第38話『藤原千弦-前編-』
「『王子様』だって言ってくれる子もいる普段の姿は……演じているの」
千弦は俺のことを見つめながら、真剣な様子でそう言った。
「……演じている」
俺に話したい内容があまりにも予想外だったので、ついオウム返しのように言ってしまう。
これまでの千弦が次々と脳裏をよぎる。いつも落ち着いていて、時には凛々しさを感じられる立ち振る舞いをする千弦を。ナンパの一件があってから、俺と一緒にいるときの千弦を。あれらは全て千弦の演技だったのか?
でも、ナンパから助けたときやクレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ったとき。俺が下の名前で呼んだときの千弦の笑顔は、王子様キャラからかけ離れたとても可愛らしい雰囲気の笑顔だった。もしかしたら、あの姿が素の藤原千弦だったということかな。
「もちろん、演じているっていうのは、王子様のような中性的な振る舞いとか凛々しい雰囲気のことであって。これまでの出来事が楽しかったのは本当だからね」
「そうか」
あくまでも、演じているのは王子様のような中性的な振る舞いや、落ち着いていて時には凛々しさも感じられる雰囲気についてか。
これまでの出来事が楽しかったのは本当だから……か。
千弦の笑顔をこれまでたくさん見てきた。ナンパから助けて、千弦と友達になってからは特に。千弦の笑顔は素敵だと思える笑顔ばかりで。そう思えるのは、笑顔にさせる感情が本物だったからなのだろう。
「これまで、千弦は中性的に振る舞って。雰囲気も落ち着いていて、時には凛々しくなる。ただ、それは千弦の素じゃなくて、演じていると」
「うん。みんなの前では演じてる」
「そっか。ただ、俺は……ナンパを助けたときとか、クレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ったときとか、下の名前で初めて呼んだときに見せてくれた可愛い雰囲気の笑顔を知ってる。あとはアルバムに貼ってある写真に写っていた小さい頃の千弦も可愛かったな。あれが、素の千弦ってことかな」
「……うん。そうだよ。あと、洋平君に可愛いって言われると何だか照れちゃうな……」
千弦は頬をほんのりと赤くして、言葉通りの照れくさそうな様子になる。今の声も含めてとても可愛くて。見た目は千弦だけど、いつもの中性的な雰囲気とは全然違うから別人のように思えてしまう。でも、これが素の千弦なんだ。
「これまでの千弦とは全然違うな。本当に可愛いし。あと、俺への呼び方も違うのもあるかな……」
「素では男の子は誰にでも君付け、女の子はちゃん付けだよ。中性的な人を演じるためにも、友達の多くは呼び方を呼び捨てに変えているの。まあ、男の子に呼び捨てで呼ぶのは洋平君くらいだけどね」
「なるほどな」
友達は特に名前を呼ぶことが多い。だから、呼び方を変えることで、みんなの前では素の自分が出てしまわないように気をつけているのだろう。
「俺が覚えている限りだけど、今振り返ると、あれは素だったんじゃないかって思えた瞬間は数えられるほどだ。普段も笑顔を見せることもあるけど、それは中性的な雰囲気の千弦の笑顔として違和感のないもので。だから、素の千弦を知っている人は凄く少なそうだ。この場に星野さんがいるから、星野さんは知っているんだよな」
「うん。彩葉ちゃんは知ってるよ」
「小学生のときに教えてもらったの」
「そうなんだ」
さすがは一緒にいることが一番多い親友だけのことはある。あと、星野さんを「彩葉ちゃん」呼びするところを見るのは初めてだから新鮮だ。
あと、以前から、千弦は星野さんと一緒にいるときは普段よりも柔らかい笑顔になると思っていた。それは、自分の素を教えられるほどの親友が側にいることの安心感からなのかもしれない。
「うちの親戚とか、福岡の小学校の同級生も素の私を知っているけど、洲中の人で彩葉ちゃん以外に知っているのは、うちの両親と彩葉ちゃんの御両親だけだよ。それもあって、素の自分がバレたことはないよ」
「そうか……」
洲中在住で素の千弦を知っている人は御両親と星野さん。それに、星野さんの御両親とごく少数か。そして、今日……俺が知った。千弦は人気者だし、友人はとても多い。それにも関わらず、素を知っているのは数人程度。徹底的に隠してきたのだと分かる。
「可愛いし、素の千弦もいいと思う。ただ、どうして普段はみんなから王子様って呼ばれるような中性的な立ち振る舞いをしているんだ? それが気になる。もちろん、千弦が話したくなければ話さなくてもいいぞ」
きっと、相当な理由があったんじゃないかと想像できるから。
「話すよ。理由を含めて、ここで私の素について話そうと思っていたから」
静かな声色だけど、千弦は俺のことを見つめながらそう言ってくれた。
「分かった。聞かせてくれ」
いったい、千弦に何があったのだろうか。みんなの前では素を隠し、王子様と呼ばれるような振る舞いをするようになった理由は何なのだろうか。
千弦はストレートティーを一口飲んで、「ふぅ」と小さく息を吐いた。
「きっかけは福岡の小学校に通っていた頃だよ」
「福岡の小学校か。確か、小5の5月まで福岡にいたって、アルバムを見せたくれたときに話していたな」
「うん。元々の性格は彩葉ちゃんに似た女の子らしくて、大人しくて。彩葉ちゃんは違うけど、私は引っ込み思案なところもあって。それでも、友達が何人かできて、楽しい学校生活を送ることができていたの。特に嫌なこともなくて。4年生までは平和だった」
「そうか」
つまり、何か問題が起きたのは5年生になってからか。ただ、千弦は6月に洲中に引っ越してきている。2ヶ月の間に何があったんだ?
「5年生でも、年度が始まってすぐに初めて同じクラスになった女の子と何人か友達になれたの。ただ、そのうちの一人は同じクラスの男の子が好きで。4月の下旬頃に、その男の子が私に告白してきて。私は……振ったの」
「そうか」
「そのことを友達が知って、物凄く怒って。なんで私じゃなくて千弦なんだ。男の子が振られたことでがっかりしているのを見て私も傷ついたと。そこから、嫌がらせが始まって。何人かの女の子と一緒になって教科書やノートを隠されたり。嫌なことを言われたり。無視されたり。その友達はクラスのリーダー格なのもあって、5年生になって友達になった女の子達は私から離れていったの。4年生までにできた仲のいい友達はみんな別のクラスだったし、引っ込み思案な性格もあって、嫌なことをされているって相談できなくて……」
「そうか。それは結構辛いな……」
意中の相手が、自分じゃなくて千弦に告白したことへの嫉妬。そして、千弦にフラれたことでがっかりした意中の相手を見たことの傷心。それが千弦への憎悪になり、その感情に任せて、その女の子は複数人で千弦が傷つくようなことをしたのか。身勝手だ。
「4年生までにも、告白されて振ったことが何度もあったの。それもあってか、『自分が可愛いからって調子に乗っている』とも言われて。『女の子らしい大人しい振る舞いも嫌い』だって」
「そうだったのか。でも、千弦は告白してきた子を傷つけるために振ったわけじゃないんだろう?」
「もちろんだよ。誰とも恋愛する気にはなれなくて。だから、『付き合えません。ごめんなさい』って謝って断ったよ」
「そっか。俺が知っているのは高校だけだけど、千弦は告白してきた人に向き合って断っているよな。それは小学生のときから変わらないんだな」
「うん。……傷つけるつもりは全くなかったって当時も話したけど、その子は『私の心が傷ついた事実は変わらない』って言って、嫌がらせを止めることはなかった」
その子は千弦への憎悪が強く、千弦の言葉を聞くつもりはなかったのかもしれない。
数年前のことで、俺は全く関わりのない人間だけど、その子の身勝手さに怒りが湧いてくる。星野さんも複雑そうな表情になっている。
自分の嫌な過去を話しているのもあってか、千弦は辛そうな表情になっており、目には涙が浮かんでいる。今話したことが相当嫌だったことが窺える。
千弦の隣に座る星野さんが千弦にハンカチを渡す。千弦はそのハンカチで涙を拭った。
「ただ、ゴールデンウィーク明けに、お父さんの転勤で5月末に東京に引っ越して転校することが決まって。そのことで心が軽くなって。5月の終わりには福岡から離れられる。だから、引っ越すまで福岡の学校に行けた理由だった」
「東京ほどの遠い場所に引っ越すのは大きいよな」
「うん。お母さんとお父さんも、私が学校で何か嫌なことがあったんじゃないかって気付いてて。嫌なことをされてるって正直に話して。辛かったらいつでも家に帰ってきていい。学校を休んでいいって言われて。それもまた、最後まで行けた理由の一つだったの」
果穂さんと孝史さんが協力的で、いつでも自分の帰れる居場所がある。それは当時の千弦にとっては大きな支えになったことだろう。
「予定通り、5月末に洲中に引っ越すことになって。最後に福岡の学校に登校したとき、例の子が『東京に逃げられて良かったね』って笑ってきて。お父さんの転勤が理由とはいえ、東京に逃げる感覚もあったから何も言い返さなかったよ」
「最後まで嫌な子だな、その子……」
俺の言葉に千弦は「うん」と首肯した。
以前、この部屋で千弦のアルバムを見た際に、小学校の入学式の写真が福岡のものだと俺が言ったとき、千弦は切なげな笑みで説明していた。ただ、そういう表情になっていたのは、福岡からここに引っ越してきたことの寂しさではなく、福岡で嫌がらせに遭ったことを思い出した苦しさだったんだろうな。
「もしかして、前に見せてもらったアルバムに、福岡の小学校に通っていた頃の写真が少なかったのは……」
「素の自分を隠すためだよ。あとは、小5の嫌な記憶を鮮明に思い出すし」
「なるほどな」
藤原さんは人気者だ。きっと、この前の俺のように、アルバムを見せてほしいと言ってきた友達はたくさんいたのだろう。自分の素の部分や過去を隠すために、アルバムに福岡の小学校に通っていた頃の写真をあまり貼らなかったのだろう。
「5月末にこの家に引っ越してきて。あの学校から離れられたことに心が軽くなった。でも、こんな私だから嫌なことをされるのかもしれない。今までの私とは違った雰囲気にならないと、新しい学校でも嫌な目に遭うかもしれない。だから、中性的な振る舞いをすることにしたの。洲中には今までの私を知る人はいないからね。お母さんとお父さんも演じることを許してくれた」
「そうだったのか」
これまでの自分を知る人が洲中にいなければ、自分の過去や素をバラされる恐れはないって考えても大丈夫か。
「アルバムを見せてくれたとき、あの中性的な雰囲気になったのは自分の好きなキャラクターに影響を受けて真似たって言っていたよな」
「うん。口調や立ち振る舞い、笑顔の作り方を真似たよ。そのキャラが好きだから、すぐに真似られた。それで、彩葉ちゃんのいる学校に通い始めたの」
「なるほどな。つまり、あの中性的な振る舞いは自分を守る防護壁だったと」
「うん。そういうことだよ」
福岡の小学校でクラスメイトの女の子から嫌な目に遭って。それがトラウマになった。福岡のときのような目にまた遭わないようにするために、千弦は王子様な雰囲気で素の自分を包み隠したんだ。そして、星野さんと彼女の御両親にしか自分の素を明かさなかった。
「洲中の小学校では、中性的な振る舞いをする私を嫌がる人はいなかった。彩葉ちゃんを含めて、何人もの子と友達になって。特に彩葉ちゃんとは仲良くなれた」
「席が近いから、千弦ちゃんが転校してきたときから一緒にいることが多くて。家が近いからお互いの家でたくさん遊んで」
「彩葉ちゃんはとても優しい女の子で。一緒にいるのが楽しくて。そんな日々を過ごす中で、彩葉ちゃんになら話しても大丈夫そうだと思えてきて。素の自分を明かせばもっと仲良くなれるかなって思って。だから、夏休み前に2人きりでいるときに、勇気を出して素の自分について彩葉ちゃんに話したの。そうしたら、彩葉ちゃんは笑顔で受け入れてくれて。もっと仲良くなれて。それが嬉しかった」
「辛い過去がきっかけだし、隠したいことだと思うけど、私を信頼して話してくれたことが嬉しくて。素の千弦ちゃんも素敵だから、すんなり受け入れられたよ。千弦ちゃんの素を知って、より仲良くなれた」
そのときのことを思い出しているのか、星野さんはとても優しい笑顔で話した。それもあってか、千弦の顔にはやんわりとした笑みが浮かんでいる。
千弦の言うように、星野さんはとても優しい女の子だもんな。当時の千弦が、星野さんになら素を明かしても大丈夫そうだと思えるのは納得だ。
「それからは、彩葉ちゃんと2人きりのときや素の私を知る人だけがいるとき、あとは遠くへ旅行に行ったときは素になって、学校や街中では中性的な雰囲気で振る舞っているの。成長期になって背がかなり伸び始めたから、女の子中心に私を王子様って呼ぶようになって。おかげさまで人気にもなってる。洲中に引っ越してからは、福岡にいる頃のような嫌なことはないし。楽しく過ごせてる」
素の自分とは違う雰囲気を演じることが見事にハマったんだな。それが今の千弦に繋がっているということか。