第2話 直接の謝罪
目を開けると、自分の部屋だった。
初めて大勢の前に出たのに虫に追い掛けられたアレは、全部夢だったのかと思う。ぼんやりしたまま天井を見上げていると、夢ではないぞと教えるように記憶が蘇ってきた。
男性が巨大なカブトムシになるシーンまで脳内再生されたところで鳥肌がぶわりと立って、私は悲鳴を上げながら勢いよく起き上がった。
「お嬢様! 大丈夫ですか?!」
侍女のクォーツが駆け寄ってくる。グラスを差し出され、冷たい水で喉を潤すと気持ちが少し落ち着いた。
「わたくし、パーティ会場で……」
「お倒れになったとか! 昆虫伯様がお送りくださったんですよ」
「昆虫、伯……さま?」
「えぇ、旦那様ともお仕事を一緒にしてらっしゃって、どんな面倒な仕事でもあっという間に、しかも完璧に仕上げてしまうと有名なお方です。とっても優秀でいらっしゃるし、虫人の中でも一番お強いカブトムシ種なのに、未だに独身なんですよ!」
「そう……なの……」
私を虫の大群から救ってくれたあの方がカブトムシになったのは、やはり夢でも勘違いでもなかったのだ。いくら虫が苦手とはいえ、助けてくださったのに失礼なことをしてしまった。私は寝巻きからドレスに着替えると、父の書斎へと向かった。
「サリューツァ、もう平気なのかい」
「はい、お父様。申し訳ありません……家の評判を落とすようなことを」
「何を言う、サリューツァの頑張りを笑うような者にどう思われようと関係ないさ」
「それと、あの、昆虫伯、様にも……」
「ああ! ディナスのやつ、あんな顔もするんだとおかしかったよ。トリュトムス家の馬車にお前を乗せてすっ飛んで帰ってくるんだから。虫に襲われていたお前の前で、自らが昆虫形態になってしまうとはってものすごく反省していた。多分近日中に謝りに来るはずだ」
「あ、謝りにだなんて……! わたくしこそ助けてくれた方に失礼なことをしてしまいました……」
父が言うには、昆虫伯爵であるディナステス・トリュトムス様は完全な人間形態になれる数少ない方なのだそうだ。王都には数多くの亜人が暮らしているけれど、ほとんどがその身体に本来の姿の特徴を残している。
「あいつはとても不器用なやつなんだ。あー……その、なんだ、まずは話を聞いてやってほしい。私は口出しをするつもりはないから、相談事があればおばあさまにするといい」
父が珍しく歯切れの悪いことを言う。おばあさまというのは花人であるカレンおばあさまのことで、昔から私の相談相手だった。花人の寿命は長いため、おばあさまだけでなく更に上の方々もいるのだけれど、それでも私ほどの香りを放つ人はいなかったので、結局私に一番近いおばあさまが面倒を見ることに決まったのだと言っていた。
パーティ会場で失敗してしまったから、またおばあさまのところに戻って特訓を……と思っていると、父がゴホンと咳をした。
「今は制御できているんだろう? あそこに戻る必要はないよ」
「ですが……!」
「せっかく一緒に暮らせるようになったのに、またすぐ離れ離れなんて寂しいことを言わないでおくれ。それに、私が言う相談事というのは力の制御のことではないんだ……もっと、まぁ時が来れば分かる。さ、今日はゆっくり休みなさい」
花人たちの住まう森の中に建つおばあさまの屋敷。虫を完全に遮断した区画で産まれてからのほとんどを過ごした私は、王都の屋敷で暮らす父と、父を手伝う兄とはずっと離れ離れだった。母は森と王都を行ったり来たりしていて、母から聞く二人の話と、二人から頻繁に届く手紙が心の支えだった。
私も、家族四人で暮らしたい。私は父に頭を下げると、自室に戻った。食事はあまり喉を通らず、入浴するとすぐに眠気に襲われた。考えなくてはならないことも、やらなくてはならないこともたくさんあるのに、何もかもやる気にならなくて、全てを明日の私に託し、眠気に逆らうことをやめるのだった。
翌日、ディナステス伯爵から大きな花束が届いた。パーティに出た時に着ていたドレスの色を思わせる黄色とオレンジの花をメインにした花束は、クォーツの手によって私の部屋に綺麗に飾られた。
花束には手紙が添えてあって、そこには謝罪の言葉と、直接お詫びがしたい旨、そして訪問の日取りの相談が書かれている。父と相談して日取りを決め、私からも謝罪の言葉と共に返事を送った。
そして約束の日、銀糸の刺繍が豪奢な濃紺のウエストコートに身を包み、真っ赤な薔薇の花束を抱えたディナステス様が玄関をくぐり尋ねてきた。父と母がディナステス様を迎え入れ、私の方を示す。
私を見つめる視線に籠る熱は、たぶん、気のせいではない。数秒、時が止まった感覚に陥って、そしてディナステス様がこちらへ一歩踏み出した瞬間、彼の姿が消えた。
否、ディナステス様はまた、カブトムシになっていた。
「っくそ、また……」
焦る声がした後、ディナステス様が人間に戻る。しかし完全にこちらに背を向けていて、大きな花束は母の手に渡った。
「大変申し訳ない。今のままでは貴女に近付くこともできない……この姿で貴女と並び立てるようになるまでは、せめて手紙のやり取りをしてはもらえないだろうか」
「えっ?」
「もちろん、無理強いは……」
「だ、大丈夫です! お手紙でしたら、喜んで!」
正直、カブトムシの姿が一瞬目に入ってしまったことで私の身体は震えていた。叫ばなかった自分を褒めたいくらいだった。
今直接話すのは、カブトムシの姿がチラついてしまう気がする。平静を装うのは確実に無理だろう。だから文通の申し出はとてもありがたかった。
私の返事を聞いて、ディナステス様は屋敷を後にした。
翌朝すぐに届いた彼からの手紙を読んだ私は、父の言葉の意味を知ることになるのだった。