第52話『勇気を出して』
5月27日、月曜日。
午前7時50分。
午前8時に洲中駅の南口で千弦と星野さんと待ち合わせをするため、いつもよりも少し早めのこの時間に家を出発する。
今日も朝からよく晴れており、今も雲がほとんどない綺麗な青空が広がっている。あと数日で季節が夏になるだけあって、朝でも日差しを直接浴びるとなかなか暑いな。歩いている中で、ワイシャツの袖を肘の近くまで捲った。
数分ほど歩くと洲中駅が見えてきた。いつもなら学校に向かって歩いていくけど、今日は駅の方へ向かう。
登校中に洲中駅の方を見ることはあるけど、こうして洲中駅に行くことは全然ないので新鮮だ。
洲中駅の南口からはうちの高校の制服を着た人や、スーツ姿やフォーマルな雰囲気の服装の社会人がたくさん出てくる。南口の周辺にはオフィスビルがいくつもあるからな。
「洋平!」
「白石君!」
駅の方から千弦と星野さんの声が聞こえたので、そちらを見てみると……南口から千弦と星野さんが笑顔でこちらに手を振っていた。千弦の笑顔は落ち着いたものだから……今は王子様モードか。
千弦と星野さんに手を振りながら2人のところまで向かった。
「千弦、星野さん、おはよう」
「おはよう、洋平」
「おはよう、白石君」
「今日も洋平はすぐに見つけられたよ」
「ははっ、そっか」
そういえば、初めて千弦の家に行ったときもここで待ち合わせして、千弦の方が先に来ていて、千弦は俺のことをすぐに見つけられたって言っていたっけ。
「じゃあ、学校に行くか」
「そうだね、洋平」
「行こう」
俺達は学校に向かって歩き始める。
こうやって、誰かと駅前で待ち合わせして学校へ行くことは全然ないから、駅から学校に向かって歩くのは新鮮だな。友達になってから、千弦と星野さんと一緒に歩くことは増えたけど、学校に向かって歩くのも初めてだし。友達になった直後に、昇降口で2人と会って3人で一緒に教室へ行ったことはあるけど。
「そういえば、洋平と一緒に登校するのはこれが初めてかな」
「そうだね、千弦ちゃん。昇降口で会って、そこから教室に行ったことはあるけど」
「そうだな。……俺も同じことを考えていたよ」
「ふふっ、そうだったんだ」
「これが初めてだなんて、ちょっと意外」
「そうだね、彩葉」
と、3人の中で笑いが生まれる。千弦も笑顔になっているし、これで少しは緊張が解けただろうか。
少し歩くと、周りにいる人達の多くが洲中高校の生徒になる。王子様と呼ばれるほどに人気な千弦と、とても可愛らしい雰囲気の星野さんと一緒だから、男女問わず生徒達からの視線が集まって。2人と一緒に「変人」「シスコン」と称される俺がいるのも、視線が集まる理由の一つかな。ただ、千弦が素を明かしたら、こういった状況も変わるかもしれない。
校門を通り、教室A棟の中に入っていく。
「緊張してきた……」
と、千弦は小さな声でそう漏らす。千弦の表情が硬くなっていて。教室に入るタイミングで千弦は素を明かす予定だ。だから、校舎の中に入り、そのときが近づいてきたと感じているのだろう。
「緊張……するよな」
「自分のことを話すんだもんね。ただ、私と白石君が側にいるからね」
「……うん」
千弦は俺達のことを見て、微笑みながら頷いた。こういう反応ができるのだから、きっと千弦ならみんなに素を明かせるだろう。
昇降口で上履きに履き替え、階段を使って2年3組の教室がある4階まで上がっていく。ただ、上がる速度はこれまでよりもゆっくりだった。
4階に上がり、2年3組の教室の前まで辿り着いたところで、俺達は一旦立ち止まった。
教室の前まで来たのもあってか、千弦はさっきよりも緊張している様子に。数年間、ごく一部の人にしか教えなかった素を明かすんだもんな。
千弦は何回か長めに呼吸をして、息を整えている。
「千弦ちゃん……」
少しでも緊張を和らげるためだろうか。星野さんは千弦の頭をポンポンと優しく叩く。その直後に、俺も千弦の頭を優しく叩いた。それもあってか、千弦の表情が少し和らいだ。
「……よし。行こう、彩葉ちゃん、洋平君」
星野さんと俺のことを見ながら、千弦はそう言った。可愛らしい声色になっているし、俺達の呼び方も素のモードに戻っている。準備完了って感じかな。
俺達3人は一度頷き合って、後方の扉から教室の中に入る。
「おっ、洋平達が来たぜ」
「本当だ。珍しく千弦と彩葉が一緒だね。3人ともおはよう!」
「千弦、彩葉、白石、みんなおはよう」
「おはようだぜ!」
琢磨の席の周りで談笑していた琢磨、吉岡さん、神崎さんがこちらに向かって快活な笑顔で朝の挨拶をしてくれる。それもあって、俺達の友人を中心に、教室にいる生徒の多くが俺達に向かって挨拶してくれた。今日は千弦と星野さんと一緒だから、いつもよりもたくさんの生徒から挨拶されたな。
「みんなおはよう」
「おはよう、みんな」
俺、星野さんが朝の挨拶をする。そして、
「……み、みんなおはよう!」
千弦も続いて挨拶した。もちろん、素のモードの高くて可愛らしい声色で。ただ、緊張しているのか、声がいつもよりもちょっと大きく一度噛んでしまった。やってしまったと思ったのか、千弦はほんのりと赤くしてちょっと恥ずかしそうにしている。こういった姿を学校では全然見たことないな。
これまでの中性的な雰囲気とは違うからか、神崎さんを含め一部の生徒は目を見開きながら千弦を見ていた。
「えっと……千弦よね? 何だか、今までとは雰囲気が全然違う気がするんだけど……」
神崎さんが俺達の近くまでやってきて、千弦に向かってそう問いかける。口元は笑っているけど、どこか戸惑った様子で。千弦と一緒にいることの多い友達だし、神崎さんがそんな反応を見せるのは自然なことだろう。
ただ、素のことについて話し始めるのにはいいきっかけだ。俺と同じことを思ったのか、星野さんは千弦の背中をポンポンと優しく叩いた。
勇気が出たようで、千弦は真剣な様子になって神崎さんのことを見る。
「うん、千弦だよ。ただ、これまで玲央ちゃんに見せてきた雰囲気と違って見えるよね」
「玲央、ちゃん……?」
「呼び方も……違うね。……みんなに話したいことがあるの。私のことでとても大事なことを」
さっき、おはようと言ったときと同じくらいの大きな声で千弦はそう言う。そのことで、教室にいるほとんどの生徒がこちらを向いてくる。
千弦は一度、深呼吸する。
「みんながこれまで見てきたり接してきたりした中性的な雰囲気で、凛々しくて、王子様って言われるような私は……全て演技です。本当の私は今の……怖がりな部分もある普通の女の子です」
教室にいる生徒のことを見渡しながら、千弦は真剣な様子でそう話す。そんな千弦を見て、千弦が俺に素の自分を明かしてくれたときのことを思い出した。
千弦が言った内容が衝撃的なのか、教室の中はざわつき始める。
「福岡の小学校に通っていた頃に嫌なことがあって。それがトラウマで、素を出すのが怖くなって。洲中に来てからずっと、外では素とは真逆の中性的な雰囲気を演じてきました。ただ、演じたのは雰囲気や立ち振る舞いだけで、みんなと過ごしてきた時間が楽しかった気持ちは本当です」
福岡の小学校での出来事についてはざっくりしているけど、今語った内容は俺に素を明かしてくれたときと同じだ。それもあって、ざわつく中でもよどみなく話せている。
千弦が真剣に話しているのもあり、琢磨と吉岡さんと神崎さんはもちろんのこと、教室にいる多くの生徒が真剣に聞いているように見える。
「つい最近、洋平君に素の私を教えて。そのことで洋平君とより仲良くなれて。普段から素で接すれば……みんなともっと仲良くできるかな。もっと楽しい学校生活を送れるかな。怖さもあるけど、みんなと今まで以上に楽しい日々を過ごしたくて、勇気を出して……言いました」
怖さもあると言っているけど、千弦の話す声や真剣な眼差しは力強い。
「これからは王子様ではなく、素で過ごしていきます。みんなが知っている王子様な私とは全然違います。もし、こんな私で良かったら……これからも仲良くしてくれると嬉しいです。私から話したいことは以上です。話を聞いてくれてありがとうございました」
千弦は深々と頭を下げた。
今まで見せてきた中性的な雰囲気な立ち振る舞いは演技で、素は真逆だった。それを話した直後はざわついていたけど、千弦が王子様を演じた理由や明かそうと考えた理由などを真剣な様子で話し続けたのもあり、今は教室の中が静寂に包まれている。
「頑張ってよく言ったね、千弦ちゃん」
「千弦、頑張ったな」
星野さんと俺がそう声を掛けると、千弦はゆっくりと顔を上げて、
「2人が側にいてくれたからだよ。ありがとう」
俺達に嬉しそうな笑顔を向けながらお礼を言ってくれた。
「雰囲気や立ち振る舞いは全然違うけど、千弦ちゃんが素敵な女の子なのは変わりないよ。私からもよろしくお願いします」
星野さんはいつもの優しい笑顔でそう言った。親友だからこそできるとてもいいフォローだと思う。
俺も千弦の素を事前に知っている友人として、千弦をフォローしよう。
「千弦は学校に着いたときや、教室の前でも緊張してた。きっと、怖さもあったと思う。千弦は勇気を出して、洲中に引っ越してきてから数年伏せてきた素の自分をみんな見せたんだってことを理解してもらえると嬉しい。星野さんの言う通り、素の千弦も素敵な女の子だ。王子様な雰囲気と全然違うから戸惑いもあるかもしれない。ただ、素の千弦とも仲良くしてくれたら、友人の俺も嬉しい。俺からもよろしくお願いします」
みんなのことを見ながらそう話し、俺は頭を下げた。これが少しでも千弦のためになれたいいけれど。何かあったときにはこれからも千弦をフォローしていくつもりだ。
「素の千弦、あたしは可愛くて凄くいいと思うよ!」
そう言ったのは……吉岡さんだった。
俺がゆっくりと頭を上げると、吉岡さんは千弦のすぐ近くまで来ており、いつもの明るい笑顔で千弦を見つめている。
「俺もいいと思うぜ」
自分の席から見ている琢磨も、持ち前の明るく朗らかな笑顔でそう言い、俺達に向かって右手でサムズアップする。
「これからもよろしくね、千弦!」
「……うんっ!」
吉岡さんの明るくて優しい言葉に、千弦はニッコリとした笑顔で返事した。その笑顔は素の千弦を象徴するような可愛らしいもので。
千弦が可愛い笑顔を見せたからだろうか。教室の中がわあっと盛り上がり、一気に明るい雰囲気になる。千弦の友達を中心に何人もの生徒が千弦のところにやってくる。
「王子様な千弦ちゃんはかっこいいけど、素の千弦ちゃんは凄く可愛いね!」
「まさに女の子って感じで可愛いよ! これからも友達としてよろしくね」
「これまで彩葉ちゃんと一緒にいるときの千弦ちゃんはちょっと可愛いと思っていたけど、きっとそれが素だったんだね!」
「王子様な藤原も良かったけど、素の藤原も可愛くていいぜ……」
などと、多くの生徒は千弦に笑顔を向けている。どうやら、素の千弦のことを受け入れてくれたようだ。良かった。そのことがとても嬉しいようで、千弦は可愛い笑顔で「ありがとう」と何度もお礼を言う。千弦の隣で星野さんは嬉しそうにしていて。
また、
「そっか。あれが素の千弦か……」
と、神崎さんは真顔で千弦のことを見ながらそう言う。演じたものと素は真逆の雰囲気だし、神崎さんは親友の星野さんの次に千弦と一緒にいることが多くて、仲良くしている。だから、素を知ったことの衝撃が大きかったり、戸惑いがあったりするのかもしれない。
また、神崎さんのように真顔だったり、複雑そうな表情で千弦を見ていたりする生徒は何人かいる。こういった反応になる人も当然いるよな。
千弦は素の可愛い笑顔で星野さんや吉岡さんをはじめとした生徒達と喋っている。王子様を演じるいきさつを聞いていたり、今日のこれまでの緊張した姿などを見ていたりしたので、今の光景を見てとても嬉しく思うよ。




