①
「俺はミリアムと結婚して、レンログ伯爵家を継ぐ」
「…………そうですか」
形式上、シルヴィーの婚約者のロランはそう言って艶やかなライトブラウンの髪をかき上げた。
書類をまとめる手を止めて顔を上げた。
「アンタは婚約は破棄されたのよ。荷物をまとめて今すぐに伯爵邸から出て行ってちょうだい」
隣にはシルヴィーの義理の妹……とは言っても同じ歳のミリアムの姿がある。
ミリアムがシルヴィーの婚約者であるロランと身を寄せ合っているのはいつものことだ。
今は外で飲み歩いている父の代わりにシルヴィーが領地管理をして、必要な書類の整理をしていた。
子爵家の次男であるロランとの婚約が決まったのは一年前のことだ。
当時、ミリアムは王太子と結婚するのだと意気込んでいたしロランを馬鹿にしていた。
ロランとの結婚の目的は金だ。
税収があるからと何もせずに遊び呆けていた父。
情勢が移り変わり、事業や投資などで資金を得ることが主流になっていたのだが、その頃にはすっかり取り残されて資金難。
安易に手を出した事業で大失敗。
しかし簡単に甘美な過去を忘れられず怠惰な生活は続いていた。
己の欲が我慢できずに堕落していき、ついに新興貴族に頼らずにはいられなくなった。
古参貴族たちに馬鹿にされたとしても爵位を手放すことだけは嫌だったのだろう。
ロランの家は商人から成り上がった新興貴族だ。
この結婚は古参貴族のレンログ伯爵家の爵位目的で、社交界での立場を確立するものだと言っても過言ではない。
「今すぐですか?」
「えぇ、そうよ! 今すぐに出ていってちょうだい。もうアンタは用済みなのよ」
「……お父様の許可は?」
シルヴィーが淡々と問いかけると、ロランとミリアムは馬鹿にするように笑った。
「物分かりの悪いお前のために説明してやろう。もうお前は今この瞬間から平民なんだ」
「シルヴィーお姉様、行くところはなくなっちゃうわね。可哀想に……本当に魔法の力にも恵まれずに惨めね」
「…………」
「わたくしのように、お父様と同じだったらよかったのに」
シュマイディト王国には魔法という特別な力があった。
魔法の属性は結婚や爵位に大きな影響のあるもので、結婚相手にとっても重大といえるだろう。
(いつかはこうなると思っていたから、さして驚かないけど……)
どうやら二人はシルヴィーを嵌められたと思い、優越に浸っているようだ。
シルヴィーに無関心な父はくだらない理由で簡単に切り捨てられてしまう。それはわかっていた。
だからこそシルヴィーは前々から準備を進めていたのだ。
(案外、早かったのね。こうもあっさりと追い出してくれるなんて思わなかったけど)
シルヴィーは俯きつつも唇を歪めた。
この時をずっと待ち望んでいたのだ。やっと解放される。
そう思っているのはシルヴィーの方なのに二人は高らかに笑っていた。
(これで……これでやっと自由になれるわ!)
──シルヴィーは過去のことを思い出す。
シルヴィーを産んだ母は恵まれない魔法属性と、父の火属性を継いだ男児を産まなかったことで父によく罵倒されていた。
それが物心ついた頃からシルヴィーに残っている記憶だ。
シルヴィーは自分が男児じゃないことに罪悪感を覚えていた。
母はそれでもシルヴィーに惜しみない愛情を注いでくれたが、伯爵邸の外には出してもらえずに、肩身の狭い思いをしながら生きてきた。
『シルヴィー……わたくしのせいで本当にごめんなさい』
母はいつもそう言っていた。
レンログ伯爵に冷遇されていたが、母が元気でいてくれるのなら他に何もいらない。
シルヴィーは母と共にいられて幸せだったし、母と同じ魔法の力を誇らしく思っていた。
それが糸や紐状のものを操ることができるという特殊な魔法だった。
母はこの魔法のせいで実家からも疎まれていたらしいが、へこたれることなく強く生きてきたそう。
だからこそこの扱いにも耐えられるのだと話してくれた。
この力が貴族たちから疎まれる理由は火、水、風、土、雷など代表的な属性に入っていないから。ただそれだけだった。
この魔法はレースを早く編めたり、刺繍や服作りに役に立つ。
洗濯物だって早く干せるし、近くに紐状のものがあれば悪漢だってすぐに拘束できた。
しかしそれは貴族としての役割ではないと判断されているのだろう。
シュマイディト国王はどの魔法属性でも平等にと働きかけているのだが、一部貴族たちから同意が得られることはなかった。
母は子爵家の三女で将来は自分の魔法が役に立つ服作りの商会で雇ってもらおうと日々、魔法の腕を磨いていたそうだ。
だが、レンログ伯爵家との縁談がきたことで日頃から母を疎んでいた姉たちにはめられて結婚しなければなくなった。
伯爵である彼がなぜ評判が悪いかというと、魔法が使えない元娼婦の女性を溺愛していたからだ。
いくら伯爵家の正妻になれるとしても、愛人がいて金遣いが荒いとわかっている家に嫁ぎたくはない。
幸いにも早い段階でシルヴィーを身もごり、前伯爵の時から仕えている執事と共になんとかレンログ伯爵家を支えてきた。
しかし母は次の子どもを身ごもることはなかった。
父に男児を産まなかったことで役立たず認定されてしまう。
母も彼を愛していなかったため安心したそうだ。
それから程なくして、父はほとんど帰ってこなくなり、娼婦の愛人のところに入り浸るようになった。