第42話『千弦はあいつが怖い』
昨日の学校で課題を出された教科は数学Ⅱ、数学B、古典、英語表現Ⅱの4教科。
千弦の希望で、不安のある数学Bを最初にやり、その後は数学Ⅱ、古典、英語表現Ⅱの順番で課題をしていくことに。また、1つの教科の課題が終わるごとに小休憩を入れることにした。
課題をしているとはいえお家デート中なのもあり、千弦のことを何度か見てしまう。今は素のモードだけど、課題に取り組む真剣な様子は中性的な雰囲気を演じているときとあまり変わらない。
あと、今はノースリーブの縦ニットを着ているから、制服姿よりも大人っぽくも感じられて。こういう姿も素敵だなと思う。
不安のある数学Bでは千弦から、
「ねえ、洋平君。この問4が分からなくて……」
「問4……ああ、等比数列の問題か。これは……」
と、質問してくることが何度かあって。ただ、基本的な内容はできているので、教科書やノートに書かれていることを基に教えていくと、千弦は理解してくれる。
千弦は俺の言ったことを真剣に聞き、式や解説をメモしていて。また、
「で、これが答えになるんだ」
「そういうことなんだね。理解できたよ。ありがとう、洋平君」
答えまで教えると、可愛い笑顔でお礼を言ってくれる。それらの姿は結菜と重なる部分があって。だから、千弦から分からないと質問されたときはしっかりと教えたいと思わせてくれる。
また、古典の課題では俺が分からない問題があった。なので、
「千弦。古典って得意?」
「うん、得意だよ」
「じゃあ、訊いてもいいかな。現代語訳の問題で分からないところがあってさ」
「もちろんいいよ!」
と、嬉しそうに俺の質問を訊いてくれた。それまでは千弦が俺に質問してばかりだったので、俺から質問されるのが嬉しかったのかもしれない。
千弦の教え方は上手で、さっきまで分からない問題についてしっかりと理解することができた。
「……よし。俺も古典の課題終わった」
「お疲れ様、洋平君」
数学Bと数学Ⅱの課題は俺の方が先に終わっていたけど、古典については千弦の方が先に終わったか。
「ありがとう。千弦が教えてくれたおかげで終わらせられたよ。さっきはありがとな」
「いえいえ」
「あと、古典は千弦が先だったな。教え方も分かりやすかったし、古典が得意なんだって実感した」
「ふふっ。国語と英語科目は結構得意だよ。あと、日本史とかも」
「そうなんだ。……俺は古典が苦手ではないんだけど、たまに詰まるときがあってさ。これから、古典で分からないときは千弦に訊こうかな」
「うんっ。いつでも訊いてね」
千弦は可愛い笑顔でそう言ってくれる。教え方も上手だし、教師になったら千弦は人気が出そうな気がする。
「じゃあ、少し休憩したら、最後の英語表現Ⅱの課題をやるか」
「そうだね。あと少しで終わりだね」
「ああ、そうだな」
英語表現Ⅱの課題は英訳や和訳のプリントだし、俺も英語は得意な方だからすぐに終わりそうだ。
マグカップに入っているアイスコーヒーを一口飲む。コーヒーが美味しいから疲れが取れていく。
「ひぃっ」
うん? 何だ、今の声は?
俺は声を出していないし、この部屋には俺と千弦しかいないので、千弦が声を出したことになる。千弦の方を見てみると……千弦の顔が青ざめていた。
「千弦、どうしたんだ? 顔色が良くないけど……」
こんな千弦、今まで見たことないぞ。いったい何があったんだ?
千弦は震えながら、右手の人差し指で俺の背後の方を指さす。千弦が指さす方向に体を向けると……本棚の近くの壁にゴキブリの姿が。結構大きいな。
「ゴキブリか。暖かくなってきたから出てきたのかな」
「……き、きっとそうだと思う。ちなみに、私の部屋で見つけたのは今年初めて」
「そっか。……あと、今の反応からして、千弦はゴキブリが苦手なのか?」
「う、うん。とっても苦手……きゃああっ!」
ゴキブリが動いた瞬間、千弦は大きな悲鳴を上げた。千弦の方を向くと、千弦はとても怖がった様子になっていて。だから、パークランドのお化け屋敷に行ったときのことを思い出した。
おそらく、嫌いなゴキブリが動いたのがとても怖かったのだろう。結菜もゴキブリが苦手で、動いたときには結構怖がっていたし。
「千弦。俺がゴキブリを退治するよ」
「洋平君、退治してくれるの?」
「ああ。俺、ゴキブリ平気だし。それに、うちでゴキブリが出たら退治するのは俺か父さんの役目だからな」
「そうなんだ。じゃあ、お願いします」
「ああ。ゴキブリを捕まえて外に出すよ」
「分かった。本棚の近くでも、ベッドの方でもどっちの窓からでも投げていいから」
「了解」
千弦が怖がっているゴキブリをさっさと捕まえて、窓から外に出してしまおう。
――コンコン。
『千弦! 悲鳴が聞こえたけど何があったの?』
『どうしたんだい?』
部屋の外から果穂さんと孝史さんがそう問いかけてくる。きっと、さっきの千弦の悲鳴が聞こえて駆けつけてきたのだろう。声だけだけど、千弦のことをとても心配していることが伝わってくる。
「ゴ、ゴキブリが出たの。結構大きいし、動いた姿を見たから叫んじゃって」
「俺はゴキブリが平気なので、これから俺がゴキブリを退治します」
『分かったわ。さあ、あなた。1階に戻りましょう。白石君に任せましょう』
食い気味にそう言う果穂さん。いつになく早口で。もしかしたら、果穂さんはゴキブリが苦手なのかも。結構大きいと千弦が言っていたし。
『そうだね。白石君がいれば安心かな』
「俺が何とかします」
『分かった。何事も……あったか。ゴキブリが出たからね。ただ、白石君がいれば安心だ。では、よろしくね』
『よろしくね!』
「分かりました」
孝史さんと果穂さんに頼まれたので責任重大だ。ここは千弦の部屋だし、迅速かつ丁寧にゴキブリ退治を遂行しなければ。
ゴキブリは平気だけど、さすがに素手で触れるほどの度胸はない。ティッシュ越しに掴んで出すか。ローテーブルの上にボックスティッシュがあるので、それを使うか。
「千弦。そのティッシュ、何枚か使うぞ」
「うん、いいよ」
俺はクッションから立ち上がり、ボックスからティッシュを2枚取り出す。そのティッシュを右手に乗せる。
ゴキブリの位置を確認すると……今も本棚の近くの壁にいるな。千弦を怖がらせるお前は一刻も早く外に出てもらおう。
ゴキブリが動いてしまわないように、ゴキブリにそっと近づいていく。
右手が届くところまで近づいたところで、
「それっ」
ゴキブリに向かって素早く右手を伸ばす。
右手を動かしたことで空気が流れ、それを感じ取ったのだろう。ゴキブリは再び動き始める。それを見てか、千弦は「きゃあっ」と声を上げる。
ただ、俺の右手の動きの方が早く、ゴキブリを捕まえることができた。ティッシュ越しに硬い感触や脚なのか動きを感じる。
「よし、捕まえた」
すぐ近くにある窓を開けると……こっちはお隣さんか。お隣さんに向かって投げるのは気が引けるな。そう思い、この窓は閉めた。
ベッドの近くにある窓を開けると……こちらは道路側か。こっちの方がいいな。今は人が歩いていないし。そう考え、俺は道路に向かってゴキブリを勢い良く投げる。ゴキブリが道路に落ちていくのを見届け、窓を閉めた。
「ゴキブリ、道路に投げた。もう大丈夫だぞ」
「ありがとう、洋平君」
部屋からゴキブリがいなくなったからか、千弦はとても嬉しそうな笑顔でお礼を言ってくれる。ゴキブリが本当に苦手なのだと分かる。
「いえいえ。無事に退治できて良かったよ」
「そうだね。洋平君、ゴキブリを見ても全然動じないし、すぐに退治するし。凄くかっこよかった!」
「ありがとう」
ゴキブリ退治が理由でも、千弦にかっこいいと言ってもらえるのは嬉しいものだ。
かっこいいと言うだけあってか、千弦はうっとりとした様子で俺を見ていて。そんな千弦がとても可愛い。
ゴキブリを掴んだティッシュをゴミ箱に捨てて、俺はさっきまで座っていたクッションに腰を下ろす。アイスコーヒーを一口飲むと……今日一番に美味しく感じられる。千弦の嫌いなゴキブリを退治して、千弦にかっこいいと言われたからだろうか。
「今日は洋平君がいてくれて良かった。これまで、友達と一緒にいるときにゴキブリが出ると、多くの子は私にゴキブリ退治を頼んでくるから……」
「……あの中性的で落ち着いた雰囲気だと、ゴキブリが平気だったり、退治してくれたりしそうに見えるもんな」
「うん。彩葉ちゃんも協力してくれるから何とか退治できてたよ……」
そのときのことを思い出しているのか、千弦は青白い顔で苦笑いしている。辛かったんだろうな。星野さんが協力してくれたのがせめてもの救いだな。これも、中性的で落ち着いた雰囲気を演じることの苦悩の一つなのかも。
「それは……大変だったな。まあ、2人きりのときでも、星野さん達とかがいるときでも、俺が一緒にいるときなら、俺がすぐに退治するから。安心して」
「うんっ」
千弦はとても可愛い声で返事をして、ニコッと笑ってくれる。その笑顔がとても可愛くて、ちょっとキュンとなった。
千弦はアイスコーヒーを一口飲む。コーヒーの冷たさや苦味があってか、千弦は落ち着いた様子になる。
「……古典の課題が終わってから10分くらい経つけど、そろそろ英語の課題やる? それとも、もうちょっと休む? 洋平君はゴキブリ退治のために素早く動くこともあったし」
「ははっ。一瞬のことだったし、すぐに捕まえられたから疲れはないよ。やるか」
「うん。残り1科目頑張ろうね」
「ああ。頑張ろう」
残りの科目である英語表現Ⅱの課題のプリントとノートを取り出し、千弦と一緒に課題をしていくのであった。