。
「まんまと騙されおって……これだから生娘はたまらん。この天国から地獄に落ちていく瞬間が一番たぎるな」
「……ど、して」
シルヴィーはゆっくりと顔を上げる。
乱れた髪の隙間からは、荒く息を吐き出して唇を歪める男性が装飾がこれでもかと施されているコートを脱ぎ捨てた。
「ハハッ、お前は父親に売られたんだ! これは仕組まれたことさ」
「うそ…………お父様に?」
「そうだ。娘をやる代わりに金を貸していた分をチャラにするとな」
「──ッ!」
「ワシはマイケル・ラディング……覚えておけ。お前はラディング侯爵家の十番目の妻として嫁いでくるんだ」