曹達水
いつか自分も爆発する、と思った。
陳列棚におとなしく収まって、開けた瞬間に噴出す炭酸みたいに。
夜十時、喉の渇きを覚えて閉店間近のドラッグストアに駆け込んだ。
古本屋で三時間近くも粘った結果がコレだ。
勉強もせず、家にも居らず、漫画を読んでいただけ。何だか酷く空しいような、そのくせ肩凝りだけは立派なのが笑えて、どうしようもない疲労感だけがたまっている。そんなことであくせくする自分がいかにくだらない人間か、自覚すればどこまででも落ちていけるからとりあえず止めておく。
入ったドラッグストアはやけに広くて、そのくせ棚の背が高く、目指す清涼飲料水がどこにあるのかイライラしながら探す羽目になった。
蛍の光が流れている。
ようやく生食品と飲料が置いてある陳列棚を見つけて、多少歩く速度を上げた。一刻も早く水分が欲しかった。
並んでいるペットボトルを見ると、そんなに種類がないことがわかる。コーヒー牛乳、果汁入りのジュース、炭酸。
なんとなく炭酸が欲しくなった。甘ったるいだけでも、すっきりするだけでもなく、口と喉にある程度の刺激が得られるもの。ただそれだけの理由で炭酸を手にして、レジに向かう。
ある程度古いモノなのだろうが、やはりコンビニと違って安く買える。一本九十六円。これに優る利点はない。
そうして手に入れたペットボトルのサイダーを、鍵をかけた自転車のところに行って、一息に開けた。
水の中に閉じ込められていた二酸化炭素が一気に迸る。
それはフタを開けていた手にかかり、着ていた上着の胸の辺りにまで飛び散った。
手に取ったときは大人しそうに見えたのに、この暴発。内に何を抱えているかわかったもんじゃないな。
分かってくれないのは周りだ。
聞いてくれないのは皆だ。
傷ついているのは、自分だ。
……それはある意味で、自分と同じかもしれない。
抑え続けていたら、きっとこうなる。
暗い愉悦と静かな予感だけが、心の中に残った。
「でさー、そのときウチの親父は言ったわけ、『葉桜もたまにはいいよな』って」
「へぇ、それまたどうして?」
「だって、桜が終わった頃だから五月だろう? んで、桜餅の葉っぱなわけだし。なんつーか、そういう関連で、葉桜を眺めるのも悪くないなー、って」
「ふーん」
「そうそう、〝悪くない〟って言えばさぁ……」
さっきから高瀬裕也は自分のことと、自分の身内の話しかしていない。それしか話すことがないにしても、偏りすぎだと思う俺は決して間違っていないはずだ。
「聞いてくれよ淕ー」
そう言って寄ってきたのは、コイツも〝話す〟しか能のない佐東昭一だった。
「何だよ昭一」
「昨日やったゲームでさ、強いボスが出てきたんだけどさ、こいつのHPがマジおかしーの。俺パーティでかなりレベル上げて挑んだんだけど全っ然減らなくて!」
「勝てたの?」
「結論急ぎすぎだっつーの。まあ聞けよ。一回目は勝てなくてゲームオーバーしたんだけれど、やっぱゲーマーとしては悔しいじゃん? んで、なるべくならプレイ一周目は攻略本に頼りたく無いじゃん? 俺は一時間ぐらい何が悪かったのかを考えに考え抜いて、やっと思い至ったワケよ」
「敵の弱点?」
「そっのとーり! さーすが淕、よくわかってる! そう、思えば敵の姿形、あとダンジョンが水の近くだったから、水属性かと思って火や雷の属性で戦ったんだ。んで、今までのボス戦と同じくらいのダメージを与えられていたから、俺はそれが実は弱点なんかじゃなく強味で、しかもそのボス自身の属性だってことに気づけなかった! 何畜生!たる失態! この佐東昭一! ゲーマーの風上にも置けねーよ」
「気づけたんなら上等じゃないの? きっと昭一と同じような勘違いを起こしている奴たくさんいると思うからさ。その中で」
「そーだよな! やっぱそう思うか、淕も。俺もそうだと思うんだよね!」
大体において、人の話は最後まで聞かない。言いたかったら言う。そこに傲慢なんてカケラも存在していない。
正直、馬鹿だと思う。だからといって自分が聡いなんて言うつもりは全くない。けど、コイツらよりはマシだ、と。
俺がこんな風に思ってるなんて知らないだろう?
聞き続ける、言われ続けるっていうことが、どれだけ苦しいか、解らないだろう?
聞かれないなら、俺は言わない。言ったとしても途中で言葉を切られて、何とも言えない気持ちになるだけなんだ。
愛想や執着なんてモンが最初からあるなら、言えているはずなんだ。
それがないっていうのは、やっぱり俺は二人を見下しているのだと思う。
きっかけなんて些細なもので。
何を話されていたかなんてよく覚えていないけれど、物理のプリントをしていたときだったということだけは、はっきりしている。
確か、高瀬の声がした。
「昨日見たテレビのドラマでさー」と、俺が見ても、興味を示してもいない番組の話を、二十分ぐらい続けていた。
正直、うるさかった。
今は自習中で。教室内はザワついていて。友達同士固まってしゃべりながら、問題になんて見向きもしていない奴が大半だった。
でもプリントを持ってきた先生が「これは評価対象になるからな」と言っていたのをしっかりと拾い、しかも以前自習中にうるさくし過ぎて他のクラスから注意を受けていたのを覚えていた俺は、他の連中と一緒になってしゃべる気も、机を無視して移動する気にもなれなかった。
高瀬は、いつものように俺の前の席に移動してくると、こっちに向き直ってプリントを開き、話しかけてきた。佐東のところじゃなくて俺の方に来た、ということに少なからぬ優越が浮かんで、俺はなるべくそういう汚い気持ちから目をそらすよう努めた。
「女優の五木ゆかりがやってる女の子がかわいくてさー。足とか腰とかすげー細くて感動したよ、俺」
五木ゆかりなんて女優がいたことも知らなかった俺は、口の端をあいまいに動かした。とりあえず、笑みを見せておけば、相手の機嫌が悪くなることもない。
焦っていた。授業が始まって二十分。二十題あるプリントは、半分も終わっていない。早くしないと授業が終わってしまう。
でも高瀬を無視するわけにもいかない。こいつと話しながらでも、何とかなるだろうと考えていた俺は甘かった。もう高瀬が一言何かいうだけで、頭が「またか」と思い、口は「何だよ」と、意とは違うことを発し続ける。
どうにかなってしまいそうだった。
「んでさー」
「なあ、裕也」
「何、淕」
「うるさい、黙れ」
俺は、ひどい顔をしていたに違いない。
裕也は、今気付いたとでもいう風に俺の顔をまじまじと見ると、「あ、じゃあ行くわ」と言って、席を立った。佐東の方に向かうのが視線を向けていなくてもわかった。
手に入れた静けさにも、俺はうるささを覚えた。
結局プリントにも手がつかなくて、残り二題が解けないまま提出した。
成績よりも、明日の身の振り方の方が気になるなんておかしいと、強がってみるのが精一杯だった。
はじめて、その日は、「おはよう」という言葉を言わない朝だった。
いつもなら話しかけてくる裕也や昭一が、こちらに見向きもせず二人でしゃべっているのが視界の隅に映った。
気にしちゃいけない。
気に、したくもない。
存在を脳内から追い出す。
自分から話しかけたくなんてない。
今は、ようやく手に入れたこの静けさを、思いっきり享受しておくに限る。
その日、二人から言葉をかけられることはなかった。
今まで俺が我慢して作ってきた関係なんてこんなものか、と。
ズブズブと泥に沈んでいくように、思った。
二、三日、言葉を発さなかった。
話しかけることも、笑顔を作ることもしなかった。
たぶん、苦しいと思う前に死んでいた。
だから痛みもないはずだと。
そう、思って、いたのに。
見上げた空が、酷く暗かったのを覚えている。閉塞しているのがわかった。呼吸も、気持ちも、まるで活動することを恐れるように。
こうなった原因を考えた。あの日から、なるべく考えないように、思考回路から追い払っていた要素。
ずっとずっとしゃべり続けて。自分の言いたい欲を満たしていた人間を、俺は「良い」とは思えない。これは変わらない。
だけど、――だけど。
言葉を発そうとしなかったのは、俺で。
聞いてくれって言わなかったのも、俺で。
ただ周りから与えられる言葉に、声に、安心していた。
余裕ぶって、「聞きますよ」って顔して、聞かれたくなくて。なのに話してくれる人を、大切に思えなかった。馬鹿に、してた。
「気づいたからって元に戻ると思うなよ」
心の奥の黒いものが、吠えた。
二週間が経つと、屋上へ行くのが日課になった。
誰と話すでもなく会話でやかましい教室にいるのが苦痛だった。急にひとりになるのは、精神衛生上よくないみたいだ。
大抵誰もいないここは居心地がよかった。単にひとりであることをそんなに意識せずに済むからだと、思うが。
「あれぇ? 宇津木? こんなトコで何してんの、アンタ」
こんな所に人など来ないと思っていたのに。
「伊滝……お前こそ」
「ああ、アタシ? センセーうるさいからさ、ここで吸ってたのよね」
と言って、伊滝はファンタの缶を持ち上げた。そういえば昼休み前の授業に、伊滝が教室にいなかったことを、俺はなんとなく思い出す。
「宇津木って吸うの?」
「吸わない」
「あれ……案外しゃべるんだ、アンタ」
「は?」
急な台詞に、顔をしかめる。一体、何が言いたいのだろう?
「アンタ最近、ずっと一人だったじゃん? 薄い存在感がさらに薄くなって、生きてんのかどうかわかんなかったわ」
酷い台詞だ、と遠い頭で思う。
「うるさい。黙れ」
だから率直に、思ったことを言った。伊滝と、これ以上話していたくなかった。自分の中の黒さが、更に止め処なく流れてきそうで怖かった。
「ああ、アンタ〝話せた〟のね」
伊滝が一瞬何を言ったのか、俺にはわからなかった。
「どういうことだ?」
「どーもこーも、そのまんまだけど?」
アタマ悪いなぁ、と伊滝はこぼした。多分に伊滝の言葉が少ないのだと思うのだが。
それから、俺と伊滝は世間話をした。数学の課題とか単位とか近くある学校祭のことなど。
久しぶりの、会話らしい会話だった。相手の声や言葉に耳を傾け、自分の声と言葉を相手に届けるという行為。
それは、ある意味とても簡単で、こんなにも安心できることだったんだ。
「なぁ、伊滝」
「なに」
「俺の声は、届くと思うか」
伊滝は、とても不可思議な顔をして俺を見た。本当に「何言ってるか判らない」という顔だった。
「……アタシと話せてるんだから届くんじゃないの?」
アンタが思ってることも。っていうか何言ってるか判らないけれど。
伊滝はそこまで言うと、呆れたようにため息をついた。
「アンタ、電波?」
「いや、そういうんじゃ……」
「冗談よ、冗談。じゃアタシ、次の授業の単位マズイから行くわ」
伊滝は足を屋上の扉のほうに向けると、吸殻の入ったファンタの缶を持ったまま校舎の中に入っていった。
俺は、胸の中にぽっかりあいた何かが、急速に埋まっていくのを感じた。
満たされてゆく嬉しさ。
埋まっていくという虚しさ。
キャップを開けた炭酸から、二酸化炭素がゆっくりと、しかし確実に抜けていくように。
本当は、最初から。
最初から分かっていたのかもしれない。
俺は自分に酔ってるだけで、抱えていた不満とか受け入れて欲しいっていう思いとか全部、声にすれば済む感情だったって。
――最初から。
声を上げた。上げずにはいられなかった。
俺の中の怒りや憎しみなんてそんなものなんだと思い知らされた。
炭酸の中、ふつふつと浮かんでいるあの気泡と同じ程度のものなんだと。
泣いて、泣き尽くして。
脳内の常に静かな部分が、ひたひたと一つの何かが終わったことを、俺に知らせた。
「おはよう」
話さなくなってから二週間と一日。俺は裕也と昭一にしっかりと目を合わせて、そう言った。
二人は、一瞬の間の後、俺から目をそらすと、そのまま話し始めた。
そんなものかもしれない。
ただ、心のどこかでは、それでいいとも感じていた。声にすることができた。それだけで今は十分だった。
しかも、二人ともびっくりしたような顔で、俺を見ていた。それがどことなく笑える。
もう、話せないかもしれない。でも、これからは。
これからは。
話していくんだ。聞いていくんだ。怖がる、ことなく。
今の自分なら。
思いを言葉にする覚悟がある。
気持ちを受け容れる気合がある。
「おはよう」
「淕、おはよう」
昭一と裕也の声が、うしろから返ってきた。




