第41話『千弦とお家デート』
5月11日、土曜日。
4連休明けで今週は火曜日からのスタートだったし、水曜日は体調不良で学校を欠席した。だから、今週はかなり早く過ぎ去った感覚がある。
午後1時40分。
俺は大きめのトートバッグを持って家を出発する。
これから千弦の家に行き、千弦と2人で昨日の授業で出た課題を一緒にすることになっている。午前中にLIMEの千弦と星野さんと俺のグループトークに、
『午後に、私の家で一緒に課題をしませんか?』
と、お誘いのメッセージが来たのだ。千弦は休日に星野さんなど友達と一緒に課題をすることが結構あるのだという。ゴールデンウィークの後半の4連休では、千弦は課題をするために星野さんなどと一緒に俺のバイト先であるゾソールに来ていた。
俺はバイトがないので、金曜日の授業で出た課題は元々今日やるつもりでいた。なので、俺は一緒やろうとメッセージを送った。
ただ、星野さんは、
『ごめんね。私は不参加で。明日の母の日に向けて、お母さんにプレゼントするお菓子やスイーツを色々と作りたいの』
と、不参加を表明した。それにより、千弦と2人で課題をすることが決まったのだ。午後2時に千弦の家に伺う予定なので、この時間に家を出発した。
「昼過ぎだし、日差しを浴びると暑いな……」
しかも、歩いているから、歩く中で段々と暑くなっていく。今は長袖のワイシャツを着ているけど、袖を捲った方がいいな。そう考え、袖を肘の近くまで捲った。
「これでいいな」
半袖のような感じになったので、暑さが和らいだ。柔らかく吹く風が体に当たって涼しい。これなら、快適に千弦の家まで行けそうだ。
数分ほど歩くと洲中駅が見えてくる。土曜日のお昼過ぎだし、いい天気だから人の往来が激しい。結構暖かいのもあり、俺のように服の袖を捲っている人や半袖の人、女性だとノースリーブの服の人も見受けられる。暑さもそうだけど、服装からも季節の進みを実感する。
洲中駅の構内を通り、千弦の家がある駅の北側に。最近は千弦の家へ遊びに行ったり、猫カフェに行ったりもしたので、北側の光景にも慣れてきた。
千弦の家に行くのはこれで3回目なので、1人でも迷いなく千弦の家の前まで行くことができた。
今は1時50分過ぎか。約束の時間まであと10分近くあるけど、このくらいなら家にお邪魔しても大丈夫そうか。そう考えて、玄関の近くにあるインターホンを鳴らした。
――ピンポー。
『はい。……あっ、洋平君』
インターホンの音が鳴り終わる前に千弦が応答してくれた。約束の時間が近いから待ち構えていたのだろうか。そうだとしたら可愛いな。あと、インターホンを鳴らしたのが俺だと分かったからか、千弦は素のモードになっている。
「洋平です」
『うんっ。待ってたよ。すぐに行くね』
千弦は可愛い声でそう返事をしてくれた。
家の中から足音が聞こえてくる。きっと、この足音の主は千弦だろう。そう思いながら千弦を待っていると、
「お待たせ、洋平君」
玄関の扉が開き、中からは千弦が出てきた。千弦は膝よりも少し長めのスカートに、ノースリーブの縦ニットという格好だ。俺と目が合うと、千弦はニコッと可愛らしい笑顔を見せてくれる。服も似合っているし、本当に女の子らしい。
「こんにちは、千弦」
「こんにちは。今日は私のお誘いを受けてくれてありがとう」
「いえいえ。元々、課題は今日やろうと思っていたから。誘ってくれてありがとう」
「いえいえ。さあ、入って」
「お邪魔します」
俺は千弦の家にお邪魔する。
「今日の服も似合ってるな。可愛いよ」
「ありがとう。洋平君にそう言ってもらえて嬉しいよ」
えへへっ、と千弦は嬉しそうに笑っている。可愛いな。こういう反応をするのも素の千弦だからなのだろう。もし、中性的な雰囲気を演じているときだったら、落ち着いた笑顔か爽やかな笑顔を見せていたのかな。
「今日は晴れて暖かくなる予報だから、ノースリーブの服を着てみたの。結構快適だよ」
「そっか。ノースリーブで良かったと思うぞ。俺、長袖のワイシャツを着ているけど、歩いていたら暑くてさ。袖を肘の近くまで捲ったんだ」
「ふふっ、そうだったんだ。ただ、そのワイシャツ……よく似合っているよ。かっこいいよ。腕を捲っているのもいいなって思う」
「ありがとう。そう言ってもらえると、長袖で良かったなって思うよ」
「ふふっ。……部屋に行く前にリビングに来てくれる?」
「いいよ」
「ありがとう。今日、洋平君がうちに来るって伝えたら、お母さんとお父さんが洋平君に会いたいって。素の私のことを洋平君に話したからね。受け入れてくれたって言ったら、お母さんもお父さんも『良かった』って言っていて。次に洋平君がうちに来たときにお礼を言いたいって話していたから」
「なるほどな。分かった」
福岡の小学校に通っていた頃に遭った辛い経験が原因で、洲中に引っ越してきてからはごく僅かの人にしか素を明かしていなかった。だから、その素を受け入れたことについて、親として俺にお礼を言いたいのだろう。
千弦が用意してくれたスリッパを履いて、俺は千弦の案内でリビングに向かう。
リビングに入ると、果穂さんと孝史さんはソファーに隣同士に座って談笑していた。お二人を見ていると、うちの両親に負けないくらいに仲良く見える。
「お母さん、お父さん、洋平君が来たよ」
「こんにちは」
「いらっしゃい、白石君」
「いらっしゃい」
孝史さんと果穂さんは俺に挨拶すると、ソファーから立ち上がって俺の近くまでやってくる。
「千弦から聞きました。素の千弦のことでお礼を言いたいと」
「ああ。一昨日、千弦から素の自分について話されて、それを受け入れてくれたと」
「そのことを千弦が嬉しそうに話してくれたわ。緊張したけど、白石君に話してみて良かったって」
「そうでしたか」
そう言われて、一昨日の放課後のことを思い出す。素のことを話す直前、千弦は緊張した様子だった。ただ、素の千弦を肯定するとか千弦を支えると俺が言ってからは、千弦はとても楽しそうにアルバムやアニメを見ていた。だから、御両親に俺のことを嬉しそうに話すのも納得かな。
また、嬉しそうに話したと果穂さんに言ったからか、千弦はちょっと照れくさそうな様子に。
「千弦から聞いていると思うけど、千弦が素を隠すようになったのは、福岡の小学校に通っていた頃の辛い経験が理由だ。素を隠すことを徹底していて、洲中に住む人で知っているのは星野さん一家くらいでね。千弦も相当な勇気をもった上で白石君に話したと言っていたよ。白石君、素の千弦を受け入れてくれてありがとう」
「ありがとう、白石君。これからも千弦のことをよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
果穂さんと孝史さんはそう言うと、俺に向かって深めに頭を下げた。
洲中に引っ越してからの数年間で、素の自分を明かしたのは星野さん一家だけ。しかも、素の自分のことだけでなく、福岡の小学校での辛い出来事も話したんだ。それに、俺が受け入れてくれるかは限らない。今まで素を隠していたのだから、嫌われるかもしれないとも思ったかもしれない。千弦が相当な勇気が必要だったのも納得だ。実際、勇気が必要だったと千弦があのときに言っていたし。だから、俺が受け入れたことについて、親としてお礼を言いたかったのだろう。
顔を上げてください、と俺が言うと、果穂さんと孝史さんはゆっくりと顔を上げた。
「千弦が素の自分と過去を話してくれて嬉しかったです。ナンパから助けたときなど、とても可愛い笑顔を見せてくれたので、素を知って納得したくらいです。過去の話を聞いたときは、千弦を苦しめた人達に怒りが湧きました。……千弦にも言いましたが、素の千弦も演じている千弦も肯定しています。素を知る友人としてこれからも千弦と仲良く過ごして、支えていきます」
果穂さんと孝史さんのことはもちろん、千弦のことも時には見ながら俺はそう言った。お二人にお礼を言われて、友人として千弦と仲良くして支えていこうと改めて思う。
千弦と果穂さんは嬉しそうな笑顔で、孝史さんは優しい笑顔で俺を見てくる。
「ふふっ。白石君がそう言ってくれて嬉しいわ」
「そうだね、果穂」
「洋平君に話して本当に良かったって改めて思うよ」
「良かったな、千弦。白石君は千弦をナンパからも助けてくれたし、本当にいい青年だ」
「そうね。見た目も中身もイケメンさんね」
「いえいえそんな」
そこまで褒められると……嬉しい気持ちはあるけど恐縮もしてしまう。
「千弦をこれからもよろしく」
「よろしくね」
「はい」
「……じゃあ、そろそろ部屋に行こうか」
「ああ。では、失礼します」
果穂さんと孝史さんに軽く頭を下げて、俺は千弦と一緒に2階にある千弦の部屋に向かう。
千弦の部屋に来るのはこれで3回目だけど、千弦と2人きりなのは今回が初めてなので新鮮に感じられる。
「洋平君。適当にくつろいでて。私、冷たいものを持ってくるから」
「ありがとう」
「洋平君は何がいい? コーヒーかな? 洋平君はコーヒーが好きだし」
「ああ。コーヒーをお願いするよ」
「うん。分かった。ちょっと待っててね」
そう言うと、千弦は部屋を一旦後にした。
ローテーブルの周りにあるクッションの一つに座り、その側にトートバッグを置いた。
こうして千弦の部屋に一人でいるのも初めてなので、今も新鮮だ。
千弦がいなくても千弦の甘い匂いがほのかに感じられる。日差しがあって少しぽかぽかもしているから、とても心地良くて。段々眠くなってきたな。
「お待たせ、洋平君」
「……おっ」
気付けば、マグカップ2つを乗せたトレーを持った千弦が部屋に戻ってきた。ウトウトしていたのもあり、体がピクッと震えた。それに気付いたのか、千弦は「ふふっ」と笑った。
千弦は2つのマグカップをローテーブルに置く。そのうちの一つは俺の前に置いてくれた。
「アイスコーヒー、さっそくいただきます」
「どうぞ召し上がれ」
俺はアイスコーヒーを一口飲む。苦みが強めで俺好みだ。とても美味しい。あと、コーヒーの苦さと冷たさのおかげで眠気が吹き飛んだ。
「凄く美味しいよ。ありがとう」
「いえいえ。そう言ってくれて嬉しいよ。さっき、体がピクッてなっていたけどどうしたの?」
「ぽかぽかして気持ちいいからちょっと眠くなってさ。それで、千弦が部屋に戻ってきたからピクッてなって」
「ふふっ、そういうこと」
千弦は楽しそうに笑う。ニヤニヤはしていないので、俺を馬鹿にした感じではなさそうだ。
千弦は勉強机から筆記用具やノート、課題を持ってローテーブルにやってくる。テーブルを挟んで向かい合う形で座ると、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「うん、美味しい」
「美味しいよな」
「うんっ。……そういえば、洋平君がうちに来るのは3回目だけど、2人きりになるのは今回が初めてだよね」
「そうだな。俺も部屋に入ったときに思ったよ」
「そうなんだ。……課題をやるのがメインだし、彩葉ちゃんも誘ったし、1階にはお母さんとお父さんがいるけど、こうして洋平君と2人きりでいるから、お家デートになるのかな? 洋平君は友達だけど、自分の部屋で男の子と2人きりになるのは初めてだからそう考えちゃって。アイスを奢ったときには2人きりで放課後を過ごしたから、彩葉ちゃんにデートと言える内容だとも言われたし」
デートという言葉を口にしたからか、千弦の頬がほんのりと赤くなる。その反応がとても可愛らしい。あと、千弦の部屋で男子と2人きりになるのは俺が初めてなのか。それを聞いてちょっと嬉しい気持ちになった。
ナンパから助けたお礼に、放課後にアイスを奢ってもらったとき、千弦と2人きりで過ごしたから、星野さんから「デートって言える内容だね」って言われたっけ。今回は星野さんが用事で来られないから2人きりになったのもあるけど、これはデートなのかと千弦が考えるのも無理はない。
「そうだな……お家デートになるんじゃないかな。課題をやるのが理由だけど俺を家に誘って、2時に来るって約束して、こうして2人きりで一緒にいるから」
「なるほどね。確かに、今日のこれまでのことを振り返ったら……デートだね」
千弦はほんのりと赤らんでいる顔に笑みを浮かべてそう言った。
この時間がお家デートなのだと認識したからだろうか。それとも、千弦の笑顔が可愛いからだろうか。千弦を見ていると、ドキッとして体がちょっと熱くなった。
「課題きっかけだけど、一緒にお家デートを楽しもう」
「うんっ。……じゃあ、さっそく課題をやろうか」
「そうだな。せっかく一緒にやるんだし、同じ教科をやっていくか?」
「それがいいね」
「分かった。千弦はどれからやりたい? 数Ⅱ、数B、古典、英語表現Ⅱがあるけど」
「まずは数Bをやりたいな。最近はちょっと難しいなって思っている内容もあって。洋平君って数Bどう?」
「俺は特につまずいていないな。むしろ好きな方だ」
「良かった。じゃあ、分からないときは洋平君に訊けるね。数Bの不安もあって、一緒に課題をやらないって誘ったの」
「なるほどな」
まあ、連絡先を交換しているからメッセージや通話でも訊けるけど、一緒に課題をやっているときの方が訊きやすいし、すぐに教えてもらえるもんな。訊ける人がいれば不安な気持ちも紛れるだろうし。それに、俺としても、一緒にいるときに直接教えるのが一番教えやすいし。
「じゃあ、まずは数Bの課題をやるか」
「うんっ」
千弦はニコッと可愛らしい声で返事した。
俺達は数学Bの課題を始めるのであった。