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とある夜会で、レギウス様は熟れた桃のような淡いピンクに色づいた唇の、上と下を離した。つまり、口を開けた。
彼にエスコートされながら、その明るい日差しのような茶髪にシャンデリアの煌めきが当たる様を楽しんでいた私は、きっと誰よりも早くレギウス様が口を開いたことに気づいただろう。
「婚約破棄だ、フローレンス」
夜会に響く大きな声で、彼はそう言った。簡単なことでは動じなくなった私も、さすがに少し瞠目してしまう。
あらあら、と頰に手を当て呟いた私は、彼の腕からするりと離れ、様々な人間の好奇の視線を一身に受けながらカーテシーをした。
「全てかしこまりました、レギウス様」
◇◇◇
初めてレギウス様と出会った日。その日はとても寒い日で。だからという訳ではないが、私は紺色のレースがいくえにも重なった温かいドレスを着て彼を出迎えた。
ほぉ……と真っ白な息を空に漂わせた、私と同じ程の身長しかない丸い頰を持つ彼は、にっこり笑った。
「はじめまして、フローレンスじょぉ」
『じょぉ』という言葉に目を見開く私に、かすかに頰を紅潮させて「噛んじゃった……」と彼は言った。十一歳の彼は、白い頬に朱をちらしている。
「……っ、レギウシュ様」
慌てて彼の名を呼んだ私も、釣られてか、噛んでしまった。
頰を赤くし、手をギュゥと握りしめる私の真っ赤な耳に、「くふふっ」と可笑しそうな声が響く。
白い息を途切れ途切れに出すレギウス様は、ニコニコ笑っていた。
「はじめまして、フローレンス嬢」
今度は、なにも詰まらなかった。
「はい。はじめまして、レギウス様」
それは私も。
そのまま私たちは日差しが降り注ぐ応接間でお茶をすることにした。私の両親と、レギウス様の両親は婚約を結ぶ為にいそいそと別の部屋に行ってしまった。
私は小さな山のように積まれたケーキたちを一心に見つめながら、ふと気づく。
「……メイドは来ないんですか?」
手元にあるティーカップに、紅茶は入っていない。真っ白なティーカップの底がつるりと光を反射している。
不思議に思う私に「メイドは来ないよ」と彼は返した。ますます訳が分からなくなって首を捻る私に、「僕が紅茶を淹れるんだ」と彼はにっこり笑った。
上手く言葉を咀嚼出来ず瞠目する私を放って、彼はティーポットを手に取った。丸みを帯びたティーポットを傾け、トポポ……ッと小さな音だけを響かせ彼は紅茶を淹れる。
その音の終わりと共に、私の目の前に紅葉を水に溶かしたような色彩を持つ紅茶が差し出された。
ゆらゆら、水面がゆっくり揺れている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ふふ、今日、君に美味しい紅茶を淹れられるかとても緊張していたんだよ」
己のティーカップにも紅茶を注ぐ彼の言葉に耳を傾けていると、私は一つ疑問が生まれた。
「あら、では今日噛んでしまったのって……」
紅茶を淹れる音が乱れた。彼は視線を彷徨わせる。
私が口に手を当て笑い声を漏らすと、観念したように「そうだよ。とても緊張していたんだ」と白状した。
「だって、とっても緊張したんだよ。君はとても可愛いから。こんなに可愛い子が僕の婚約者になるなんて、今でも信じられない」
ヒュ、と喉が詰まった。
「僕は茶髪なんていう平凡な髪の毛だから、君の真っ白な髪がとても羨ましいよ。雪うさぎのように可愛い。これからの季節は、フローレンス嬢が雪に埋もれて見失わないように気をつけないとだね。
それから、その赤い瞳もとても素敵だ。僕の一番好きな果物を知ってる? 真っ赤なチェリーだよ。僕の好きなチェリーの瞳を持つ女の子と結婚できるなんて、僕は果報者だ」
ドクン、ドクン。心臓が壊れてしまいそうな速さで脈打つ。
まだまだ話し足りなさそうな彼に私は「もう、やめてください……」と消え入りそうな声で私は言った。
――あの人の言葉が、レギウス様が発した言葉に被さるようにして再生される。
「フローレンス嬢……?」
カチャリとティーカップをソーサーに置いた彼が、席を立ちこちらに寄ってくる。
そしてレギウス様が手を伸ばした瞬間。男の手に私はもう自分が何処にいるのかすら分からなくなった。
「いやっ、いや……!」
めちゃくちゃに手を振る。服の袖のレースが踊るように揺れている。
「落ち着いてくれ、フローレンス嬢っ」
そんな彼の声は届かず。
私の手はティーカップに当たった。
ティーカップはゆっくり倒れテーブルに打ち付け、紅茶が飛び出る。「あ」と私はようやく正気になった。
私に紅茶を淹れるのは緊張した、とはにかんでいたレギウス様の笑顔が脳裏をよぎり、私は咄嗟に手を伸ばす。
だが、紅茶は私の指先を僅かに湿らせただけで、呆気なく床にこぼれていく。
もう紅茶はぬるかったのか熱くはなかった。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
必死に謝る私の手を、側に来たレギウス様が優しく包み、そして目を開いた。
――以降、レギウス様は必要なこと以外は喋らなくなった。
だからお互い十五歳になった今では、私は婚約者に冷たくされている可哀想な令嬢と陰で言われている。