第5話 デート
ディナステスと文通を初めてから、既に季節が二つ移り変った。
冬の足音が間もなく聞こえてきそうな秋の朝、サリューツァはいつになく飾り立てられている。
何を隠そう、今日はデートなのである。
いつまで手紙のやりとりが続くのかと思い始めた頃、ディナステスの方からデートの誘いをしてくれたのだった。
今日のために、大急ぎで仕立てたワンピースはサリューツァによく似合っていた。前髪は邪魔にならないように編み上げてリボンでまとめる。
「変じゃないかしら」
「もちろんですとも! ……一応、昆虫伯さまが無事にお嬢様の前に立てるまでは目を瞑っていた方がいいかもしれないくらいに可愛らしいです」
「そ、そうね、少し目を伏せておくことにするわ」
大丈夫になったはずだと手紙にはあったが、直接会うのは久しぶりのことである。実際自分を目にしたら、またカブトムシの姿になってしまう可能性もゼロではないのではないだろうか。
そんな心配を表に出さぬよう玄関ホールに降りていくと、父親と談笑するディナステスは色付き眼鏡を掛けていた。
「ディナステス様、ご無沙汰しております。本日はお誘い頂きありがとうございました」
「……今日の貴女も非常に美しい。貴女を直視できない私を許してくれ。次に会う時は、何を隔てることもなく貴女をこの目に映すと誓う」
「は、はい。あの……その眼鏡、とてもお似合いですわ」
少しだけ透けて見える眼鏡の向こうの瞳は、一瞬サリューツァを見てすぐに斜め上へと逸らされた。
眼鏡越しであればサリューツァを見ることができるというよりは、サリューツァを真っ直ぐ見つめていないことがバレないようにするための物なのだ。
口には出さなかったけれど、サリューツァはそう思った。そして同時に、胸にチクリとした痛みを感じた。
ただ、サリューツァは胸の痛みの理由について深く考えることはなかった。眼鏡を掛けたディナステスは、以前会った時よりも数倍の色気を放っていたからだ。
彼はサリューツァの顔から少しズレた場所を見ていたから、逆にサリューツァは気兼ねなく彼の顔を見つめることができた。
(すごく、格好良い……)
何度か見たはずのディナステスの顔はほとんどカブトムシに支配されていて、ぼんやりと整った顔立ちだったという記憶しかなく。
今こうして至近距離で見てみると、自分より父に近い年齢だとは思えないほどに素敵だった。
エスコートのために差し出される腕も、自分の歩幅や歩く速さに合わせてくれるところも、低く響く声も、何もかもがサリューツァの心をときめかせた。
カブトムシにさえならなければ。
そう思う度、ディナステスのアイデンティティを否定していることになるのだと胸が苦しくなった。
手紙やりとりを経て、ディナステスの誠実な人柄は良く分かっている。ディナステスがいれば、他の虫が寄ってくることもない。そして今、外見や自分への思いやりまでもが彼を理想の男性だと言っている。
唯一、誰にもどうすることもできないカブトムシの虫人という事実だけが、サリューツァの目の前に立ちはだかるのだった。
ディナステスのお陰で一匹の虫とも遭遇しないまま、人気のカフェへとやってきた。
王都を流れる川沿いの道にあるカフェはテラス席が特に人気で、ディナステスが予約していたらしい席へと案内された。
天気がよく、太陽の光がキラキラと川面に反射して美しかった。暖かな陽射しのお陰で、少し冷たくなってきた風も心地良く感じる陽気だった。
オススメだという季節のタルトとチョコレートムースで悩んでいると、どちらも頼めばいいと微笑まれる。
もう顔を見ても大丈夫なのかと思えば、やはり少しだけ視線は交わらなかった。
サリューツァの前に二つのケーキと紅茶、ディナステスの前にコーヒーが並び、お言葉に甘えて贅沢にも二種類のケーキを味わうことにした。
柑橘類とブドウが、濃厚なカスタードの上を綺麗に彩っている。甘みと酸味のバランスが丁度よく、タルト生地はバターの風味がしっかりと感じられてとても美味しかった。
チョコレートムースは舌触りがとても良く、甘すぎないために何個でも食べられそうなくらいだった。
(こんなに優雅に、何も気にせず外でケーキが食べられるなんて)
顔を綻ばせてケーキを楽しむサリューツァを庇うように、突然ディナステスが立ち上がる。
何事かとフォークを置くと、ディナステスの大きな背中の向こうから、少し高めの男性の声が聞こえてきた。
「これはこれはトリュトムス伯爵殿。極上の花を独り占めとは」
「ルカヌス伯爵……人聞きの悪い」
「そうかな? 独り占めでないと言うのなら、紹介してくれないか」
ディナステスが背後のサリューツァにチラと視線を向け、話を聞いていたサリューツァは椅子から立ち上がる。
少し立ち位置をずらしてくれたディナステスの向こうには、サリューツァよりやや歳上に見える男性が一人立っていた。
ウェーブがかった焦茶色の髪から覗く垂れ目と、左目の外側にある泣きぼくろがやけに目を引く美しい男性は、サリューツァの名乗りを聞くと流れるように跪いた。
「私はケルルティ・ルカヌス。美しき貴女の手に口付けることをお許しいただけますか?」
思わずたじろいだサリューツァを守るように、ディナステスが立ち塞がる。溜息を吐いて立ち上がったケルルティは、手袋を外してディナステスの胸元へと投げ付けた。
「君のことは前々から気に食わなかったんだ。いい機会じゃないか、決闘で勝負しろ」
「いいだろう……。すまない、サリューツァ嬢。今迎えを呼ぶ」
「ディナステス様、大丈夫ですわ」
侍女に指示を出そうとするディナステスを、思わず止める。彼らの言う決闘が生易しいものではないことは感じ取れるが、確実に自分の存在がキッカケとなっているのである。
行く末を見届けない訳には行かなかった。
「私にも立ち会わせてください」
その言葉を聞いて少し考え込んだディナステスは、サリューツァの耳元へ唇を寄せて小さな声で囁いた。
「決闘は、虫の姿で行うが」
「えっ」
しかし、もう覚悟は決めたのだ。
サリューツァは力強く頷いた。
「大丈夫です!」
そうして、決闘の場として決まった郊外の草原へと移動することになったのだった。