第8話 魔軍参謀サキア
上級悪魔が討伐され、その支配から解放された広大な地域には、未だ人の統治が及ばぬ場所がある。そういった空白地域は、灰色領域と呼ばれ、無法地帯となっていた。
──上級悪魔、討死す。その報は、雷鳴のごとく魔界全土を駆け巡った。
十二体の精鋭と共に、万全の態勢で迎え撃ちながらも、たった一人の勇者の前に敗れ去った。この事実は、多くの魔族を震え上がらせた。
“勇者ヘリオス、恐るべし”──その名は恐怖と共に刻まれ、畏れとなって広まった。
だがその一方で、その恐怖に打ち勝つ者たちがいる。
ある者は己の名誉のために、ある者は盲目な蛮勇によって。そして、何よりも魔王への忠誠を示すため、勇者の首級を狙い動き出す者が、ここにいる。
──魔軍参謀サキア。
魔王軍の頭脳にして、直轄の軍団を束ねる軍師。その眼は今、魔王の玉座を脅かすただ一つの存在を、睨み据えていた。
上級悪魔が屠られた。それも、たった一人の勇者の手によって。この勇者を放置すれば、勇者の名は恐怖と共に魔界を蝕み、やがて忠誠をも腐らせる。そして、その刃は魔王に届くやもしれない。
だからこそ、今すぐにでも、この手で確実に叩き潰さねばならない。たとえ、どんな手を使っても─…。
武とは力を示す魔王軍において、サキアの武は異質であった。
混沌と暴虐に満ちた魔族たちを、剛力を以てねじ伏せるのではない。緻密に編まれた策謀を以て貶め、冷酷な打算を以て懐柔する。互いの嫉妬と野心を巧みに積み上げ、魔族の持つ醜き怨嗟の土台を築き、その上に立ち采配を振る。
そうして生まれた歪な秩序によって、彼女は魔王軍を見事に統率していた。
彼女はその知略を以て、これまで幾度となく魔王軍を勝利へと導いた。
その作戦はいずれも、非情にして非道。
罠のために躊躇なく同胞を犠牲にし、その血を啜り糧として、より多くの敵を喰らう。
彼女が指揮する戦場では、絶えず死の嵐が吹き荒れる。その渦中で生き残れるのは、選ばれし強者のみ。弱者に、生を許す余地などない。
魔王軍において、彼女に逆らえる者は存在しなかった。
いかに力を誇る魔将であろうと、そこがサキアの戦場である限り、彼女の命は魔王の令に等しい。
そのサキアは今、勇者討伐に苦心していた。
上級悪魔とその配下の悪魔が支配していた広大な領土は、その多くが人間のものとなった。だが、そのすべてが人の統治下にあるわけではない。支配を失った土地の中には、灰色領域と化し、秩序の空白となっている地域がいくつもあった。
この領域を取り戻し、勇者に対する包囲網を再構築する。それが、彼女の描く戦略図の理想であった。
だがしかし、魔王軍の損害は甚大だった。戦力の立て直しが急務である中、奪還作戦に十分な兵を割く余裕などなかった。
しかも、その灰色領域には勇者が潜んでいる。神出鬼没の勇者に遭遇したが最後、魔族が生きて帰れる望みはない。
この状況を踏まえ、サキアは作戦の転換を検討する。
領土の奪還は一時棚上げとし、魔王軍の威信を賭して、勇者との決戦に打って出る策を練る。
だがその場合、勇者を確実に討ち取るには、複数の上級悪魔による同時侵攻が不可欠となる。
しかし、それほどの兵力を一箇所に集めれば、当然他の防衛線は手薄になり、その動きは敵にも察知されるだろう。
結果として、防衛線の突破を許し、その混乱の隙に乗じて、一気に勇者の切っ先が魔王にまで迫る──その事態だけは、何としても避けねばならなかった。
それに、兵力だけの問題ではない。
上級悪魔同士が勇者一人を討ち取るために、互いに協調するなど、その実現はサキアであっても未知数だった。個の力を誇る魔族ほど、他者の手を借りるなどという行為は、屈辱以外の何物でもないのだ。
つまり、今の状況では、このような正攻法は大きな危険を伴う賭けでしかなかった。
こちらが思うように動けない。ならば──まずは、相手の足元を崩す。
そう考えたサキアは静かに動き出した。
搦め手を用いて敵を討つには、まずその構造を理解し、知り尽くさねばならない。彼女は情報網を拡張し、あらゆる手段をもって、勇者という存在を徹底的に解体しようと試みた。
勇者の行動原理、戦術思想、能力、そして何よりも、弱点。
その全てを探り出すべく、情報収集と分析に力を注いでいった。全ては、確実に勇者を仕留めるために─…。
そして、サキアの前に、一人の悪魔が招集された──
◆◇◆◇◆◇
「─…勇者について話してもらう。貴様が見てきたことを、すべて余すことなく。」
魔族の地、人間側との境界近くに構える城塞にサキアは身を置いていた。
そしてその眼前に連行された悪魔に対し、彼女は冷ややかな表情で見下ろし命令した。
その悪魔の名はクリティエ。灰色領域でサキアの部下に拘束され、そのままこの城塞の薄暗い地下牢の様な作戦室に連れて来られた。
「は──、私めなどが得た情報でよろしければ、喜んで。」
クリティエはサキアの前で、丁寧に頭を垂れて跪く。
その姿は服従そのものを示していた。しかし、それが本当に心根まで表しているとは限らない。
「勇者は慎重で、警戒心が強く、他者と距離を置く傾向があります。
ですが、一度気を許した相手には無防備なところもございます。特に、それが弱者であるときは……」
その語り口には、虚飾も装飾もなかった。クリティエは、自身が見てきた勇者の姿を包み隠さず差し出した。
その従順さは、クリティエとサキアの地位の差を考えれば当然であった。だからこそ、この必然に彼女は本心を覆い隠した。
サキアは、クリティエの今に至るまでの経緯をすべて把握している。勇者に命乞いして生き延びたことも、その後に上級悪魔からどれほどの仕打ちを受けたかも──。
クリティエをなぜ勇者は許しているのか、そこに疑問はある。だがそれは、サキアにとっては存分に利用できる綻びだった。
勇者もまた、クリティエを本気で信頼しているわけではないのだろう。サキアにとっても、彼女は自分にリスクなく利用できる、都合のいい駒に過ぎない。サキアもまた、影なしのクリティエに信頼など置いてはいない。
「貴様の他に、勇者に仲間はいるのか?」
サキアから勇者の一味扱いという侮辱を受けても、その嫌悪をおくびにも出さず、彼女は務めてサキアに尽くす。
「仲間…、と言えるような存在はございません。強いて挙げるとすれば、勇者が手に持つ聖剣グラム。この武器が持つ力は、魔王様にとっても脅威となりましょう。」
その表情は崩れず、淡々と事実を述べる。
「勇者の周囲には、その他には雑兵ばかり。勇者の力に比べれば、私めを含めまして、あまりに非力にございます。
無視しても差し支えのない、役立たずかと判断いたします。」
侮辱された返礼として、さらに自らを貶めることで、クリティエは自身の従順さを証明する。そして──
「ですが……」 と、言いかけて、言葉を止める。
「どうした? 申してみよ。」 サキアはその沈黙を逃さず、クリティエの心地よい自虐を促す。
そのサキアの要求に、クリティエは従う。その動作に作為はない。ただ、そこに自分の意志が潜んでいることを溶かし込み、一体とさせていた、
「─…私めが進言するなど僭越ではございますが…‥。
あえてその役立たずどもから先に潰す、という策は実行する価値があるやもしれません。
勇者は弱者が好きですので……。」
クリティエの発言に嘘はない。ただ、その言葉には牙が隠れている。
勇者を周囲から孤立させ、補給を断ち、消耗戦に持ち込む。しかし、こんな作戦は、当然のように既に検討されていた。
それが成立するのは、勇者が単独で魔界の奥深くにまで踏み込んできた場合に限られる。そのような状況であれば、包囲し、物量によって押しつぶすことも可能だろう。
しかし、灰色領域という双方の支配が及ばぬこの空白地帯では、包囲することは叶わず、これは成立しない。
だがこの時、クリティエの進言から、サキアはある策を思いついた。たとえそこに虚偽や欺瞞があったとしても構わない。むしろ、何かを隠しているなら、それも利用できる。
サキアはゆるやかに口を開き、一つ問う。視線は、クリティエの反応を冷ややかに測る。
「周囲の雑魚どもの中で、最も脆き者の名を挙げてみよ。」
その声音は、返答次第で命運が定まることを、静かに突きつけていた。
クリティエは、長くはない時間の中で思考を巡らせた。
この問いの意味は明白だった──自らの命と引き換えに、誰を差し出すのか、ということだ。クリティエが魔族側であるならば、問題はない筈だ。
だが、返答を躊躇えば、それはすなわち裏切りの証左。さらには、嘘をついても同じこと。待っているのは絶対の死。「それは──……」
一瞬の沈黙ののち、クリティエは一人の名を挙げる。自分にとって最も価値の無い者の名を……。
その名を聞いたサキアは、クリティエを見据えたまま、淡々と言葉を綴る。
「─…勇者討伐が果たされた暁には、貴様の働きを認め、魔王軍での望みの地位を与えると約束する。」
サキアは嘘をついている。影なしの裏切り者のための席など、魔王軍には無い。
「…………。」
クリティエはそれを見抜いている。だが、それを口にすることは死を意味した。
沈黙するクリティエを、サキアは取るに足らないものだと考えている。その時が来れば、裏切り者など勇者と共に容赦なく殺すであろう。
互いの思惑は交錯する。互いにその考えを読みつつも、その上で、均衡を保ちつつ、相手が取りうる手に備えている。
だが、サキアは知らない。クリティエが勇者と交わした契約を──
そして、取るに足らないクリティエの内に潜む、その身に余るあまりにも壮大な野心を──
◆◇◆◇◆◇
灰色領域の住民で、魔族たちの動きを最初に察知したのは、盗賊団だった。
フェレスが従わせていた魔族たちに、本国の悪魔たちが接触してきたのだ。かつて自分たちを見捨てておいて、今さら都合よく利用しようという、なんとも理不尽で、まさに悪魔的な要求だった。
だが、それを拒むという選択肢はない。恭順を示さなければ、それはすなわち反逆と見なされる。
その事情を、フェレスはよく理解していた。
魔族である者たちが、自らを犠牲にしてまでフェレスに仕える理由はどこにもない。それだけでなく、こちらの分が悪くなれば、彼らはいつでも裏切るだろう。そんな事は、魔族が灰色領域に再侵攻する動きをみせる前から、分かっていたことだった。
そして、副官のファウはそれを予期し、事前に策を講じていた。
ファウの指示のもと、残った盗賊団は灰色領域の各地に散り、行商人や傭兵を装い潜伏した。
ある者は、境界付近の村に盗品を流しながら、駐屯する人間の兵士たちの数や装備、補給の動きを観察した。
ある者は、傭兵として村の防衛の任に就きつつ、どの勢力がいつどこに現れたか、その足跡を拾い集めた。
また別の者は、古くからの裏取引の伝手を辿り、いつどこでどんな取引がされたのかを探った。
夜の間に屋根を渡り、耳を澄ませる者。賭場の場末で酔った兵から機密を引き出す者。負傷兵に薬を届ける代わりに、戦いの状況を聞き出す者。
一つ一つの行動から繋がりを導き出すのは不可能。だが、確かにそれは一つの意志をもって、灰色領域を霞のように覆っていった。
大隊にも満たぬ彼女らの戦力では、数においても装備においても、魔族軍には到底かなわない。正面からぶつかれば、勝敗など火を見るよりも明らかだった。
だから、彼女たちは盗賊団として、至極真っ当にその上前を掠め取る。正面から立ち向かうことなく、魔族と人間の軍を同士討ちへと誘導し、その混乱の最中で漁夫の利を得る。──それが、彼女たちの戦いだった。
フェレスは、配下とした魔族の特に本国に恨みを抱く者たちだけに、諜報を託した。彼らとて、この作戦ののち、自分たちが報われるとは信じてなどいない。ならばこれは、一矢報いる復讐の牙と成り得ると、フェレスは説き伏せた。
それは紛れもなく、この灰色領域で生まれた人魔の絆だった。
◆◇◆◇◆◇
それからしばらく経ったある日──、物資の輸送と定期連絡を兼ねて、双竜の紋章を掲げたモナがいつものように、灰色領域に駐屯する近衛騎士リアの元を訪れていた。
「…─ねえ、最近、魔族の動きが静かすぎると思わない?」
荷馬車から木箱を下ろしながら、紋章商人モナはふと口にした。
その横でモナを手伝うリアは、小さく息をつきながら応える。
「そうね…、確かに。ここしばらく、表立って私たちに歯向かってくる魔族は見ていないかも……。
奴らも馬鹿じゃないから、どこかに潜んでいるのかもしれないわね。」
リアは思い返してみるが、魔族が大人しくなったことを、不審には感じなかった。むしろその変化は、自分たちの活動が実を結んだ証だと思った。
「……本当に、それだけかしら?」 荷台の覆いを畳みながら、モナは声を落として続けた。
「盗賊たちも、ここ最近随分と大人しいと思わない?」
その一言に、リアの手が止まった。そして、目に留まった部下の一人に声をかける。
「あなた、我々の最近の活動記録を、今すぐ持ってきて。」
すぐに届けられた報告書に、リアは手早く目を通す。
それによると、小規模な騒ぎや争いは、相変わらず各地で散発していた。だが、不思議なことに、大規模な盗賊団の動きは、ここしばらく忽然と影を潜めていた。
それが何を意味するのか、リアは想像を巡らせる。
組織だった動きをしていた盗賊団が、突然活動を止めた。その原因として、まず考えられるのは、内輪揉め。報酬の分配などで不満を持ち、仲間割れを起こし、組織が瓦解した。
だがそうだとするなら、組織は改編されて、活動を続けるはずだ。今回のように、気配ひとつ残さず姿を消すなど、どうにも辻褄が合わない。
ならば、魔族と敵対して組織ごと潰されたか。
いやそれならば、その痕跡は我々の目に留まるはずだ。魔族が盗賊を皆殺しにして、その痕跡を綺麗に隠す理由がない。
彼らが一度に全員、長期の休息に入るなど考えにくい。突然、悔い改めて足を洗うなど、なおさらありえない。
とすれば、理由は一つに絞られる。
彼らは何かを察し、危険を感じて姿を隠した──それも、抗いようのない脅威から逃れるために、だ。
「──モナ! あなたはすぐ本国に戻りなさい。そして、緊急事態の報告を。
増援の要請を私の名で出します。すぐに準備をして下しさい。」
事態は慌ただしく動き出す。命令を下すリアの声音に、躊躇はなかった。
大規模な侵略が迫っている兆候を感じ取ったリアは、即座に判断を下し、自らの役割を果たそうとしていた。
「私はこれより、勇者のもとへ向かいます。恐らくは──この事態の中心は彼女となるでしょう。」
その動きは速かった。まだ、明確な敵の姿は何も見えていなかったが、リアの動きに迷いはなかった。この灰色領域の空気の変化を、彼女の肌は敏感に感じ取っていた。
リアの行動は、大筋では間違っていない。だが、細部においては、わずかな綻びがあった。
それは決して、彼女の能力の問題ではない。
それは、他者の思惑の連鎖の積み重ねが生む歪みによる”もつれ”だ。それは、あらかじめ答えを知っていなければ、決して解けない。逆方向からでは辿り着けないインチキなのだ。
盗賊たちは、身を隠しているのではない。
ファウの指揮の下、各地に網を張り巡らせている。その網は、今こうして動くリアの姿すら、見逃さずに捉えていた。
そして、リアのその行動もまた、モナによって誘導されたものだ。
モナの何気ない一言が、意図的な導線として仕組まれていたことに、リアはまだ気づいていない。
リアは間違えてはいない──だが、その僅かな誤差は、やがて彼女の命運すら左右する決定的な差異となる。
◆◇◆◇◆◇
リアの要請書を携えて、モナは王国へと戻る。しかし、彼女にはその前に別の仕事があった。
彼女はみている──勇者が魔王を討ち果たした、その先の世界を。
魔王が滅び、魔族が駆逐されれば、人類は今の倍の領土を手に入れる。その果てに広がるのは、灰色領域など比べものにならない、膨大な富と資源を抱えた未踏の地だ。
当然、その利権は王国と大教会によって統括され、分配されることになるだろう。
今のモナは、ただの一商人に過ぎない。それに文句があっても、権力に表立って抗えば、捻り潰されて終わるだけだ。
そう──、今は未だ。
その時が来るまで、彼女は時間を稼ぎながら、紋章商人としての立場を最大限に活かし、目的に向けて着実に手を進める。
その手段の一つが、他勢力の力をできる限り削ぐことだ。
情報操作によって撹乱させ、その決断を意図する方向に誘導し、衝突を誘発する。
理想を言えば、勇者以外が仲良く共倒れしてくれれば万々歳だが、現実はそこまで甘くない。彼らもそれほど愚かではないし、モナ自身にもまだ、王家の双竜の紋章の後ろ盾が必要だった。
もう一つは、その状況を利用し、自分の影響力を広げておくこと。
自らが強くある必要はない。その代わりに、灰色領域における情報の独占と流通の掌握──この二つを手に入れる。
さまざまな勢力が縄張りを争うように入り乱れるこの地で、それを成し遂げれば、人も軍も、意のままに操れる。
勇者と王国を繋ぐ役目の紋章商人という立場は、今の彼女にとって最高の武器だった。
モナの計画は、勇者が魔王を討って初めて花開く。だが、まだ花の栄養が足りない。
だから、準備が整っていない今はまだ、あっさりと討ち果たされても困るのだ。
適度に苦戦し、仲間たちが傷つき疲弊し、組織の均衡が崩れ、再編成される──たっぷりと栄養を蓄えたその時に、それが起こることにこそ、彼女が介入する余地が生まれるのだから。
モナはリアに私怨の一片もない。むしろ、彼女の人間性と有能さには一目置いている。
だがそれは、だからこそ、使い道がある──彼女には、もうしばらく苦労を背負ってもらうことになるだろう。
◆◇◆◇◆◇
モナは、王国へ戻る途中、ある集落の粗末な礼拝堂を訪れた。
「──まあ。王家御用達の商人様が、こんな辺鄙な場所に何の御用かしら?」
灰色領域では滅多に見ることのない、王家の紋章を掲げた馬車からモナが降り立つのを見て、リリーは訝しげに声をかけた。
この地でその紋章をあえて掲げる行為は、危険を承知で重要な物資や命令を運んでいるという意思表示に他ならない。だが、そんなものがこの集落の住民たちに必要だとは、リリーは思えなかった。
「そんな意地悪言わないでよ…。あなたたちに必要な物も、ちゃんと持って来たんだから……。」
モナは、教会との付き合い方をよく心得ている。彼女にしてみれば、彼らはとても分かりやすい人種だった。
与えれば返してくれる。それは確かに、等価交換とはいかなくとも、それでも必ず返してくれる。
奪うだけの奴らや、見返りを求めない者たちより、モナには実に扱いやすい相手だった。
「お恵みには感謝を。ですが…、それだけでは無いのでしょう?」
しかし、リリーもまた商人の本質を理解してる。利がなければ、彼らは決して動かない。
見返りに何が欲しいのか、自分たちが持っているものの中に、モナが欲しいものがあるとは思えない。
聖典の奇跡──彼女が欲するとすれば、それしかなかった。だがそれは、与えられるものではない。それは彼女も分かっているはずだった。リリーにはまだ、彼女の理由が分からなかった。
「実は、一つ聞きたいことがあって……。教会から、最近何か情報が入っていないかしら?」
モナは遠回しに探りを入れる。その抽象的な問いに、リリーは一瞬、怪訝そうな表情を浮かべた。
「何か問題を抱えているのですか? 懺悔でしたら、この場でお聞きしますよ。」
そう返すリリーの声音には、柔らかな慈愛が滲んでいた。
「懺悔、ね……。それをしなくて済むようにしたいの。」
モナは微かに笑って肩をすくめる。
「私が教えてもらう義理は無いのだけれど…、でも多分、事が起こってからでは手遅れになるから……。
私もできることなら、救えるものは救ってあげたいの。」
神妙な表情のモナを前に、リリーの表情にも静かな変化が現れる。
「……教会からは、何も。私に託されている聖務は、あくまでこの灰色領域の住民の救済のみです。」
リリーは、偽りなくそう告げた。それを聞いて、モナもうなずく。
「実は──、魔族たちが怪しげな動きを見せているの。ひょっとしたら、大攻勢の前触れかも知れない。」
モナは、偽りなくそう告げた。
その話を聞いた彼女がどう動くか。それは、モナにも読みきれなかった。
リリーの聖務に、魔族の討伐は含まれていない。魔族に襲撃されれば応戦はするだろうが、彼女の側から進んで魔族の討伐に動くことはない。
モナは、聖女リリーと大教会との関係も熟知している。奇跡をもたらす聖印を与えておきながら、大教会が彼女を持て余していることも。そして、神託の言葉一つで、彼女は大教会の意向すら無視することも。
モナが情報操作を試みたところで、彼女を動かすのはとても難しい。たとえ、うまく誘導できたとしても、神託一つで彼女の行動はすべて簡単に覆る。
そして何よりも厄介なのは、彼女が持つ聖典の奇跡の力。これは唯一、勇者に匹敵する力を持つ。
だが、それを持つ彼女自身は、あまりに不安定で、不確定。制御できない巨大な力は、只々厄介な存在でしかない。
聖女リリーは強い、だが同時に脆い。──それはモナとクリティエの共通認識だった。
それゆえに、モナは知っておく必要があった。
魔族の侵攻という事態を前にして、彼女が逃げるのか、それとも立ち向かうのか──その選択は、後の情勢を大きく左右するからだ。
「─…そうですか。ですが、私はここから離れるわけにはいきません。」
リリーの静かな返答に、モナは一度だけ視線を逸らした。だがすぐに戻し、寂しげな笑みを添えて言葉を返す。
「そう……。ここの村人が数日は生き延びられるだけの水と食料は置いていくわ。あとは……あなたの好きに使って。」
それだけを告げると、モナは振り返ることなく礼拝堂を後にした。
背を向けたモナの気配が遠ざかるのを、リリーは扉の前で静かに見送っていた。祈りの言葉を唱えることはしなかった。代わりに、ただ小さく息をついた。
彼女にはこの事態を前にしても、神託は降りてこなかった──
◆◇◆◇◆◇
──灰色領域の北端。枯れた風が吹き抜ける岩山の陰に、その姿はあった。
気配を押し殺し影すら見えない、獣のような耳を覆う深いフードをかぶった姿は、山道をゆっくりと通り過ぎる馬車の荷台へと、音もなく飛び乗り、そのまま荷台の奥へと隠れる。
「ごきげんよう。」 そして、薄暗い中でようやくフードを取った。
「ええ。ごきげんな成果が得られたと思うわ。」
御者台から返ってきたのは、背を向けたままの女の声だった。くすりと笑い、小さな木箱を取り出すと、フードの女にそっと渡す。
鍵も封もないその箱の中には、灰色領域で観測された魔族や盗賊たちの行動記録を示す地図、リリーとの会話から得た彼女の動向予測、そして、リアが作った王国軍の増援部隊の配置予定図の写し、といった機密情報が閉じられていた。
「……。ありがとう。」
フードの女は箱の中身を一瞥し、感謝を述べると、そのまま蓋を閉じた。
「私もサキアがどんな手を打つかまでは読み切れない……。
だから、どんな手が来てもいいように、あらゆる手を使ってみようと思うの。」
そして、薄く笑いながら、自らの思惑を静かに口にする。その心根を映すかのように、赤い瞳が妖しく揺れていた。
「ええ。後は任せるわ。私の仕事はここまでだもの。」
御者は冗談めかしてそう言うと、手綱を引き、馬車の速度を上げた。すぐに、車輪が砂を巻き上げる音が勢いを増す。そして、馬車が最高速に達した頃には、荷台にいたはずのフードの女の姿は、跡形もなく消えていた。
二人の目指す先は、奇妙なほどに一致している。
どちらも、勇者が必ず魔王を討つと信じて疑わない。その未来を現実にするために、彼女たちは心から勇者に協力している。
──だがその舞台には、他の誰一人として生き残っていないのが望ましい。
だからこそ、その未来が訪れるまで、勇者という存在を信じ、存分に利用する。
風が吹き抜ける。
その馬車が通り過ぎた山道の脇には、誰とも分からない盗賊の死体だけが、残されていた──……
◆◇◆◇◆◇
クリティエは、モナと別れてすぐ、最後の準備に取り掛かった。
そのために向かったのは、灰色領域のはずれにある小さな森。その奥にいる、ある人物と接触する必要があったのだ。
少なからず因縁のあるその相手は、彼女の言葉になど耳を貸さないかもしれない。いや、それどころか、問答無用で命を狙ってくる可能性すらあった。そんな相手との接触は、クリティエにとっても大きな賭けだった。
しかしだからこそ、彼女はそれをモナには任せなかった。恐らく、その人物はそういう相手の方が、本心をさらけ出すだろうから─…。
やがて、森の奥にひっそりと建つ、不愉快な看板が掲げられた小屋が見えてきた。
クリティエは気配を殺しながら、小屋に近づく。そして、扉の前に立ち、手を掛けようとしたその時──
「何の用?」 中から声が響いた。
まるで全てを見透かしているようでいて、それでいて何も考えていないような、奇妙な感触の声だった。
「少し、お話しない?」
その声に合わせるように、クリティエは悪戯っぽく言葉を返す。
すると、ゆっくりと扉が内側から開かれた。
その先に現れたのは、露骨に不機嫌そうな顔をした魔女ベルフェ。手には、既に黒鉄の杖が握られており、警戒を隠そうともせず、戦闘態勢を整えていた。
「アンタさあ、何考えてるわけ?」
ベルフェは顔をさらに歪め、剥き出しの敵意をそのまま言葉に乗せてぶつけてきた。
それは、完全な拒絶だった。しかし、それは会話という相手の求める形で行われる、何とも矛盾した行為だった。
その言葉にどれほどの棘があろうと、鉄杖が飛んでこないというだけで、クリティエには十分だった。
「私と、手を組むつもりはない?」 だが、その一言で空気が凍りつく。
ベルフェの手に持った鉄杖を握る拳に力がこもり、肌を撫でるような敵意が、殺意へと塗り替えられる。
「──はあ?! 何、ふざけたこと、言ってんの?」
低く震える声には、もう今にも爆発しそうな火薬の臭いが漂っていた。
一歩でも踏み誤れば、何の前触れもなく全てが吹き飛ぶ。
それを前にしても、クリティエは怯まない。
「いえ。私はいたって真面目よ。あなたは強いといっても、勇者には及ばない。
それどころか、勇者が倒した上級悪魔にすら届かない……。」
危険を顧みず爆弾を処理するように、静かに淡々と、正確に言葉を置いていく。
「──それじゃあ、多分、生き残れない。」
それは侮蔑ではなく、警告でもない。ただ、現実を告げる声だった。
「──」 一瞬の沈黙。そして──
「何? ここで殺されたいの?」
それが鉄杖でなく言葉であったことが、ベルフェがクリティエの術中に足を踏み入れていることを示していた。
クリティエは、ベルフェのことを利害を超えて気に入っていた。
あの日、悪魔との戦いで瀕死となった彼女を殺さなかったのも、その内に渦巻くどうしようもない狂暴性に、シンパシーを感じたからだ。
ベルフェは、魔術連盟の中でも異端の存在だ。魔法が使えない魔女として、他の魔法使いから蔑まれながらも魔女であり続ける彼女を、クリティエは本気でこちら側に引き入れたいと考えている。
だが同時に、その狂気の矛先が魔族に向いている以上、決して相容れないことも、また理解していた。
「ま、私と手を組むなんて、できないわよね。」
そう言って、クリティエは微笑む。本心を悟らせぬように、ベルフェの殺気をなだめすかす。
「でも……、あなたに他の人の手を取ることができるのかしら?」
そしてその問いは、ようやく落ち着きかけたベルフェの心を、再び逆撫でする。
「…………。」
ベルフェは眉をひそめる。
核心を語らず、要領を得えず、人の欠点を並べるだけのクリティエとの会話に、いい加減うんざりし始めていた。
「そう言えば……、アンタには一つ借りがあったわよね。」
ベルフェの口元に、わずかに笑みが戻る。だがそれは、笑顔ではなく歪みだった。
「じゃあ、ここで、今返してあげ、るっ!!」
次の瞬間、ベルフェは鋭く鉄杖を振り下ろした。それは紛れもなく、本気の一撃だった。
だが、クリティエはその攻撃を一早く察知し、ひらりと身を躱すと、宙へと舞い上がる。
「どうもありがとう。楽しかったわ……。もし、気が向いたら、いつでも来てね。」
空中から笑い声とともに言い残し、クリティエはそのまま去って行った。
「──っ!! 何がしたかったのよ……。」
ベルフェは鉄杖を地面に突き立て、無駄な時間に舌打ちした。
残されたのは、窪んだ地面と、胸の奥に刺さったままの、あの悪魔の問いだった──
モナの働きによって、王国軍は灰色領域へ向けて動き出すだろう。それに呼応するように、大教会も魔術連盟も、それぞれ相応の戦力を投入するはずだ。
その中で、孤立無援のベルフェが生き残るのは、難しい。
だがクリティエは、それでも彼女に生き延びてほしいと願っている。
この嵐の中で何をして、何を捨て、何にすがるのか。
そして、嵐が去ったあと、彼女がどう変質するのか。
クリティエは、それを見てみたかった。その姿を自分自身と重ね合わせ、淡い期待をする。
それを思い浮かべ、小さく口元を歪めてほくそ笑んだ。
◆◇◆◇◆◇
魔族の領地の奥深く、地図にも記されぬような死地に、巨大な城塞が口を開けていた。
そこには、数多の魔族たちが押し込められるように集められていた。その多くは、灰色領域が生まれる原因となった戦禍を生き延びた者たちだった。
そんな彼らの頭上、城塞の上部から見下ろすように、一人の女が姿を現す。
黒き軍旗を背に、血を吸ったような赤の長衣をまとい、サキアはゆっくりと視線を這わせる。
その目は、獣も怯えるほどに冷酷で、一切の温度を持たぬ冷たい光を宿していた。
「よくぞ集まったお前たち……。灰より生まれ、灰に還る者たちよ──。
ただ、朽ち果てるだけのその命。私が誇りを与えよう──。」
その声は静かに、しかし、暗く重く響き渡る。その言葉に、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が幾つか上がる。
サキアは壇上の縁に立ち、眼下の群れを見下ろして続ける。
「この戦いで散った命は、英霊として名が残る──。
この戦いで奪った命は、勲章としてその名に刻もう──。」
言葉を重ねるごとに、魔族たちの表情は固まっていく。
彼女の声音は激情とは程遠い。淡々と、冷徹に、それはまるで死を告げる鐘のようだった。
「お前たちは勝つために戦うのではない、語られるために戦うのだ──。
死を恐れるな。生を恐れよ。生者に残す名など、どこにもない──。」
魔族たちは、一切の物音を立てず、静まり返った。空気が張り詰める。心臓の鼓動すら、沈黙に呑まれそうなほどに。
「誇れ。死することで、命は朽ちてもなお語られる──。
死することで、魔王の同胞として名は残る──」
言葉の最後の一音が消えると同時に、あたりは完全な沈黙に包まれた。
魔族の目には絶望のみが宿る。己の命は、もはや己のものではない。どう足掻いても逃れられぬ、死の虜だった。
そして、それが己の意志であるかのように言い聞かせ、彼らは沈黙のまま進み始めた。
──然して、彼らは十三階段をのぼる死の隊列を組み上げた。
彼らを置き去りに、サキアは一切を振り返らず、背を向けて去る。
彼女の心中に、彼らへの情など一片も存在しない。そこにあるのは、魔王に捧げる狂信の忠誠のみだった。
”魔王様──今、しばらくお待ちを。必ずや、勇者ヘリオスの首級を玉座に献上致します故──”