第9話 勇者ヘリオス
上級悪魔が討伐され、その支配から解放された広大な地域には、未だ人の統治が及ばぬ場所がある。そういった空白地域は、灰色領域と呼ばれ、無法地帯となっていた。
「──エリオラ……エリオラ……」
懐かしい声が、微睡みの中から響いてくる。それは、とても優しい母の声だった。
だがその名は、聖剣を手にした日、過去と共に捨てた名。それでも時折、こうして夢に呼び戻される。
声に導かれるように、勇者は静かに目を覚ました。
朝の光はまだ届かず、世界はひそやかな闇に沈んでいる。
久しぶりに見た夢だった。
安らぎに満ちた夢──けれど、心地よさとは裏腹に、それは何かを知らせる前触れでもある。
勇者の胸に、言いようのない不安が滲む。この夢を見た日は、いつも、良くないことが必ず起きる。
《姫公よ。本日は、青空が広がる良き天気にございますね。》
目覚めた勇者に、聖剣グラムはいつもと同じように語りかけた。まだ外には太陽すら登っていないのに告げたその言葉は、勇者の細やかな心の動きをつぶさに拾い上げているようだった。
聖剣は知る。無敵の勇者の心の奥底に眠る、痛みを。それを口にすることは、絶対にない事を。
だから、剣でありながら、祈る。
雲ひとつない空のように、せめて今日という一日が、心を曇らせずに始まるようにと──
聖剣の言葉に、勇者は小さく息をついた。
まだ胸の奥に残る夢の残滓が、深く沈んだまま揺れている。
外はまだ、目覚めていない──けれど、勇者は感じていた。この静けさは、長くは続かない、と。
その時だった。
まるで夜が戸惑うように、風が窓をかすかに揺らした。澄み切った空気の中に、ほんのわずかな不穏さが混じっている。
鳥はまだ鳴かず、獣の気配もない。だが、その静寂の中から風を起こした犯人が近づいてくる。
”──ドン! ドン!” 重く乾いた戸を叩く音が、静寂を破る。
こんな時刻に扉を叩く者が、何を告げに来たのか、勇者にはすでに察しがついていた。
聖剣は音の方へと鋭く意識を向けると、ぽつりと呟いた。 《無礼者……》
「勇者殿! 居られますか? 至急、お伝えすべきことが──!」
戸の外から、息を切らした声が響く。慌ただしさと、ただならぬ気配を含んだ声だった。
その声に、勇者は手元の聖剣をそっと握り、静かに応じる。
「……ええ。ここに。」
扉を開けると、そこには、近衛騎士のリアが数名の部下を従えて立っていた。
夜を徹して馬を駆ったのだろう。髪は乱れ、頬には疲労の色が濃い。何より目を引いたのは、焦燥を隠しきれないその表情だった。勇者の姿が視界に入った途端、リアはなりふり構わず、切迫した口調で話を始めた。
それは、灰色領域に迫る危機についてだった。
夜を徹して駆けてきた理由も、再会の挨拶をする間も惜しむ理由も、すべてがその危機に繋がっていた。
だが、リアが語る内容の中で、確たる情報は驚くほど少なかった。
魔族たちの動きには不穏な兆しがあるものの、それが攻勢の準備なのか、陽動なのかすら掴めていない。
もし、敵の狙いが勇者であるならば、備えるべき方策は明確だった。
だが、敵の目的がそれ以外の場合、その目的を絞るのは困難だった。
《我が身を向ける敵すら定まらぬとは、術も無し……。》
その言葉は、ただ勇者と二人きりの時間を邪魔された恨みを多分に含んだ、聖剣の独り言に近かったが、リアには重く響いた。
ただ、勇者にはもう一つの選択肢も残されている。
──先手を打ち、自ら敵地へと赴き、敵の拠点を叩く。
だがその選択は、あまりに危うい。今の状況自体が、その行動を引き出すための罠である可能性は十分にある。
敵の目的が掴めない以上、勇者個人に今できることは、聖剣が言うように事実上ほとんどない。
動かずに迎え撃つか、乏しい情報から行動に移すか。いずれにせよ、主導権は敵の手中にあった。
そしてそれを、何よりリアが理解していた。
彼女の焦燥は、恐怖からではなかった。
敵の不穏な動きに対し、早々に増援要請を送ったが、すでに後手に回っている事は否めない。
万全の体制の構築が間に合わないのであれば、第一に何を守らねばならないのか。その問いに、リアは揺るがぬ答えを持っている。
リアが想定しているのは、最悪の事態だった。
たとえ敵地へ踏み込まずとも、魔族が全戦力を投じて勇者を討ちに来る──それはあり得ない事では無い。
そして、それが現実となった時、絶対に勇者だけは守り抜かねばならない。勇者の命は、他の誰よりも重いのだから……。
本当は、今すぐにでも勇者を本国へ戻したいと、リアは考えている。それが最悪の事態を避けるための、現時点で取りうる最善の策だ。
だがそれは、灰色領域に生きる人々すべてを見捨てる、ということに等しい。
そしてそんな提案に、勇者が首を縦に振るとは、リアには思えなかった。
ならば、自分が成すべきことはひとつ。増援が届くまで、勇者を守るための防衛拠点を築くこと。
それはただの砦ではない。敵の攻勢を防ぐための陣地でもない。
それは、もしこの地が地獄と化したとしても、その中心に立つ勇者だけは生き延びさせるための、たった一人のための生命線──。
誰を犠牲にしても、何を失っても、それが非道と罵られようとも、リアの使命は、勇者の命を繋ぐ最後の盾となることだった。
リアは王国への増援要請と並行して、すでに部下たちを灰色領域の各地へと走らせていた。要所に兵を配置し敵の動きを見張らせたが、すべての村々に兵を割く余裕はなかった。そういった集落には、魔族の襲撃を警告し、戦える者には武器を配って回った。
ただ、その迅速な行動は、それ故に隠密性に欠け、リアの部隊の動きがフェレスの盗賊団に筒抜けとなる事態を招いていた。
◆◇◆◇◆◇
盗賊頭フェレスは、灰色領域に張り巡らせた盗賊団の網によって、人間側の動きをほぼ完全に把握していた。
しかし、魔界の魔族たちの動向だけは依然として掴めなかった。諜報を任せていた魔族からも、いまだに何の連絡もない。
魔族がどれほどの戦力を投入してくるのか、そんな基本的な情報すら読めない状況だった。
これは、サキアの隙のなさを示していた。だが裏を返せば、それから読み取れることもあった。
大規模な殲滅戦を行うのであれば、事前にある程度の兵力展開や威嚇的な動きが必要となる。そして、そのような準備の痕跡を完全に隠し通すことは、通常は不可能だ。
──だが、現実にはそれが見えない。ならば、この灰色領域から集めた兵は、いったいどこへ消えたのか。
考えられるのは、局地的かつ一撃必殺を重視した電撃作戦だ。そのような戦いにおいては、奇襲性と情報の秘匿が何よりも重視される。だからこそ、敵は全貌を悟らせぬよう、兵を小規模な部隊に分散し、各地に配置した仲間同士を厳しく監視させ、徹底した隠蔽を図っているのだ。
それは、複数地点での同時攻撃、あるいは陽動と本命を組み合わせた二重構造の作戦かもしれない。
もし、単なる力と力のぶつかり合いとなるのならば、フェレスにとっては、むしろ歓迎すべきことだった。
二大勢力が全力で衝突すれば、双方が無事では済まない。どちらが勝っても、互いの戦力は大きく損耗する。
そうなれば、この灰色領域はどちらの手にも渡らず、自分たちは一切手を汚さずに、混乱の中で独立性を強めることができる。
フェレスの望みは、まさにその未来だ。
この地を、人間にも魔族にも属さぬ、誰も干渉できぬ領域として存続させること。
ゆえに、勝者がどちらになるとしても、一方的な勝利では困るのだ。
だが今、魔族の動きはあまりにも静かすぎる。しかし、何かしらの意図に基づいた、計画的な行動を取っていることは明白だった。
この意図を見誤ることは、自分たちの命すら危うくさせる。
軽々しく動けば、状況を悪化させかねない。しかし、何も手を打たずに両陣営の均衡が崩れてしまえば、それもまた最悪だ。
どちらが優勢ともつかず、読み切れない盤面においては、一手ごとに慎重でなければならない。
フェレスは思考の網を張り巡らせ、なおも、わずかな兆しから最善の一手を模索し続けていた。
副官のファウは、姉フェレスの決断を、ただ黙して待っている。
その命令が、速やかに遂行されるように組織の機動を研ぎ澄まし、ただその時を待っている。
迷いは一片もない。ただ静かに、フェレスの意志こそが、自らの進むべき道であると受け入れている。
その瞳には、決して揺るがぬ信頼と、姉と命運を共に背負うという覚悟が宿っていた。
◆◇◆◇◆◇
──突然、空が沈黙した。
まるで落雷の前の一瞬の静けさのように、風も、鳥のさえずりも、牛車の軋む音すらも止み、世界が音を奪われた。
その村は、数えるほどしかいない家族が肩を寄せ合い、灰色領域の中でありながら、外界と関わることなくひっそりと暮らしていた。
昼下がりの陽光のもと、川辺では子どもたちがはしゃぎ、畑では老女が草を摘んでいた。何の変哲もない、穏やかな日常だった。
それを最初に見つけたのは、村の子供だった。空に浮かぶそれは、大きな鳥のように見えた。だが、近づくにつれ、あまりにも巨大で、あまりにも歪な姿だと気づいた。
「鳥じゃ、ない……。」 と、口にしたその次の瞬間──それは火球を吐き出した。
小さな村は、あっという間に火に包まれた。
この村には、守り手などいない。訓練を受けた兵隊も、武器を持った男すらいない。拠点として価値がないどころか、地図にすら載っていないような小さな集落に過ぎなかった。
多くの者は逃げる間もなく、何が起こったのか、なぜ自分たちだったのか、何が間違っていたのか、何一つ理解できぬまま炎に焼かれた。
ただひたすらに無意味な暴力が、村を灰へと還していった。
そして、誰も知らぬ村は、誰にも知られぬまま、終わりを告げた──
それが、全ての始まりだった。
魔族たちは、少人数の分隊で行動し、灰色領域を蟻が這うように進みながら、小規模の村だけを選び、容赦なく蹂躙していった。そして、ただひたすらに破壊と進軍を繰り返した。
そのため、その侵攻を察知するのには、いくつかの村々の犠牲を必要とした。
魔族の動きをようやく最初に捉えたのは、フェレスの盗賊団だった。
しかし、その魔族たちの行動は、彼らには理解し難いものだった。防衛線にも交易路にも関係のない、価値のない集落を狙った襲撃に、戦略的意味などまったく無かったからだ。
部下からの一報を受けたフェレスは、魔族の狙いを思案した。
(これは、勇者をおびき寄せるための陽動か?)
彼女は直観的にそう考えたが、すぐに不可解な点に気づく。
魔族の行動は、ただ陽動するだけなのだ。肝心の、勇者を引き付けた先、が無い。
勇者をおびき寄せたところで、少人数の雑魚が敵う訳もなく、その様な輩が急遽設置した罠など、勇者相手に通用するはずもない。
フェレスの目には、これは愚かな自殺の行軍としてしか映らなかった。
そこで、フェレスの脳裏にある可能性がよぎる。
(もしかしたら、魔族の標的は、勇者ではないのかもしれない)
しかし、だとするなら、何なのか。そこに至ることまでは出来なかった。
そして、その可能性の中に、自分たちも含まれる以上、フェレスは迂闊に動くわけにはいかなくなった──。
次に魔族の侵攻と遭遇したのは、リアの部下たちだった。
駐屯地の周辺を哨戒していた彼らの前に、まるで向こうから迷い込むように、突如として魔族の一団が襲来したのだ。
それは、奇襲とは言い難かった。敵は無警戒に、彼らの監視の網に飛び込んできたのだった。まるでこちらの存在にすら気づいていないかのような、異様な様子だった。
しかし、戦いとなれば、王国軍の中でも選りすぐりの実力者である彼らは、並の悪魔ごときに遅れは取らない。数では不利がありながらも、能力と装備の差によって、彼らは簡単に魔族を討ち果たしてみせた。
その戦いは、彼らが灰色領域で日々経験している、小競り合いと変わらなかった。
──まさか、同じような襲撃が各地で同時に発生しているなどと、現地で交戦していた彼らには知る由もなかった。
彼らのその認識の遅れは、リアへの報告となって現れる。
部下の報告は、あくまで局地的な遭遇戦として届けられた。防衛任務に就いていた彼らが魔族に集中的に狙われたわけではなく、一部の部隊が偶発的な襲撃に晒されたにすぎなかったのだ。
それはまさにフェレスたち盗賊団が受けた印象とも一致していた。この程度の小規模な襲撃に、戦略的な意味を見出すことはできなかった。
まさかこの魔族の襲撃が、明確な意図を持ち組織的に仕組まれた侵攻作戦の一端だとは、この時点では見抜けなかった。
それでも、そうした報告が少しずつリアに集まり、全体像が見え始めると、彼女はそれに応じて布陣の再配置に動き出した。
認識の遅れのせいで、犠牲者が増えたとはいえない。しかし、元より手駒が限られている以上、どこかに増援を送れば、別の場所が手薄になり、空白地帯を生むのは避けられない。
……だがそれすらも、奴らの計画の一部に過ぎなかった。襲撃の狙いは、まさにその空白を引き出すことにあった。
不可解な行動は、ただそれだけで人を惑わせる。そこに意味があるかどうかすら、関係ない。
サキアは、同じ動きをする部隊を、二つの異なる役割に分けて動かしていた。
一つは、ただ混乱を撒き散らすための囮部隊。手当たり次第に村を襲い、無差別に暴れさせる。
もう一つは、明確な目標に向けて進軍させる侵攻部隊。標的だけを攻撃するように命じてある。
共通しているのは、どちらの部隊も使い捨てであるということ。そして、どちらにも目的が無いということだった。
この異様な行動の真意を、人間側が見抜き、二つを区別することなどできない。
だが、たとえ戦力的には容易に撃退できるような小規模の襲撃であっても、リアたちは放置するわけにはいかない。それは、自分たちに勝算のある戦いであれば尚更のことだった。
そんな人間が動いた瞬間生まれる、心の隙とも言える空白地帯──サキアの狙いは、まさにその一瞬を突くことにあった。
眷属を囮とし、その屍を踏み台にして、本命の部隊をその空白地帯に送り込む──その冷酷非情さこそが、この作戦の第一段階の要だった。
リアたちの警戒網の外となった空白地帯へと侵攻した魔族の部隊を、唯一察知したのは、フェレスが率いる盗賊団だった。
しかし、その発見報告を受けたフェレスは、わずか数語のみで命じた。
「全軍、撤収だ。髑髏の森へ帰還せよ。」 その声に迷いは一切なかった。
偵察が視認した魔族の部隊は、明らかに他の陽動の規模ではなかった。もしあれが、自分たちへ向けて進軍していたなら──全力で迎え撃ったとしても、生き残れる保証はない。そう判断させるだけの、圧倒的な戦力を備えていたのだ。
その中にただ一体、異様な気配を放つ存在があった。
赤い甲冑をまとい、剣と盾を携えたその姿は、騎士のようですらあったが、その体からは瘴気が溢れ、異形な影となって地になびいていた。
上級悪魔──それは、そう呼ばれるにふさわしい魔力を纏った悪魔だった。
フェレスたち盗賊団にとって、まともにやり合って勝てる相手ではない。触れてはならない災厄だった。
あの勇者以外では、まともに対峙することすら危うい戦力を、この様な手段を使って送り込んできた事に、フェレスは戦慄した。
勇者との対決が目的であるなら、ここまで手の込んだ陽動をする必要はないはずだ。では、誰を標的としているのか。それが自分たちではないという保証はどこにもなかった。彼女たちはその事態に備え、森に潜み万全の体制を整える準備を始めた。
一方その頃、勇者は、未だこの戦場の全容を把握できずにいた。
リアたちが油断していたわけでは決してない。むしろ、あらゆる可能性に備えて手を尽くしていた。だが、勇者を避けるように侵攻する敵の数に対し、今の手勢では限界があった。
かといって、勇者を孤立させるわけにはいかない。敵の不可解な攻撃はただそれだけで、リアと勇者の行動を縛り付けていた。
それらはすべて、サキアの思惑通りだった。
見える手で惑わし、見えぬ手で縛る。それは勇者に対してではない、策を弄せねばならない勇者の周囲を手玉に取った作戦だった。
フェレスは見えるがゆえに、自らを縛り、リアは勇者を思うがゆえに、勇者を縛る──。
サキアはまるでその場で見ているかのように、敵を利用し操っていた。
その間隙を縫って、混乱と陽動によって切り裂いた戦地に、上級悪魔は着実に目標へ向け進軍を続けていた。
◆◇◆◇◆◇
陽光が乾いた大地を焼きつける。足に差すその濃い影と共に、灰色領域の荒野を、魔族の部隊は突き進んでいた。
ひと際禍々しい気配を放つ上級悪魔を筆頭に、一切留まることなく続いた進軍も、ある小高い丘を越え、ひっそりと佇む集落を眼下に収めた時、ようやく足を止めた。
その直前、乾いた土煙の中からまるでその中から這い出るように、フードをかぶった女が現れた。
灰褐色のフードを深くかぶった女は、何の躊躇もなく部隊の前へと進み出る。
「あの女は、この先の集落におります。」
フードの女は上級悪魔の前に跪き、挨拶もなくただ、それだけ報告した。
「──これで、サキアへの義は立てた。あとは我が意のままにさせてもらう。」
上級悪魔は冷たくそう言い放つと、独り集落へと向かう。
その動きに合わせ、最も近くにいた部下がその後を追おうとした刹那──その者の首は刎ねられた。
抜いた剣を鞘に戻すと同時に、刎ねた首が地に落ちる。
誰も、何が起きたのかすら分からない。ただ、赤き刃が空を切った事実だけが、その場に刻まれていた。
「我が戦に、塵一つ入ること、断じて許さぬ。」
その声は、地を這い、空を震わせる。怒気も憤怒も込められていない。ただ、圧倒的な静寂の中に潜む死の宣告だった。
それは、上級悪魔の譲歩だった。勇者から逃れるように進軍し、ただの人間を討つように命ぜられたことに、この上ない屈辱を噛みしめていた。
この侮辱を、ここにいるすべての者の首で晴らしてもよかったが、それをしなかったのは、ただ戦いの前に興が削がれるのを嫌っただけに過ぎなかった。
「些事は好きにするがいい……」
それは誰に言ったのか、フードの女か、あるいはそれに命を下したサキアへか。ただそれだけ言い残し、上級悪魔はかき消えた。
フードの女も、その後を追うように姿を消す。残された魔族たちは、どうする事もできず、多くがその場に留まっていた。
その中に、フェレスの配下となった悪魔が紛れていたことは、彼女にとって幸運だった。
丘の下に広がる集落には、人の気配が一つとして残されていなかった。
村人が痕跡も残さず姿を消したことは、こちらの襲撃を予期していた証であったが、上級悪魔にとっては取るに足らぬ事だった。
無人の村の片隅に、ひっそりと建つ小さな礼拝堂に、上級悪魔は音も無く足を踏み入れる。
祭壇の前には、ただ一人、村に残った聖女が跪いていた。手を組み、伏せた睫毛の奥で、祈りの言葉を紡いでいる。
恐ろしいほどの静寂の中で、ただ祈りの言葉だけが世界を包んでいた。
その祈りは何を願う言葉か、平和か、終焉か──ともあれ、すでに戦いの幕は上がっていた。
上級悪魔は無言のまま、腰に帯びた剣をゆっくりと引き抜く。その動作が終わると同時に、祈りの声は静かに止んだ。
聖女は目を開け、組んでいた手をそっとほどく。そして、その手を乙女の聖典の上へと重ねた。
“פרק 14, פסוק 2 כָּל הַנִּגַּשׁ אֶל הַשַּׁחַר, יִלְבַּשׁ בִּגְדֵי זֹהַר וִיקַדֵּשׁ אֶת גּוּפוֹ בְּנֶטֶל טָהֳרָה
בְּגָדָיו יֵעָנוּ בַּדָּם שֶׁל תְּפִלָּה, וּכְבוֹד רוּחוֹ יִשָּׁמֵר לְעוֹלָם
(第14章第2節 黎明に向かう者は、輝きの衣をまとい、身を清める禊にてその体を聖別せよ。
その衣は祈りの血を吸い、魂の尊厳は永遠に護られん)”
リリーが唱えたその聖句は、聖女リリーの体を編み、聖典から溢れ出した光は、彼女の体に輝く聖衣をまとわせた。
──瞬間! 上級悪魔は瞬きの間にリリーに迫り、その剣が彼女の首を撫でた。
しかし、確かに触れたはずの切っ先は、確かにそこにいるはずのリリーの体を通り抜け、ただ空を切る。
それは、この世の理を捻じ曲げる神の奇跡に他ならなかった。
”פרק 18, פסוק 1 כִּי הָאוֹר הַצָּלוּל יוֹרֵד מִן הַמְּרוֹמִים, וּבוֹ עַוְלוֹן לֹא יָקוּם.
הַמַּשְׁחִית יִסּוֹג בְּתוֹךְ צְעָקַת הַטָּהוֹר, וְהַלֵּב יִתְלַבֵּן כַּשֶּׁלֶג
(第18章第1節 澄みきった光は高みより降り来たり、闇はその中に立つこと叶わず。
清き者の叫びに、汚れし者は退き、心は雪のごとく白くあらたまる)”
何事もなかったように、リリーの口から次なる聖句が紡がれると、天より光が降り注いだ。
その輝きは、まるで物質の制約を拒絶するかのように、礼拝堂の天井を無視して真っ直ぐ彼女へと突き刺さる。
それどころか、その光は瞬く間に、強く、激しく、拡大し、ついには礼拝堂そのものを呑み込んだ。
壁も床も空間すらも、ひとつ残らず聖なる光に包まれ、一点の影すら存在が許されない。祝福の熱を帯びながら、礼拝堂のあらゆる影を容赦なく灼き尽くす。
現世と天の境界が曖昧になる光の中、ただリリーだけが、そこに有ることを許された。
──その光は、灰色領域のどこにいても見えるほどの輝きを放った。事実、各地で戦うあらゆる者たちが、その奇跡の光を目にした。
多くの者は、神の降臨を示すような奇跡を仰ぎ、ただ祈った。
しかし、その光が何を意味するのかを知る者もいる。その光の源で、何が起きているのか…、何が有るのか…。
それを知る者たちは、急ぎ光へ向かう者と、怯えるように背を向けて去っていく者とに分かれた。
やがて光が収束すると、その中から聖衣をまとうリリーと、その手に抱かれた聖典が姿を現す。
そして眼前には、光に焼かれた上級悪魔が無残な姿を晒していた。
外殻が崩れ、皮膚が焼け、骨が白熱しながら砕けている。上級悪魔をこのような姿に変える聖なる力は、まさに神の裁きに他ならない。人智を超えた意志は、悪魔の存在そのものを否定し、断罪していた。
──だが、悪魔の体は鎧に覆われていた。
鮮血のような真紅の鎧。それは古の呪術と禁忌によって鍛え上げられた、呪われた魔力の奔流を宿す異形の甲冑。
聖なる光すら、この鎧を焼くことは叶わなかった。熱では、この鎧を焼くことは出来ないのだ。
鎧が守らぬ部位は焼け爛れながらも、上級魔族の核は鎧によって無傷のまま守られた。
”Gehenna(獄炎)──”
そして次の瞬間──焼かれた体の奥から、受けた熱を吐き返すように、魔の炎が爆ぜた。
灼熱の魔炎が壁を舐め、床を焼き、礼拝堂を包む。リリーの周囲は、一瞬で灼熱の黒渦に巻かれた。
「……まだ、温かろう──」 渦巻く炎の中から、声が低く響く。
その声の先で、上級悪魔の眼が輝く。それは、人の理解を拒む奈落の輝きだった。
◆◇◆◇◆◇
聖女が落とした浄化の光は、一閃の稲妻のように空を裂き、勇者とリアも確かにそれを目にした。
魔族の襲撃が続く中で発生したその聖光が、何のために放たれたのか、想像するのは難しくなかった。
《姫君よ。我が身、もう二度とあの光には負けませぬ。》
聖剣の言葉は、負けず嫌いの嫉妬にも似た感情を滲ませた。だがその言葉は、聖女が聖典の力を使って、何者かと戦っている証となった。
はっきりとした理由はなかった。だが、勇者の胸に広がるのは、よくない予感だった。
彼女が助けを必要としているかどうかも分からない。彼女の強さは勇者はよく知っている。命を狙われた相手を救う義理など、本来はどこにもないはずだった。
だが──それでも……、死地に赴き敵を討つ。それは、勇者の本懐である。この未知の状況に身を投ずることこそが、勇者の証なのだ。
それが自分に課された使命なのだと、勇者ヘリオスは知っていた。
「行かなければならない。」 勇者は迷いなく言い切った。その目は、もはや一点を見据えていた。
リアはその勇者の意志を止めることはできなかった。止めてはならないと、どこかで理解していた。
「─…分かりました。行きましょう。」
すぐに伝令を走らせ、各地で戦う部下たちに指示が飛ぶ。戦線を維持しつつ部隊を再編し、リアは勇者と共に、光の発された方角へと馬を走らせた。
彼らの行く先に何が待つのか、誰も分からぬまま、戦場の片隅を駆け抜け、光の発された方角へと急ぎ向かった。
聖女が落とした聖光は、まるでそれが何かの合図であったかのように、魔族たちの動きにも明らかな変化をもたらした。
これまで勇者を避けるように動いていた魔物たちが、突如として踵を返し、一斉に勇者を目指し進路を変えたのだ。
その魔族たちの一連の行動は、すべてサキアの描いた筋書きだった。
上級悪魔の戦いに、勇者の介入を許さない。可能な限り引き離し、戦場を孤立させる。
サキアは最初から、この侵攻で勇者を仕留めるつもりなどなかった。
彼女の狙いはただ一つ。勇者の手の届かぬ場所に上級悪魔を送り込み、周囲の戦力を根こそぎ破壊する──それこそが、この侵攻作戦の核心だった。
散らばっていた小規模な部隊が次々と合流を果たし、やがて、それは一つの軍団として形を成した。
その先に立つ勇者のもとへ、圧倒的な数で押し寄せていた。
やがて、勇者の視界の端に、幾重にも連なる魔族の影が映る。その魔族の数は、勇者たちの行動が間違っていないことを証明する。しかし同時に、策に嵌ったことを理解させた。
勇者は足を止め、無言で聖剣の柄に手を掛けた──だが、その前に一人の影が立ちはだかった。
「ここは任せて。」 リアがはっきりと告げる。その声音に、迷いはなかった。
目の前の軍団は、どれだけ雑魚の寄せ集めであろうと、数だけは圧巻だった。その数は、彼女の率いる部隊では余るだろうと誰もが予感する。だが──、リアたちは振り返らない。
魔族たちの瘴気を孕んだ風が逆巻く、その匂いは徐々に濃くなり、迷っている時間はなかった。
勇者は一瞬だけ目を伏せ、そしてうなずいた。
「──分かった。」 勇者は一人背を向け、再び進み出した。
「……ご武運を、勇者さま──」 その背に、リアは静かに言葉を重ねた。
そして次の瞬間、リアは前を見据え、鋭く命じた。 「陣を張れ! ここで奴らを止める!」
小さく息をのみ、覚悟を固める。心を振り切り、彼女は指揮官としての務めを果たす。
ただ、勇者ともっとゆっくりお話ししたかった──それだけが、リアの心残りだった。
◆◇◆◇◆◇
もう一つの影が、天に閃いた聖光に向かい駆けていた。
それは、魔法使いの格好にそぐわぬ巨大な鉄杖を担ぐ、魔女ベルフェだった。
偶然立ち寄った集落で、彼女は魔族の襲撃に遭遇した。だが、彼女は魔族どもを早々に返り討ちにし、魔族の動きを見極めるため、周囲を警戒していた。
この灰色領域に広がる魔の群れに対し、彼女一人でできることは限られていたが、それでも、目に映る敵を一匹ずつ確実にその鉄杖で打ち倒していた。
ただ目の前の敵を叩き潰す──そんな彼女にとって、少数で襲い来る魔物たちは、むしろ都合が良いほどだった。
ベルフェは魔法を使えない。だがその身に秘めた膨大な魔力は、常に彼女の肉体に流れ込み、筋力、感覚、反応速度──そして知覚、魔力探知までも強化している。
ベルフェは、リリーの光を見て、彼女を助けるために走り出したわけではなかった。彼女が知覚したのは、異様で禍々しい上級悪魔の魔力の気配。
その強敵を討ち果たすため、彼女は鉄杖を担ぎ直すと、気配の源へと一直線に駆け出していた。
その途中、ベルフェは因縁のある悪魔と遭遇した。
「──これ以上進むのは、お止めなさいな。」
リリーの集落のすぐ近くまで辿り着いたベルフェの前に、クリティエが姿を現した。その口調は、以前と変わらず馴れ馴れしかったが、その目だけは、どこか真剣さがあった。
「──っ! 誰に言ってんのよ。」
道に立ち塞がるように邪魔をするクリティエに、ベルフェは即座に噛みつくように返す。
その獣の様な威嚇に臆することなく、クリティエは言葉を返す。
「─…あなただって、リリーの退場は望むところじゃないの?」
その一歩踏み込んだ問いは、ベルフェを説得するためのものだった。「行くな」と言って、止めるようなベルフェではない。この先で起こっている事を遠回しに示唆しながら、互いの利益となる提案をしていた。
「……。」 ベルフェは黙り込む。ほんの一拍の沈黙。そして──
「ええ。そう、ねっ!!」 賛同と共に、鉄杖をクリティエに撃ち下ろした。
その攻撃をクリティエはひらりと躱す。そして、その瞬間に開けた道をベルフェは構わず走り抜けていった。
ベルフェはそうまでしてリリーを助けたかったのではない。ただ、「魔族は殺す」という絶対の信念と、何より、クリティエの言いなりになるのが、我慢ならなかったのだ。
魔炎が燃え盛るあの戦場に踏み入ることは、即ち死を意味する。それは、リリーだけでなく、ベルフェにとっても、自分にすら等しく訪れる結末だ。上級悪魔に誰も勝てるわけがない。
クリティエは、その背を見送りながら、ふと口元を歪めた。
「バカね。ほんと……。」 クリティエは、死地へと向かうベルフェの命を、少しだけ惜しんだ。
◆◇◆◇◆◇
”Cerberus inferni custos.(業火の番犬)”
上級悪魔のその一声で、周囲に燃え上がる魔炎は、三つの炎を吐き出し怒涛の如くリリーを襲った。三方向から迫る灼熱の激流に、リリーの体は成す術なく飲み込まれる。だが、聖衣に守られたリリーの体は、その炎を受けても傷一つ負わず、髪の先さえ焦げることはなかった。
上級悪魔は、畳みかけるように、炎のただ中へ再び一閃を放つ。
その剣は、前回と同じ奇跡を再現し、リリーの体をすり抜ける。だが──、完全な再現とはならなかった。
ただ一本の頭髪が、剣によって両断された。
彼女の身を守る奇跡の力。それは、まぎれもなく天上より授けられた神の加護に他ならない。神の力は、何人も抗うことなど許さぬ。
──だが、地獄に近づくほどに、奇跡の力は影響力を失う。
獄炎に包まれたこの戦場は、神の加護にほんのわずかな綻びを生む。地獄の気配が、奇跡の光を歪めて映す。歪んだ奇跡が、地獄に落ちる。
しかし、この戦場は未だ、地獄のほんの入り口に過ぎなかった。
リリーは地獄の口が開いているのを肌で感じていた。だが、彼女には他に信じるものなどない。
その手は聖典の次なる頁を開き、その口は新たな聖句を奉る。
” פרק 23, פסוק 4 הַאֱזֵן לַדִּמְעָה שֶׁל הַשּׁוֹתֵק, כִּי בָּהּ תָּמוּן תְּחִנָּה בְּלִי קוֹל
הַנֶּשֶׁק יִפֹּל מִן הַיָּד שֶׁהִקְשִׁיב, וְהַלֵּב יִלְמַד רַחֲמִים
(第23章第4節 沈黙する者の涙に耳を傾けよ。そこには声なき懇願が宿っている。
その声を聞く者の手からは、武器が落ち、心は慈悲を知るだろう)”
聖句が紡がれた瞬間、甲冑に包まれた上級悪魔の動きが、ぴたりと止まった。その眼からは、宿っていた殺意が、まるで風に吹かれた蝋燭のように揺らぎ、掻き消えた。
上級悪魔は、聖句の前に沈黙した。神聖なる言葉は、深淵の心にも届き憎悪の焰を鎮めた、かに思われた。
”Gehenna profundissima(真なる獄炎)──”
だが、赤き鎧は輝きを失わず。むしろそれを拒絶する意志を持つように、さらに激しく魔炎を噴き上げた。
炎は地獄の窯を際限なく焚きつける。魔窯が息を吐くように呻き、溢れた熱が二人を襲う。
しかし、焼け爛れたままの上級悪魔の身体は容赦ない熱に晒され、さらに崩れた。
肉体が崩壊に向かうほどに、魔力を帯びた赤い鎧はさらに凶悪な炎を噴き上げる。その悪循環は、自滅への道に他ならなかった。
だが、そうであるはずなのに、上級悪魔の眼には、再び殺意が呼び起こされた。
──生と死が逆転し、地獄の窯が溢れ出す── 神の奇跡の理が、どこまで通用するのか、もはやわからない。
さりとて、敵がどれほど変質しようと、その身に如何なる危機が迫ろうと、取れる手段はただ一つ。彼女は迷いなく、次なる聖句を祈り捧げる。
”פרק 39, פסוק 1 צֵל הַמָּוֶת יִבְלַע אֶת הָרָע, כִּי הָאוֹר לֹא יָסוּג
בִּתְפִלָּה נִפְקַח דֶּרֶךְ הַסְּלִיחָה, וְרוּחַ תָּשׁוּב לְשָׁלוֹם
(第39章第1節 死の影が悪を呑み込む、それでも光は退かぬ。
祈りのうちに赦しの道は開かれ、魂は平安へと還る)”
だが、世界が反転しつつあるこの地獄の只中では、この聖句は禁忌であった。死を鎮め、魂に安らぎを与えるはずのその祈りは、地獄の理に呑み込まれる。
慰めの言葉は死者に血肉を与え、赦しの祈りは闇を濃く染め上げる。魂は救済されることなく、より深き苦悶の中へと引きずり込まれていくのだった。
”Ultio infernalis(地獄の断罪)”
その歪んだ力を呼び水に、上級悪魔は剣を構え、攻撃を繰り出す。そして、放った三度目の一閃は──リリーの聖衣を切り裂いた。
それは、聖と邪の狭間に生まれた破滅の光。聖句が生んだのは奇跡ではなく、絶望だった……。
聖衣の綻びは、徐々に地獄の炎の侵入を許す。このままでは、その灼熱は容赦なくリリーの肌を焼き、息をすることさえ痛みとなるだろう。生身の彼女では到底耐えられるものではない。
一刻も早いこの地獄からの脱出が求められた。
さりとて──、その身に如何なる危機が迫ろうと、取れる手段はただ一つ。
リリーは、次なる聖句を祈り捧げるため、震える指で聖典を撫でた。
その時──、地獄の蓋が開き、風が吹いた。
次の瞬間、獄炎の帳が激しく揺れ、ひときわ凶悪な魔炎の渦を割って、何かが、飛び込んできた。
炎に包まれ焼かれながらも、自らの意志で地獄の只中を踏み越えて前に出る。それは、聖女と上級悪魔の間に割って入ると、手にした黒鉄の杖を振り上げた。
”ゴガガァンッーー!!”
初撃から全力の魔力を込めた一撃は、轟音を立てながら、上級悪魔を打ちつける。その衝撃は、周囲の獄炎を激しく揺らす。そして、業火の海を割って現れた影を焼く炎を掻き消した。
──リリーの視界に割り込んで、その中から現れたのは、呪われた魔女ベルフェだった。
だが、その攻撃は上級悪魔が持つ重厚な盾によって弾かれた。
そのまま、自らの攻撃の反動でベルフェの体は宙を舞う。そして、空中で身を翻し、器用に地面に着地した。
この獄炎の中を、生身で耐えることはできない。魔力によって強化された彼女の体でも、この中で生きていられる限界は近い。
それでも、焼けつく炎に肌を裂かれようとも、彼女は眼を逸らさない。ベルフェは悲鳴もあげず、ただ次の一撃に全てを込める──
ベルフェの全力を込めた攻撃は、凄まじい衝撃音と共に、上級悪魔を打つ。
しかし、上級悪魔はその攻撃を盾で容易く受け止め、弾き返した。
鉄杖で殴るだけというベルフェの攻撃は、凄まじい膂力に魔力を乗せた破壊力に耐えうる力さえあれば、その攻略は難しいことではない。
次の攻撃も、その次の攻撃も、轟音をただまき散らすだけで、上級悪魔の鎧と盾を打ち破ることは、叶わなかった……。
…─この戦いの勝敗は、戦う前から決まっていた。
あまりにも力の次元が違い過ぎるのだ。上級悪魔に、ただの人間が勝てる道理などどこにもない。
サキアがリリーを標的としたのは、彼女の名をクリティエから聞いたからではない。誰でも良かったのだ。どの道、目ぼしい戦力は全て殲滅する作戦だった。
リリーを最初に選んだのは、ただクリティエを試したに過ぎない。もしリリーが勇者と合流するような動きを見せれば、その時は代わりに、上級悪魔の標的にクリティエの名を加えるだけのこと。彼女の裏切りなど、あろうがなかろうがどうでもよいことだった。
そんな中で、ベルフェが自らこの戦場に姿を現したのは、サキアにとって嬉しい誤算だった。潰すべき戦力が、自ら死にに来たのだから。
どれだけクリティエが策を弄そうと、この戦況を覆す術などない。それは、彼女自身がよく理解していた。だからこそ、彼女は我が身の代わりにリリーを差し出したのだ。
逆にベルフェは守ろうとしたことすら、元を辿れば、サキアへ嫌がらせをしたいだけだったのかもしれない……。
だがそれも、すべては無駄となり灰に還る。
クリティエは、この戦場の外から、予想通りの結末が訪れるのを、ただ待っていた。
──ベルフェの体に限界が近づく。
魔力を込めた全力をどれだけ繰り出しても、上級悪魔に傷一つ与えられない。全ての攻撃は鎧と盾に弾かれた。
それでも、ベルフェは止まらない。攻撃の手を緩めることなく、意地だけで前へと出る。
その時──乱れたベルフェの攻撃の隙をつき、上級悪魔の剣が一閃した。
鋭く伸びた一撃が、無情にもベルフェの胸を貫いた。
次の瞬間、ベルフェの体からこれまでの力が嘘のように抜け落ちた。
肺の奥から血が逆流し、喉の奥を焼くような熱が走る。呼吸ひとつ、痛みに変わる。そして、膝が崩れ、そのまま抵抗もなく地面に倒れ込んだ。
視界が暗く、遠く、ぼやける。全身の力が抜け落ち、指先すら動かせない。
けれどそれでも、心のどこかでは、まだ戦いの続きを求めていた。だが、もはやその祈りさえ、声にならなかった……。
ベルフェが倒れ、その身が魔炎に包まれる。リリーもまた、すでに逃れようのない同じ運命の中にいた。
肌を焦がす熱気、敵から噴き上がる業火が、彼女の裾を焼いていく。
それでもリリーは、顔を伏せず、恐れも憎しみもその瞳に宿さなかった。
”פרק 15, פסוק 5 נֹשֵׂא בְּיָדוֹ אֶת מַכְאוֹב הַנִּפְגָּע וּמְכַסֵּהוּ בְּחִיּוּךְ
הַסֵּבֶל יַעֲלֶה שָׁמַיְמָה, וְהַשִּׂמְחָה תִּשָּׁאֵר בָּאָרֶץ
(第15章第5節 傷つく者の痛みをその手に受け、微笑みをもってこれを包む。
苦しみは空へと昇り、幸せのみが地に残る)”
彼女が最後に紡いだ聖句は、自らを救うためでも、敵を討つためでもなかった。それは、傷ついた者のために捧げられた。
傷つき倒れた魂が、せめて安らかであるようにと──それは、紛れもない聖女の祈りだった。
ベルフェを倒した上級悪魔の刃が次に迫る中、聖典から伸びる光のヴェールがベルフェを包む。その癒しの波動は、この地獄の底では、もはや力があるのかさえ定かではない。しかし、それでもよかった。
リリーは最後に、神託に頼らず運命を定めた──
しかし無情にも、その清らかなる癒しは地獄の理によって、焼け爛れるような痛みとなってベルフェを襲う。
この地獄で死すら冒涜するその痛苦は、彼女を決して許さない。死ぬことを許さず、彼女の痛覚を弄ぶ。彼女の体の奥深く、その根幹の存在にすら痛みを刻んだ。
だが、それこそがベルフェの魂に絡みつく呪いの本質を炙り出した。
彼女の奥深くに潜む魔法の呪いは、祈りによってもたらされた激しい痛みによって、徐々に剥がれ落ちていく。この痛みは、呪いそのものすら麻痺させ、強制的に魂から切り離した。
無償なる聖女の祈りは、無情なる悪意となって、ベルフェの身体を深く蝕み、変質させた──。
もはやベルフェ体は限界を超えている。
自分の死すら定かでなく、ただベルフェは痛みに覚醒し、残された闘志だけが最後の一撃を討つため杖を構える。
だが振り上げることは叶わず、ただその杖先だけを上級悪魔に向け、魔力を込めた。
呪いから解き放たれたベルフェは、その杖から生まれて初めて魔法を放った。
その魔法は、奇跡と呪いを併せ持ち、そのどちらもを打ち破る。その理を無視した破格の一撃は──上級悪魔の真紅の盾鎧を打ち貫いた。
その一撃は、上級悪魔の核を傷つけ、その動きを停止させた。存在を維持するために、吐き出し続けた魔炎をも止めた。 ──そして、地獄は終わりを告げた。
残されたのは、もはや息をすることもままならぬ二人と、戦えなくなった上級悪魔。
そして、空を焼いていた魔炎は、風ひとつなく消え去り、焦土と化した地には、驚くほど穏やかな光が差し込む。
闘いは終わった。誰の勝利も、敗北も定かではない。でも、終わったのだった──。
◆◇◆◇◆◇
地獄が解かれたあと、このありえぬ結末に、クリティエは言葉を失った。
「──……ハッ、ハハハッ──!」
現実とは思えぬこの場面に出くわした驚きは、渦巻く感情を織り交ぜて、笑い声として吐き出させた。
今、この場すべての命運をクリティエは握っている。サキアすら出し抜き、この戦場を支配した者として、クリティエは愉悦し口元を歪めた。
そして彼女は、じっくりと考えたのち、勝者の特権として一つの選択を下す。──だが、それを知る者は、ここには誰もいなかった。
すべての決着と、その後始末が済んだ後、勇者はようやく姿を現した。
彼女が目にしたのは、横たわるままの二人と、黙々と手当てをする村人の姿だけだった。
そこに、もはや魔族の気配は一片も残っていない。焦土と化した戦場には、熱を失った灰だけが風に舞う。
敵はどこへ消えたのか、誰に聞いても答えを得ないまま、ただ、風だけが吹いていた……。
◆◇◆◇◆◇
一方その頃、リアとその部下たちは、押し寄せる魔族の群れと激しく交戦していた。
魔族たちの標的は明らかに勇者だった。その進路を阻むべく、リアたちは命を懸けて盾となり、一匹たりとも通すまいと防衛線を張っていた。
だが、圧倒的な敵の数の前に、仲間は一人、また一人と倒れていく。その死を悼む暇すら与えられないまま、敵は容赦なく襲いかかってきた。
”Tvískeri(両断)──”
もう幾度放ったかも分からないリアの斬撃が、魔族を斬り裂く。だが、その力はあまりにも多勢の敵の前では無力に等しかった。自分の身は守れても、他者を救うには力が足りない。
”──あの聖剣さえあれば……。”
戦いの只中で、何度も胸に浮かびかけては封じてきた思いが、頭をもたげる。けれど、それは決して叶わぬ願い。いや、そもそも願ってはならぬ願いだった。
次の瞬間、魔族の咆哮が耳を裂いた。
防衛線の一角が破られ、そこから敵が雪崩れ込む。リアはすぐさま駆け出し、間に合わぬと知りながらも仲間を庇うべく剣を振るった。
「──ッ、下がれっ!」
敵は切り伏せても、遅かった。倒れ伏した兵の名を呼ぶ暇すらなく、次の敵が迫ってくる。
絶望の縁が迫っていた。数で押し潰され。耐えきれなくなるのは目前だった。
「……ここまでか──」 リアがそう覚悟しかけた、その時だった。
「──撃てッ!」 遠方から響く鋭い号令とともに、無数の矢が空を裂いた。
続いて大地を叩きつける豪雨のように矢の雨が降り、迫っていた魔族たちが一斉に倒れ伏した。
要請した増援部隊が、ついに到着したのだ。
間を置かず、再び矢が一斉に放たれ、崩壊寸前だった防衛線を、力強く支え直していく。
リアはしばらく呆然とその光景を見つめていた。
「……助かった……のか──。」
胸に広がるのは、安堵と、それを押しのけるような虚脱感。膝から力が抜けそうになるのを歯を食いしばって堪え、リアは再び剣に力を込めた。まだ、立ち上がれる仲間のために、自分も立ち続けねばならない。
”Vindgjaldr(斬波)!”
振り抜かれた剣が、大気を裂き、敵の前列に楔を打ち込む。その一撃に呼応するように、増援部隊が突撃を開始した。押されていた戦線は息を吹き返し、逆に敵を飲み込んでいく。
リアはその中に身を投じ、増援部隊の援護をしつつ、陣形の立て直しに集中する。仲間の咆哮が、希望を帯びた色を取り戻していく。
もはや、完全に形勢は逆転していた。
その中でなお、リアの胸には重たい現実がのしかかる。救えなかった仲間と、倒せなかった敵、この戦いはリアには完全な敗北だった。
”私は自分一人では、何も成せないのだ。”
自分は勇者になれない現実を、リアは安堵の中で噛みしめていた……。
◆◇◆◇◆◇
クリティエは、傷ついた上級悪魔を連れ、その部下たちと共に森の奥へと姿を消していた。
上級悪魔の核が負った深い損傷を癒すには、途方もない魔力を必要とする。灰色領域では、この傷を治す魔力を用意するのは不可能だった。
だが、部下の手引きによって、この瘴気溢れる森に足を踏み入れていた。ここでなら、本国に戻ることなく、時間をかければ完全ではなくとも再生可能だった。少なくとも、その間の避難所にはなり得た。
この瘴気溢れる森は、髑髏の森と言われている。
クリティエは、手引きされた先で、フェレスと出会った。だが、その瞬間にはすでに、クリティエは包囲されていた。
そしてそのまま、上級悪魔と共に捕えられた。
クリティエがすべてを理解するのに、フェレスの説明はいらなかった。
「ねぇ……。 私たちは協力できると思わない?」
捕らわれのまま、フェレスに対しクリティエは甘く囁く。
フェレスは微笑んで応じる。
「そうね……。なら、その証を示してもらえるかしら?」
フェレスもまた、すべてを理解するのに、クリティエの説明を必要としなかった。
言葉と同時に、クリティエの隣へファウが歩み出て、手を差し出した。無言で差し出された手。その掌が求めるものは何かを、クリティエは試されていた。
クリティエは軽くため息をつくと、上級悪魔が携えていた剣を、無言でファウのその手に差し出した。
次の瞬間、ファウは剣を高々と振り上げる。
そして、冷酷に、迷いなく、その一閃は──上級悪魔の首を刎ねた。
”ᛋᚲᚢᚷᚱ ᚠᛖᛚᛚᚱ ᛁᚢᛁᚱ ᛚᛃᛟᛋᛁᛞ ᛗᛃᚱᚲ ᚾᛟᛏᛏ ᛞᚱᛖᚲᚲ ᛋᛏᛖᛁᚾᛁᚾ ᛋᛖᛁᚦᚱ ᚺᛁᛚᚱ ᚨᛚᛏ
(影が光を覆い、夜が石を呑み、呪だけがすべてを語る)”
そして間を置かず、フェレスの唇から、静かに古代呪文が紡がれる。
その瞬間、彼の足元から這い出るように闇の渦が広がり、まるで飢えた獣のように上級悪魔の亡骸へと襲いかかる。闇は核をむさぼるように喰らい尽くし、残されたのは、砕けた真紅の盾鎧だけだった。
その鎧の赤色は、この結末にはふさわしくないほど、鮮やかで鮮烈だった──
◆◇◆◇◆◇
この戦いで、上級悪魔を失うなど、考えられぬことだった。
勇者との交戦を避ける布陣を敷き、それは成功していたにもかかわらず、勇者以外の者に討ち取られるなど、あってはならない事だった。
報告を受けたサキアは、しばし思考を止めた。せり上がってくる怒気は、吐き出す相手もおらず、その内側でくすぶり続けた。
激しい苛立ちの原因は、上級悪魔の不甲斐なさに対してではない。小賢しい策を弄して覆るわけはないのだ。
勝って然るべき相手に敗れたという事実は、戦場において、人間たちが予測不能な因子になりうることを示していた。
戦略の誤りは、勇者のみを警戒し、その他に注意を向けなかったこと。勇者以外の存在を雑魚と見なし、疑わなかったことにある。
サキアは薄く目を伏せ、静かに指を動かす。人間の勇者以外の勢力を、初めて力として認め、その指に刻む。
そして、そのような者たちが、勇者と協力し合った時、魔界にかつてない危機をもたらすと予見する。
「もはや勇者を討つだけでは、足りぬ。一刻も早く、全てを滅する必要がある……。」
彼女の脳裏には、敗北によって刻まれた屈辱と、絶対に許さぬ執念が滲む。
一つの戦いが終わったばかりだというのに、すでに世界は次なる戦乱の渦に呑まれつつあった……
だがその一方で、人間の世界はそう単純ではなかった。
この戦いで目立った戦果を挙げなかった勇者に対し、王国内では非難の声が日増しに高まっていく。無差別侵攻による惨状が明らかになるにつれ、勇者がいながらそれを防げなかった事を責めたのである。
まともな思考力さえあれば、それがどれほど理不尽かすぐに分かるはずだった。だが、あえて考えようとせず、灰色領域の現実すら知らぬ愚か者たちが、もっともらしい顔で大きな声を上げた。その怒声は、単なる手の届かぬ存在への嫉妬でしかないものだったが、それ故にその浅ましさが大衆には心地よく響いた。
なりより、聖女と魔女が上級悪魔を打ち倒す──という、まさしく奇跡と呼ぶほかない出来事があったことで、その風潮は決定的となった。
ついには王家までもがその声を無視できなくなり、勇者に対し「次こそは、王国に勝利の栄光をもたらせ。失態は、二度許さぬ。」との命を下すに至る。
それは、考えうる限り最悪の、そして最も愚かな選択だった。彼らは、自ら破滅に向かう階段を登ったのである。
サキアの計算をも上回るほどに、人間の心は醜く、そして救いようがないほど愚かだった──……
──勇者はまだ、灰色領域にいる。この地で聖剣を手に、次なる戦いが動き出す刻を待っている。
”ええ、お母様──私はただ、人が笑っている未来があれば、それだけで──”
◆◇◆◇◆◇
勇者様は魔族と契約する 第1部 灰色領域解放編 完
◆◇◆◇◆◇