第1話 衝撃の出逢い
「サリューツァ、時間はまだあるのだし、今日無理をせずともよいのだよ」
お父様の言葉に首を振り、ずっと先延ばしにしてきた社交界デビューをすると決めたのは自分自身だ。今までずっと頑張ってきたのだし、何とかなると思っていた。
けれどその考えは甘すぎて、私は淑女らしからぬ悲鳴を上げてパーティ会場から逃げ出すこととなった。
ああ、お父様の言う通り、私にはまだ早かったのだ。
大量の虫に追い掛けられ、私、サリューツァ・ナルモルグは中庭を逃げ惑っていた。
初めは蝶だった。それから蜂が増え、蛾が、アブが、カミキリムシやカマキリまでもが至る所から現れ、この庭園にいる全ての虫たちが私に群がってくる。
元々、母方の祖母がカサブランカの花人であった。花人の血筋は祖母の家系だけで、祖父も母も、父の家系もみな人間だったのだが、私は先祖返りという突然変異で、祖母を越える力を持って産まれてしまったらしかった。
幼い頃は己から香る蜜の香りなどコントロール出来るはずもなく、少し目を離すだけで虫に覆われてしまう赤子であったそうだ。
そのため、私はずっと虫の入り込まない屋内で育てられてきた。同年代のご令嬢たちが社交デビューをし始めてもコントロールは上手く出来ず、私のデビューは見送られた。外に出るなりすぐにとんでもない量の虫が寄ってきてしまうのだ。自分の心を落ち着かせ、自分の存在感を極限まで薄めて、そうしてようやく家の庭に出られるようになった。
少しの遠出も出来るようになり、自信が付いた私は社交界デビューを父に願った。父はこの国の宰相をつとめていたから、国王陛下が参加者を絞った小さなガーデンパーティを催してくださったのだ。
陛下にお目通りし、挨拶をするまではよかった。緊張はしていたけれど、何とか自分を律していられた。
しかし、ガーデンパーティの会場に足を踏み入れた瞬間、参加者から注がれた視線を浴びた途端、私は集中力を途切れさせてしまったのだった。
他者からの好奇の目が、こんなにも突き刺さるものだとは思っていなかった。先んじて社交界デビューしていた、かつて交流のあった令嬢たちも、私の方を見てクスクスと笑っている。
虫が恐くて家から出られない臆病な令嬢。そんな前評判のある私を値踏みするような視線に晒され、固まった私の目の前に、ヒラリと蝶が舞い降りた。
「ひっ……!」
蝶が私の手に止まろうとするのを見て、悲鳴を上げて手を引っ込める。そんなことをしているうちに、既に周辺から何匹もの蝶が集まってきているのが見えた。
「いやっ!」
私に突撃でもしてくるみたいな蜜蜂を避け、その拍子に階段を二段ほど踏み外して転ぶ。痛みよりも先に羽音が耳に飛び込んできて、もう何も考えられなくなった。
「いやぁっ!」
「サリューツァ!」
血の滲む足も気にせず、汚れたドレスも無視して、私はパーティ会場から逃げ出した。本当は建物の中に入ればよかったのだけれど、後ろに立っていた付き添いの叔母が顔を顰めているのが目に入り、誰もいない方へと逃げてしまったのだ。
少し走って、それが間違いだったと悟った。向かう先は緑の多い中庭。咲き誇る花々に集まっていた虫たちが、私をターゲットにしたのが分かる。
(ああ! わたくしの馬鹿……!)
息を切らせて逃げるけれど、そこまで激しい運動をしたことなどないのだ。すぐに疲れてスピードが落ちてしまう。喉が痛くて、頭がクラクラした。ふらついた足の先に大きめの石があり、それにつまずいて転んでしまった私を、無数の虫たちが取り囲んだ。
「きゃああああぁぁっ! 誰か、誰か助けて……っ!」
両手をばたつかせて必死に抵抗するけれど、小さな虫たちには何の意味もない。綺麗に編み込んだ金色の髪は解れ、涙が出てくる。
どうしたらいいのか分からない。もう、死んでしまうのかも。
「何をしている」
耳障りの良いバリトンボイスが聞こえた瞬間、私の周りにいた虫たちが一斉に動きを止めた。何が起こったのか分からず、私も呆然として声のした方を見る。
金糸の刺繍で彩られた濃い緑のウエストコートを着こなす、父より少し若いくらいの男性が、私の方へと駆け寄って来ていた。彼が鋭い視線でこちらを睨みつけながら右手を払うような仕草をすると、虫たちは四方八方へ逃げるように去っていく。
私に集まってきた虫たちを追い払うのにメイドが数人がかりで奮闘する様を知っている私は、軽い仕草ひとつで虫を追い払った彼のことが信じられなかった。
まるで魔法を使ったみたいだと、そう思った。
「大丈夫ですか、レディ。この庭の虫たちは温厚で、普段はあんなことをするようなものたちではないんだが……」
「いえ、わたくしがいけないのです……本当に助かりました。何とお礼を申し上げたらいいか……」
白い手袋を嵌めた手が差し出され、私は申し訳なく思いつつその手を取った。ゆっくり立ち上がり彼を見上げると、乱れた前髪の隙間からピンク色の瞳と視線が交わった。
ボンッ
「えっ?」
堅実に歳を重ねた深みのある整った顔が見えたと思った瞬間、大きな音がして握っていた手の感覚がなくなる。見上げていたはずの男性の姿が見えなくなったかと思うと、私と同じくらいの身長をしたカブトムシが、そこに、立っていた。
「きゃああああああああああああああっ!!」
「す、すまない! レディ!」
カブトムシから、彼の声がする。焦げ茶色に光る身体が生々しく蠢きき、私は意識を手放したのだった。
私が虫大嫌いなのに超虫に好かれるって話をしたら、異世界恋愛の溺愛ものじゃんと言われ、気が付いたら書いてました。
何やってんだ??