第5話 紋章商人モナ
上級悪魔が討伐され、その支配から解放された広大な地域には、未だ人の統治が及ばぬ場所がある。そういった空白地域は、灰色領域と呼ばれ、無法地帯となっていた。
灰色領域の丘陵地帯を走る一台の馬車があった。
周囲には旅人も村もなく、ただ遠くに沈みゆく太陽だけが、大地一面を黄金に染めていた。その夕陽を浴びて、馬車の側面に飾られた王家の双竜の紋章が、にじむように輝く。長く伸びた馬車の影が、その輝きを追っていた。
──そして、それを追う別の影が、どこからともなく現れる。
影は増え、その足は馬車よりも速く、じわじわとその距離を詰めていく。その影たちは、徒党を組み、互いに合図をして馬車の逃げ道を塞いでいった。王家の紋章付きの馬車が、ただ一台で護衛も付けずに灰色領域を横断するなど、「どうか襲ってください」と言っているようなものだった。
馬車は逃げるのを諦めたように、徐々にその速度を落としてゆく。
だが次の瞬間、それを追い越す盗賊たちに向かって、御者台から怒号が叩きつけられた。
「あんたたちっ! この双竜の紋章が分かってんのっ!!」
若い女の声で、この状況が分かっていないような間の抜けたことを言われ、盗賊たちは余裕を見せて言葉を返した。
「ハッ! それが何だってんだ! お前こそ、ここが灰色領域だってわかってんのかぁ?」
馬鹿にしたように嘲笑いながら、盗賊たちは馬車の行く手を阻んだ。進行を邪魔された馬車はさらに速度を落とし、そしてついに、動きを止めた。
盗賊たちは、馬車に近づく。それを見て、女性は逃げる様子もなく、強気に叫ぶ。
「分かってて手ェ出してんだったら…、泣き言は聞かないわ、よっ!」
女性はそう言って、背後にある双竜の紋章のレリーフに手をかけると、片方の竜の首をひねる。すると、荷台から光弾が破裂音と共に幌を突き破り、空に向かって放たれた。
「信号弾?! 一体、ここで誰が助けに来ると思ってんだ?」
その光を見て、女性の相変わらずの間の抜けた行動に、盗賊たちは呆れる。
──しかし、状況が分かっていない間抜けは、盗賊たちの方だった。
光弾は、上空で弾けると、馬車の周囲に雷撃となって降り注ぎ、取り囲んでいた盗賊たちはその直撃を受けた。
声を上げる暇もなく、盗賊の一人が痙攣しながら膝を折る。他の者たちも全身を引き攣らせながら、次々に地に伏していった。
誰も立ち上がることができず、うめき声だけ発する中で、女性は余裕を見せて言葉を返した。
「あんたたち、まともに働きなさいよ…。」
そう言いながら、盗賊の頭目らしき人物に当たりを付けて、返事の来ない一方的な自己紹介を押し付けた。
「もし、その気になったら、連絡しなさい。私が必要な物を、特別価格で、用意して、あ、げ、る。」
「私はモナ。商人で知らない人はいないから、それだけで十分よ。」
それだけ言い残して、商人モナは何事も無かったかのように去って行った。
馬車に仕掛けてあったのは、降下型魔法弾発射装置と呼ぶにふさわしいものだった。そんな大層な代物を、並の商人に用意できるわけがない。馬車に掲げる王家の紋章は伊達ではなく、モナは、王命を受け勇者のもとへ向かう勅使、『紋章商人』と呼ばれる人物だった。
◆◇◆◇◆◇
モナは馬車を何日も駆け、ようやく勇者の元へたどり着いた。
勇者はモナの馬車をみると、薪割りをする手を止めて、モナを迎えた。そしてモナもまた、そんな勇者の姿をみて、友のように語りかけた。
「ハハッ、相変わらず、精の出ること…。薪が欲しいなら言ってくれれば、私が用立てるのに…。」
勇者の善行を、冗談めかして茶化しながらも、その眼は、勇者の状況をつぶさに捉える。見た目で分かる体の状態はもちろん、仕草や表情から分かる心の状態まで。
「─…他に何か必要なものはある? この世にある物ならなんだって、私が持ってきてあげる。」
勇者は少し困った顔をみせて考えるが、なにも思いつかない。その沈黙の間に、背から聖剣グラムが割って入った。
《この身、王都にて今を彩る流行のほど、ぜひとも、知りとうございます。》
その聖剣とは思えない物言いに、モナは破顔しながら快く応じた。
「フフッ、ええ、いいわ。そんなことなら、荷降ろししながら教えてあげる。」
そう言って二人は馬車の背に回って、補給品を降ろし始めた。
勇者に必要な物資を定期的に届けることも、紋章商人モナに託された重要な使命のひとつだ。それは、いわば勇者専属の行商人とも言えた。
王の庇護を受け、馬車に双竜の紋章を掲げることを許されたモナに、行けぬ場所はない。王国内はもちろん、灰色領域であろうと、魔族の根城であろうと、勇者がいるなら必ず支援物資を届ける。それを可能にするだけの技量と胆力を、彼女は兼ね備えていた。
それからしばらく、モナはいつもの手際で馬車から荷を下ろし、物資の点検をする。布で丁寧に包まれた食糧と水の瓶、矢筒いっぱいの矢、色分けされた治療薬、硫黄を混ぜた小型の爆薬。それらは勇者が必要とする物だけでなく、ここ灰色領域に生きる人々のための物でもあった。
「ほらこれ、新作の保存食。このパンは酵母に秘密があって、時間が経っても硬くならないの。保存用なのに物珍しさで、王都で密かに流行っちゃってるのよね。」
モナは笑みをこぼしながら、その商品の一部を紹介する。
《──さようなものにあらず、この身は、新たなる人の叡智を求めておるのです。》
しかし、自分の口には入らないその商品に、聖剣は興味を持たず、不満を漏らした。
「…、ふーん。そういうアレね。わかったわ。次の時までに用意しとくから。」
モナは色々察したように独り納得して、返事を返した。
品物が揃っているのを確認すると、モナは革手袋を外し、膝を軽く払って立ち上がる。そして、勇者に歩み寄ると、腰の鞄から細長い木箱を取り出し、静かにその蓋を開けた。
「─さてと。今日は、こっちが本命ね。」
その箱の中には、王家の封蝋で封じられた勅命書が収められていた。差し出されたその勅書を、勇者は無言で受け取ると、ためらいなく封印を解いて文書を広げる。黙ってそれに目を通す勇者に、モナの口がふと開いた。
「…。一体、何が書いてあるの、か、し、ら?」
当然、モナにそれを読む資格はない。けれど、それを読んだ勇者が語ることには、一切の縛りはない。
「─…。この近くの魔族の砦に眠る『支配の三冠』を持ち帰れ、ですって…。」
勇者は包み隠さず、とても簡潔に、その王命の内容を明かした。
それが自分の範疇の外の事だと聞いた途端、モナは肩をすくめて振り返り、帰り支度に取り掛かった。
「それじゃ、今度は聖剣が気にいるような薄めの本でも持ってくるから。」
腰の鞄に空の木箱を締め直し、彼女は馬車の方へと足早に歩き出した。そして、御者台に乗り込むと、振り返らずに片手をひらひらと振る。そんなほんの僅かな気遣いを置き土産に、モナは慌ただしく去って行った。
《─さて、姫公よ。いかがいたしましょう。》
「いかがって……。行ってみるしかない、でしょう。」
モナの馬車を見送りながら、勇者はその先のことを考えていた。
◆◇◆◇◆◇
王の勅令書には、支配の三冠にまつわる情報が書き綴られていた。
それは、遥か神代の記憶に紡がれる、王たちの三冠の物語だった。
”──天と地と海すら名を持たぬ時代。世界は三柱の王により分かたれ、統べられていた。
三王は各々の力の象徴たる冠を戴き、その力は調和と均衡を保ち、地上に楽土をもたらしていた。
第一の冠は『覚悟の眼』
そは、真実を見通す瞳にして、あらゆる事象の揺らぎを止め、確たるものと成す。万象を識る王の象徴なり。
第二の冠は『意地の手』
そは、定められし理をも断ち砕く剛腕なり。破壊を以て新たな理を築く、反逆と変革の王の証なり。
第三の冠は『決意の心臓』
そは、未来を貫く意志を鼓動に乗せ、望むべき結果を招き寄せる心の核。運命を捻じ曲げる王の心臓なり。
三つの冠は互いに巡り響き合い、世界はその循環の中で調和していた。
されど、ある時、一柱の王が囁きを聞く。
「三つを併せ持つ時、そは神にも等しき力となろう」
その言葉は毒のごとく心を蝕み、野心を芽吹かせた。王は二つの冠を奪わんとし、他の王もまた立ち上がる。
そしてついには三柱は、相争い、互いを滅ぼし合うに至る。
こうして、楽園は失われ、混沌が世を覆うこととなった──”
この神話の真偽を問われれば、誰もが本当だとは信じないだろう。しかし、王命にて”持ち帰れ”とあるならば、信じるに足る何かを王は得ているのかもしれない。それが何かまでは、勇者には分からないが…、ご丁寧に、魔族の砦の位置も地図に正確に記されている。
そこまでお膳立てされて、これを勇者が信じるかどうかは関係なく、ただ、そうあるように事は進んだ。
◆◇◆◇◆◇
勇者は、道中何事もなく、砦へと辿り着いた。勇者の眼前に広がるその姿は、魔族の砦の中でも異質な城だった。
砦の外壁は石と木とが複雑に絡み合い、木の成長に合わせて継ぎ接ぎされているようだった。苔むしたアーチ、蔦の這う尖塔、枝のように広がる通路。人工物と自然物の境が曖昧で、まるで砦の中に森を持つような、魔族の城らしからぬ神秘性に溢れていた。
その砦の中心には、巨塔がそびえる。
その巨塔は、他と同じく木と石が融合したまま天まで伸び、頂上ではまさに巨木のように、枝葉が帽子のように広がっていた。枝の隙間からは陽光が差し、塔の中に注ぎ込んでいるようだった。
主を失った魔族の砦は、まるで深い森の奥底のように、ひっそりと静まり返っていた。砦の中に風が吹き、枝を鳴らすたび、それに合わせて何者かの気配が、壁の向こうで揺れるような錯覚すらあった。
正面の門は頑なに閉ざされており、勇者は砦を囲む壁沿いに歩を進め、他の入り口を探していた。踏みしめる苔の柔らかさと、蔦の絡まる壁の膨らみに、生きているような感覚が肌にまとわりつく。
そんな時だった。勇者が砦の壁に気を取られる背後から、突如、クリティエがどこからともなく顔を出した。
「あら? 珍しいところで会うのね。勇者がこんなところに何の用?」
こちらが聞きたいことを先に塞ぐように、それを本当に知らないのか、知っているのか怪しい声色で、クリティエは勇者に絡む。
「…、この中に入りたいのだけど、どこかに入口はあるかしら?」
そんな考えても仕方ないクリティエの思惑をよそに、勇者は眼前の問題を口にする。それを受け、クリティエは聞いてもいないこの砦の説明を勇者に始めた。
「この砦の主は、火炎の王を呼ぶために生贄にされた六人の悪魔の内のひとりよ。あなたと上級悪魔のあの戦いでね…。
あの子は、花が好きだった…。だから砦もこんな風にしてたんだけど、酷い趣味よね。まったく…。」
クリティエの揺さぶる言葉は、砦にまた違う色彩を勇者に魅せる。だが、それだけのことだった。
戦場に立つ者の命の価値を計るのは、たとえ手を下したのが誰であれ、自分自身しかいない。
その信念を固く持つ勇者に、クリティエの思惑は届かない。
「─…あなたが何を求めているかは知らないけど。お宝があるなら、中央塔の頂上にある空中庭園かしらね。」
はぐらかす言葉を投げかけても、勇者の目は穏やかにこちらを見据えたまま、揺るぎもしない。
そのまなざしに、クリティエは肩をすくめて視線を逸らす。揺さぶるつもりが、返って自分の方が見透かされたようだった。
「えっと、そうそう…。確か、入り口はあっちにあったかしら。」
その空気に耐えかねたように、クリティエはあっさりと隠し扉の在処を示した。
◆◇◆◇◆◇
隠し扉を抜けた内部は外観と同じく、石と木が絡まり合った複雑な構造を成していた。
壁面には木の根が這い、ところどころに咲く花がかすかな明かりを帯びて揺れている。天井は高く、中央塔に向かって張り巡らされた梁が、罠にかかった蝶になったかのような錯覚を誘った。
だが、そこには生き物の気配はない。主を失って、砦は時を止めたかのように、ただ静かだった。
その中を勇者とクリティエは中央塔を目指して進んでいった。
中央塔に辿り着き、螺旋階段に足をかける勇者に、聖剣が口を突く。
《姫公よ。先約がおりまする。》
その言葉は、木と石が織りなす空間に混じり込んだ異物の気配を予感させる。階段を上がるたび、その気配は強くなる。それを証明するように、鼻をつく鉄錆の臭いが勇者の呼吸を刺さしてきた。
そしてその予感の通り、螺旋階段を上がった先の光景は、一変していた。
階段を上がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、無残に潰れ斃れた魔物たちの死体だった。床に刻まれた深い傷跡と、砕けた壁が激しい戦闘の痕を物語る。そして滴る赤い血が、それがつい先ほどの出来事であることを雄弁に物語っていた。
しかし、それを行った者の姿はどこにもない。いったい誰の仕業なのか、あるいは仲間割れなのか、勇者には分からない。
ただ、残された痕跡だけが、さらに上層へと続く道を指し示していた。
◆◇◆◇◆◇
──最上層の空中庭園には、対峙する二人の影があった。
「─…っとに、勘弁してよ…。好条件のチョロい仕事だと思ってたのに、こんな有名人と出会うだなんて…。
あー…、やっぱり、朝イチの仕事なんて受けるんじゃなかった……。」
二つの影は、空中庭園の三つの玉座を前にして向き合っていた。
影の一人は、たらたら文句を垂れながら、もう一人に向けて鉄杖を構える。隠しもせずに飾られる支配の三冠を前にして、一触即発の状況の中、相手に向けて二者択一の返事を迫った。
「一応、聞いとくんだけどさぁ! 聖女様の狙いも、支配の三冠ってことよねぇ!」
対する影は、その荒々しい声を、包み込むような穏やかな言葉で返す。
「自己紹介は必要ないみたいですね、呪われた魔女ベルフェさん。
私も、あなたをよく存じていますよ。大教会で”魔女”といえば、あなたを指すほどなのですから…。」
そして、少しの笑みを浮かべ、選択の答えを示す。
「─…そして、あなたへの答えは、イエスです。」
それは、開戦の狼煙となるのに十分な、答えだった。
◆◇◆◇◆◇
大教会と魔術連盟の間には、決して埋まらぬ深い溝がある。
この世の秩序と権威の守護者である大教会は、かつて、魔法の行使を神への冒涜とみなし、魔法使いを穢れた存在として断罪した。魔法には厳格な規制が敷かれ、魔法使いたちは常に密告の目と耳に晒され、異端審問によって徹底的な迫害が行われた。
それに対し、魔法使いたちは魔術連盟を結成し、大教会に反発した。信じる神の名が違う、ただそれだけで、信仰と魔法が真っ向から衝突する、果て亡き宗教戦争が始まった。
その戦争は長きにわたり、数え切れない戦いと、それ以上の犠牲を生んで、たった一つの時代を終わらせた。
その苛烈な歴史の傷跡はいまだ癒えず、大教会と魔術連盟の間には、今なお拭い切れない不信と怨嗟が渦巻いている。
◆◇◆◇◆◇
ベルフェは一切の躊躇も、手加減もなく、聖女リリーに向かって鉄杖を振り上げる。
しかし同時に、聖女は乙女の聖典を開き、聖句を謳った。
”פרק 18, פסוק 3 אָזְנִי וְאַפִּי לֹא יִטַּמְּאוּ בְּדִבְרֵי חֶנֶף, עַל־כֵּן אַל־תִּגַּע בִּי, יָד טְמֵאָה
חִצֵּי שֶׁקֶר יָשׁוּבוּ אֶל־עֲוֹנְךָ
(第18章第3節 我が耳、鼻、甘言に染まらず。ゆえに触れるなかれ、穢れし手よ。
偽りの矢は、すべて己が罪へと返らん。)”
ベルフェの鉄杖は、リリーに当たる直前で、光の壁に弾かれ返された。
しかし、ベルフェは諦めず、その防壁を打ち破るため、執拗に攻撃を繰り返す。そのひと振りがぶち当たるたび、分厚い岩盤に鋼鉄のハンマーを叩きつけるような重い衝撃音が辺りに響く。
そしてその連続する轟きは、戦を知らせる銅鑼の如き咆哮となり、新たな影を二人の戦場に引きずり込んだ。
「─…ねぇ…。勝負がついてからにしない?」
最上層につく前に、その轟音から何が起きているのか察したクリティエは、賢明な判断を持ちかける。
しかし、勇者はその声を振り切るように前に出る。クリティエは仕方なく、勇者を盾にあとに続いた。
その姿に最初に気づいたのは、リリーだった。
リリーの瞳が、勇者の姿を捉えた瞬間、聖典を握る手にこれまでにない力が入った。ベルフェの攻撃を受け続けても傷一つない完璧な神の防壁に、揺らぎが起きる。
その一瞬を見逃さず、ベルフェは次の一撃に魔力を込める──
だが、まさにその禍々しい凶兆が現実となる刹那、これまで一歩も動かなかったリリーが、風を裂くように身を翻した。 ベルフェの魔撃は空しく宙を舞い、その旋風だけが、リリーに届く。制御など元から考えていないその全力に、彼女の体も振り回されて、杖に続いて後を追った。
身を立て直すベルフェがやっと、リリーの異変に遅れて気づく。そしてようやく、大地を鳴らす轟音は鳴り止んで、戦場に沈黙をもたらした。
しかし──
その姿に最初に行動したのは、ベルフェだった。
ベルフェの瞳が、勇者の背後を捉えた瞬間、鉄杖を握る手にこれまでにない力が入った。リリーが攻撃を仕掛けてくることなど一顧だにせず、杖の矛先をそちらに移す。
次の瞬間、ベルフェは次の一撃に全力を込める──
だが、まさにその攻撃をぶち込む刹那、勇者の聖剣がベルフェとクリティエの間を割った。
勇者に攻撃を受け止められたベルフェは、それでも止まらない。
「ああっ?! どけよっ! クソ勇者ぁっ!!」
剥き出しの棘のような悪態を怒鳴りながら、構うことなくさらに連撃を叩きこむ。とめどなく振るわれる怒り任せの鉄杖は、しかしその悉くを、聖剣によって一つ残らず弾き返された。
ベルフェは、それでも止まらない。もはや、相手が誰であろうと関係なかった。瞳にクリティエを捉えながら、ただ邪魔されたという事実が、彼女の理性を破壊する。
打ち下ろされた鉄杖が、再び鳴らす銅鑼の音は、戦場に誰も彼もを引きずり込んだ。
そのどうにもならない戦場に、清らかなる聖女の声が鳴り響く。
”פרק 38, פסוק 4 בַר עֲוֹנְךָ, עַתָּה תְּדַבֵּר שְׂפָתֶיךָ, עִם תְּפִלַּת הַנַּעֲרָה, תַּחֲנוּנִים שְׁלוֹשׁ פְּעָמִים כְּבָר כָּלוּ
(第38章第4節 唇は、今こそ罪を語れ。祈りと共に、三たびの慈悲はすでに尽きたり。)”
その声に応じるように、聖典が威光を放つ。聖句の光に戦場の二人が包まれると、鉄杖と聖剣は手から離れ、抗う術を奪い制した。代わりに空いた両の掌が、自然と胸の前で重なり合う。その姿は正に懺悔のように、戦いから二人を引き離した。
「罪には赦しを与えます。さあ、お二人とも、罪を、語りなさい。」
それはリリーからは考えられない、いや、聖女らしい慈しみに溢れた審判だった。
「─ッ…クソがよ…。大教会なら悪魔は仇敵だろうがよっ!」
それでもベルフェは、歯軋りしながら言葉で最後まで抵抗する。同じく、聖剣も勇者の意志を仰ぐ。
《姫君よ、いかにとも─》
「…………。」 しかし、勇者は地に転がるグラムを、無言をもって制した。
動かぬ三人を前に、リリーはゆっくりと言葉を並べる。
「どうか、そのままお耳をお貸しください─…。
私は、戦いを望んでいません。大教会の要請如きで、お三方を相手にするわけには参りませんので…。」
リリーの言葉に、嘘偽りは一切なかった。彼女の行動は全てにおいて神託が優先される。だが、彼女は「それを成すべき時は今ではない」と悟る。たとえ信念に背くようにみえても、それは神託の成就を最優先とする結果だった。
その穏やかな美声は、ベルフェの戦意を一瞬、凪のように鎮めた。
「─ですのでここは…、私に譲ってくれませんか?」
けれど次のその一言が、静けさを荒立て、怒りと困惑をかき混ぜる。
しかし、ベルフェが次の言葉を吠えたてようとする前に、リリーは先にその口を塞いだ。
「─…と、言いたいところですが、良いでしょう…。強欲は罪です。
私は、この一つだけ持って帰りますので、後は皆さんでご自由に─…。」
そう言うと、聖女リリーは、第一の冠だけを手に取り、そのまま消えるようにこの場を去った。
リリーの姿が見えなくなって、二人は聖句から解放される。
結局、いいように感情の起伏を弄ばれて、戦意を削がれたベルフェには、再び鉄杖を握る意欲は無くなった。深くため息をつき、やり場のない感情を押しとどめる。その感情との決別のため、ベルフェは一つ、勇者に尋ねた。
「ねえ、どうしてその悪魔と一緒にいるわけ?」
その質問に、勇者は迷いなく答える。
「ただ、ついて来るだけよ。」
その言葉に、背後のクリティエが文句を言いたげに眉を上げる。そこに、拾われた聖剣が口を挟む。
《姫公よ。まさか…、この身もさようにお思いではありますまいか?》
その茶番に、すっかり毒気の抜かれたベルフェは、もう一度大きなため息をつくと、勇者にもう一つ尋ねた。
「あたしも、じゃあ一個貰ってくからさぁ、三等分で、それでいいでしょ?」
その投げやりな提案に、勇者は黙って「どうぞ」と頷いた。
それを受け、ベルフェは第二の冠だけを手に取り、ぼやきながらそのままこの場を去った。
二人が去ったそのあとで、勇者は残った第三の冠を手に取った。その勇者の姿勢を、悪魔のクリティエが咎める。
「あらあら、これでよかったのかしら?」
その身を守ってもらった立場とは思えないその態度に、勇者ではなく、聖剣グラムが気分を害した。
《それぞれの依頼の主のお手に渡るのですから、もはや後片付けなど、その主たちのお好きになさればよろしいのです。》
おそらくは聖剣の言葉通り、三冠の力が嘘であれ本当であれ、結局三冠は一つずつ三人の手から、王家、大教会、魔術連盟へと渡る運びとなるだろう。その後について、勇者が関与する余地はない。神話に準え、野心を抑えることが彼らにできるか、どうかさえ──
◆◇◆◇◆◇
支配の三冠の件が片付いて、三方は再び、それぞれの日常へと戻っていった。
けれど、そんな彼女らが誰一人として、考えようとすらしなかった事が一つある。
“あの場に三人が居合わせたのは、果たして本当にただの偶然だったのか?”
この疑問の答えを言えば、そんな偶然はありえない、だ。勇者、大教会、魔術連盟に、同じ情報を、同じ時期に流した何者かが、確かに存在していた。
”では、誰が何のために仕組んだのか?”
しかし、その答えは、疑問が生まれることがない以上、生まれることは叶わなかった──
しばらくすると、商人のモナが再び補給と、支配の三冠の回収のためにやってきた。
勇者は商品を受け取りながら、勅書と第三の冠を渡し、その場でのあらましを説明した。
「─…まぁまぁ、それはご苦労様でした。それでも大事にならなかったことは、何よりだわ。」
モナは何とも言えない顔で労うと、冠を受け取った。その眼はいつものように、勇者の状況をつぶさに捉える。見た目で分かる体の状態はもちろん、仕草や表情から分かる心の状態まで。
「─…そうそう。聖剣様のご要望、ちゃんと覚えていたわよ。今、王都で大人気のモノを持ってきたの。」
にこりと笑って、モナは勇者の前に二冊の本を並べる。そのうち、分厚い方を手に取って紹介した。
「これは今、王都で売り切れ続出の一冊『裏切りの騎士と姫の誓い』。姫を巡る三騎士の悲哀が描かれているわ。」
《さようです! この身は、さようなものを求めておったのです!》
無い目を見開き、興奮気味に聖剣が本へ飛びつく様子に、モナは笑いをこらえる。そして今度は、もう一冊の薄い方を手に取った。
「で、こっちはその三騎士の物語よ。三騎士の悲哀が描かれているわ。」
モナのその説明に、聖剣は当然の疑問を口にする。
《おや? 姫は?》 「いないわ。」 《はて?》 「ええ、いないのよ。」
納得できない様子の聖剣に、モナはこらえ切れずに肩を震わせる。そして、モナは子供を優しく見守るように、言葉を続けた。
「─…ま、読めばすぐわかるから。両方読んでどっちが好みか、今度感想を聞かせてね?」
そんなやり取りを終えると、モナは軽く手を振って、来た道をまた戻っていった。日が傾き始めた街道に、車輪の音だけが転がっていく。
それを見送る勇者には、この一件でささやかな報酬が与えられた。といっても、彼女はその使い道に無頓着だった。
今回、一番の報酬を手にしたのは、もしかすると聖剣だったのかもしれない。
◆◇◆◇◆◇
──……灰色領域を一台の馬車が夕日の中を走って行く。
その夕陽を浴びて、馬車の側面に飾られた王家の双竜の紋章が、にじむように輝く。長く伸びた馬車の影が、その輝きを追っていた。
そして──馬車の上には、破れて接いだ幌を隠すように横になる、影を持たない悪魔が一人。
「─…中々、思い通りにはいかないわね…。」
第三の冠を指でくるくると回しながら、気だるそうにクリティエは呟いた。
「そうね…。でも、種を蒔くことは出来たから、それで良しとしましょうよ。」
クリティエの囁きに、モナはその思惑を忍ばせる。
クリティエとモナは繋がっている。二人の付き合いはまだ短いが、互いの野心は強く結びついている。
支配の三冠は、モナが仕込んだ嘘である。その嘘を、紋章商人という立場を利用し、大教会と魔術連盟に流した。そして、この件を王家は一切与り知らない。もちろん、偽物の冠を王家に送り届けるつもりなど毛頭ない。
モナが勅命書を偽造してまで企てた目的は、三冠を奪い合うように仕向け、互いを潰し合わせることにあった。勇者が二人を倒してくれたなら、それ以上の成果はなかったが、全てがそう思い通りにはならなかった。
しかし、モナはそれでも構わなかった。
三冠が一つずつ、それぞれの手に渡る状況は、大教会と魔術連盟に新たな火種を植え付ける。たとえ自分の手にある冠が偽物だと分かっても、相手は本物かも知れないと言う不信は、耐えがたい渇きへと変わるだろう。
重要なのは真偽ではなく、その状況だった。
状況を一つ一つ積み上げて、理想の『舞台』を作り上げる。それが二人の共演理由。
野心によって練られた台本に、策謀が舞台装置を回転させる。
道徳が照らす照明の、照らす先は忠誠の仮面をつけた演者たち。
然して、幕が上がるは灰色領域。
法も裁きもありはしない、あるのはたった一つの掟のみ。
善と悪が交じり合い、罪と罰が交差する。その境界が曖昧な、秩序の隙間にある無法の地。
観客すら、その輪郭を忘れ去る、この舞台に立つ限り、誰もが演者、誰もが共犯
”勇者ヘリオス──あなたも、私の足元に、ひれ伏させて、あ、げ、る──”