第37話『元気になった。』
5月9日、木曜日。
ゆっくりと目を覚ますと、昨日の朝にはあった妙な熱っぽさは……感じない。
部屋の時計を見ると、今は……午前6時55分か。昨日は日中に数時間寝たし、夜に寝たのも普段よりも早めだったけど、普段の平日と変わらない時間に起きたな。
上体を起こすと……特に体の重さやだるさは感じない。普段は何とも思わないけど、体調を崩す度に健康なときってこんなに体が軽いんだなぁと思う。
ローテーブルに置いてある体温計で今の体温を測る。
――ピピッ。
「……36度2分か。これなら学校に行けるな」
声を出したけど、喉の調子も健康なときと変わらないな。
昨日の夕方に千弦と星野さんがお見舞いに来た時点でそれなりに良くなっていたけど、こうして翌朝に普段と変わりない体調にまで回復すると安心する。
部屋を出て、1階のリビングに行く。
キッチンでは昨日と同じように、父さんと結菜が朝食を食べており、母さんがお弁当を作っていた。
「あっ、お兄ちゃんおはよう! 具合はどう?」
「良くなったよ。熱測ったら36度2分だった。だから、今日は学校に行くよ」
「治ってきていて良かったね、お兄ちゃん!」
「良かったな、洋平。まあ、昨日の夜の段階でだいぶ良くなっていたもんな」
「安心したわ。じゃあ、洋平のお弁当にもおかずを詰めておくわね」
「ああ。ありがとう」
家族はみんなほっとしている様子だった。結菜は嬉しそうで。昨日の朝は高熱が出てかなりだるかったし、そんな俺を間近で見ていたからだろう。
それからは歯を磨いたり、顔を洗ったり、高校の制服に着替えたり、朝食を食べたりして平日の朝のいつもの時間を過ごす。特に体の不調を感じることなく、いつもやっていることを普通にこなせるのは嬉しいものだ。
朝食を食べ終わり、忘れ物や服装の乱れがないかどうかをチェック。……OKだ。いつもなら、これで自分の部屋を出るけど、
『元気になりました。今日は学校に行きます』
部屋を出る前に、パークランドに一緒に行った人がメンバーになっているグループトークにそうメッセージを送った。山本先生以外は昨日の夕方にある程度体調が良くなった俺と会っているけど、メッセージを送ればより安心できると思って。
リビングで昨日処方された薬を、キッチンで弁当包みと、麦茶の入った水筒をスクールバッグに入れて、
「じゃあ、母さん。いってきます」
「いってらっしゃい。元気になったけど、病み上がりなんだから無理はしないでね」
「ああ、分かった。……いってきます」
俺は洲中高校に向かって家を出発する。
今日も起きたときからよく晴れていて、この時間でも日差しを直接浴びると暖かく感じる。ワイシャツにベストという格好なのもあってちょうどいい。昨日、病院に行くときは熱が出ていたから結構暑く感じたなぁ。だるさも感じたから、病院の行き帰りはちょっと辛かった。
高校に向かう中、スラックスのポケットに入れているスマホがたまに鳴る。確認すると、グループトークに千弦達から元気になって良かったという旨のメッセージが届いていた。また、結菜からは病み上がりだから無理しないでと。そういったメッセージを見て心が温まった。
高校に到着し、教室A棟に入る。
いつもは階段で教室のある4階まで向かうけど、今日は病み上がりなので念のためにエレベーターを使った。エレベーターは楽だなぁ。
4階に到着し、いつもの通り、後方の扉から2年3組の教室に入る。
「おっ、白石。元気になったんだな。おはよう」
「白石君おはよう! 体調良くなったんだね!」
などと、教室に入った直後から、後方の扉の近くにいたクラスメイトの友人達におはようと声を掛けられ、注目が集まる。昨日、体調を崩して学校を休んだからだろう。いつもと違った状況にちょっとこそばゆさを感じつつ、
「おはよう。元気になったよ」
と言った。そう言うと、声を掛けた友人を中心に、こちらに向いているクラスメイトの多くが笑顔になった。
自分の席の方に視線を向けると、琢磨の席の周りに琢磨、吉岡さん、千弦、星野さん、神崎さんがいる。5人は俺に向かって笑顔で手を振り、
「おはよう、洋平! 元気になったな!」
「おはよう、白石君!」
「洋平、おはよう。学校で会えて嬉しいよ」
「白石君、おはよう」
「白石、おはよう。学校に来られるくらいに元気になって何よりだわ」
と挨拶してくれた。風邪が治って登校したのもあり、みんなの笑顔は柔らかいもので。
特に親しい友人達からの温かい言葉に嬉しい気持ちを抱き、彼らに向かって小さく手を振りながら自分の席に向かう。
「みんなおはよう。元気になったよ。昨日はお見舞いに来てくれてありがとう」
千弦や琢磨達にお礼を言い、俺はスクールバッグを自分の座席の机に置いた。彼らの輪の中に入る。
「昨日、洋平の部屋で全員集合したけど、やっぱり学校で集合するのが一番いいな!」
「そうだな。それに、あのときはある程度は体調が回復してきたけど、今ほど元気じゃなかったし。学校の教室で琢磨達の顔を見ると元気になったんだなぁって実感するよ」
「ははっ、そうか! 元気になって良かったぜ!」
琢磨は明るい笑顔でそう言うと、俺の背中をバシバシと叩いてくる。普段と変わらない強さなので結構響く。
「おいおい、琢磨。元気になったけど病み上がりなんだ。結構体に響く」
「おっと、すまねえ。洋平が元気になったのが嬉しくて、ついいつものノリで叩いちまったぜ」
琢磨が背中をバシバシと叩くのを止めた。
「ふふっ、琢磨君らしい」
という吉岡さんの言葉もあって、俺達6人は笑いに包まれる。昨日も俺の部屋でみんなで笑うことがあったけど、こうして教室で笑っていると日常が戻ったのだと実感する。
「おはよう。まだチャイム鳴っていないから自由にしてて」
山本先生の声が聞こえたので、声がした教師前方の扉の方を見ると……スラックスに半袖のブラウスを着た山本先生の姿が。チャイムが鳴るまであと5分以上ある。こんなに早く先生が教室に来るのは珍しい。
山本先生は教室を見渡す。そんな先生と目が合うと、先生は穏やかな笑顔でこちらにやってくる。
「みんなおはよう」
山本先生が俺達に向かって挨拶してきたので、俺達も「おはようございます」と挨拶した。
「白石君、元気になったのね。良かったわ。昨日の夕方も、今朝もメッセージは来たけど。実際に元気そうな顔を見られて安心したわ」
俺の目を見つめながらそう言うと、山本先生はニッコリとした笑顔に。可愛いな。いつになく教室に早く来たのは、俺の顔を見たり、話したりするためだったのだろう。そういえば、去年体調を崩したときも、再び学校に来た際には早めに先生が来ていたっけ。
「ご心配をおかけしました。連休中からの疲れが溜まって。バイトも疲れが溜まった原因の一つなのもあって、かかりつけのお医者さんから過労だと診断されました」
「そうだったの。休日には長くシフトに入ることが多いものね。連休最終日はパークランドで一日遊んだし、火曜日はうちのクラスは体育の授業があったものね」
「ええ。連休中は外出する時間が多かったので、家では夜遅くまでラノベを読んでいたりしたので、あまり休息を取っていなかったんです。今回のことで反省しました」
「そうね。休むことは大事なことよ。あなたはバイトをよく頑張るし、気をつけなさい。私も新人の頃は仕事のし過ぎで疲れて体調を崩したことがあるし」
そのときのことを思い出しているのか、山本先生は苦笑い。
「そうでしたか。……分かりました」
山本先生は社会人だし、過去に仕事の疲れで体調を崩したことがあると知ると、何だか重みがあるな。昨日の神崎さんの注意もあり、ちゃんと休むことは大切だとしっかりと胸に刻まれた。
「よろしい」
落ち着いた声色でそう言い、山本先生は俺の頭を優しく撫でてくれた。撫でられる感触はもちろん、先生の温もりや甘い匂いも感じられて癒やされる。先生は優しく微笑みかけてくれて。
去年も体調不良から復活したときに山本先生から体調には気をつけてと言われたけど、こうして頭を撫でられることはなかったな。当時よりも親交があるし、今回は直前に一緒にパークランドへ遊びに行った。だから、去年のときよりも心配な気持ちが強かったのかもしれない。
それから、朝礼を知らせるチャイムが鳴るまでの間は、山本先生を交えた7人で昨日のことで談笑した。
そして、今日も学校生活が始まる。
今日の授業はどの教科も教室で行なった。それもあって、病み上がりだったけれど、特に具合が悪くなることはなかった。
あと、昨日は体調を崩して学校を休んだので、顔や視線を少し動かすだけで千弦達の姿を見られることがいいなと思えて。結構早く時間が過ぎていくのであった。
「洋平。今日一日お疲れ様」
「お疲れ様、白石君」
放課後になってすぐ、千弦と星野さんはスクールバッグを持って俺のところにやってきた。
「2人ともお疲れ様。今日はあっという間だった」
「そっか。学校生活を送って、今の体調はどう?」
「元気だぞ」
「それなら良かった」
「良かったよ」
千弦と星野さんは穏やかな笑顔でそう言ってくれる。病み上がりだから、俺の体調を心配してくれていたのかな。病み上がりで登校して、一日過ごしたらまた体調が悪くなるってこともあるだろうし。
「ところで、洋平。この後って何か用事ある?」
「特にないけど」
「そっか。……この後、彩葉が私の家に来ることになっているんだ。だから、洋平さえ良ければ一緒にどう?」
「白石君ならいいと思って。昨日、お見舞いに行ったとき、3人で一緒にいるのが楽しかったし」
と、千弦と星野さんが誘ってくれる。
今も元気だし、千弦の家で過ごすなら、急に体調を崩してしまうこともないだろう。それに、俺も千弦と星野さんと3人で過ごすのが楽しかったし。何よりも2人が誘ってくれたことが嬉しい。
「ああ、いいぞ。じゃあ、俺も千弦の家にお邪魔するよ」
「ありがとう、洋平」
「良かったね、千弦ちゃん」
星野さんの言葉に、千弦は「うん」と笑顔で首肯する。ただ、その笑顔はちょっと硬そうに見えた。
「じゃあ、さっそく行こうか」
「そうだな」
その後、今週が掃除当番である吉岡さんに「また明日」と言って、琢磨と神崎さんとも一緒に教室を後にする。
琢磨が「階段で大丈夫か」と言ってくれたけど、下りなので昇降口のある1階までは階段を使った。琢磨と神崎さんはそれぞれ部活動があるので、1階に下りたところで別れた。
千弦と星野さんと俺は昇降口で上履きからローファーに履き替え、校舎を後にする。
千弦と関わるようになって2週間以上経ったからなのか。それとも、今日は星野さんもいるからなのか。以前よりは周りの生徒から視線が集まることはなくなった。そんなことを考えていると、俺達は校門を出る。
「そういえば、放課後に千弦の家に行くのはこれが初めてか」
「そうだね。最近は洋平と一緒にいることが多いから、ちょっと意外だね」
「そうだな。休日には一回行ったし」
「意外だよね。これまで、放課後に千弦ちゃんの家に行くことがたくさんあるから、何回かは白石君も一緒に行ったような気がしてた」
「ははっ、そっか」
それだけ、最近は一緒にいることが多くて、楽しい時間を過ごしてきたってことなんだろうな。
「なあ、千弦、星野さん。誰かの家に遊びに行くときは、途中のコンビニとかでお菓子や飲み物を買うことがあるんだ。だから、途中で何か買っていかないか?」
「いいね。私達もそうすることあるし」
「そうだね。何か買っていこうか」
「決まりだな。ただ、今回は俺に奢らせてほしい。昨日、お見舞いに来て看病してくれたり、ゼリーやプリンを買ってきてくれたり、ノートを写させてくれたりしたから、そのお礼がしたいんだ」
お菓子や飲み物くらいでは釣り合わないくらいに、千弦と星野さんには感謝しているけど。
「まあ、そういうことなら……奢ってもらおうかな。彩葉はどう?」
「私もいいよ。白石君のご厚意に甘えよう」
「そうだね」
千弦と星野さんは笑顔で快諾してくれた。
その後、洲中駅の構内を通り、千弦の家がある駅の北側に。先日、千弦の家に行ったときと同じルートで千弦の家へ向かっていく。
途中でコンビニがあったので、そこでお菓子と飲み物を買うことに。
5月なので期間限定の抹茶味のお菓子が目立つ。
千弦と星野さんは抹茶味のお菓子が好きだそうで、抹茶味のベビーカステラとマシュマロを手に取る。千弦はペットボトルのストレートティー、星野さんはボトル缶の無糖ラテを選んだ。俺は大好きなボトル缶のブラックコーヒーを選び、それらの代金を全て俺が支払った。
コンビニを出て、俺達は千弦の家に向かった。
千弦の家に到着すると……家には誰もいない。孝史さんは仕事、果穂さんは用事があって夜にならないと帰ってこないという。2階にある千弦の部屋に向かった。
「彩葉、洋平、荷物は適当な場所に置いて」
「うん、分かった」
「分かった」
俺は部屋の端にスクールバッグを置き、近くにあるクッションに座る。その流れでお菓子や飲み物が入っているコンビニのレジ袋をローテーブルに置いた。
俺が座った直後、千弦と星野さんはローテーブルを挟んで俺と向かい合う形でクッションに座った。
俺はレジ袋からお菓子や飲み物を取り出し、千弦が選んだペットボトルのストレートティーと星野さんが選んだ無糖ラテをそれぞれの前に置いた。
「白石君。無糖ラテいただくね」
「……ストレートティーいただきます」
「ああ。俺はコーヒーいただきます」
ボトル缶の蓋を開けて、ブラックコーヒーを一口。苦みが強めでとても美味しい。やっぱりこのコーヒーは好きだなぁと思う。また、晴れていて暖かい中歩いてきたので、冷たさがいいな。あと、昨日は体調を崩してコーヒーは飲まなかったので、久しぶりにコーヒーを飲めて幸せだ。
「コーヒー美味いな」
「無糖ラテも美味しいよ」
「アイスティーも美味しい。買ってくれてありがとう」
「ありがとう、白石君」
「いえいえ」
お礼として買ったものだけど、2人に美味しそうに飲んでもらえるのは嬉しいな。
「さてと。何しようか?」
千弦と星野さんにそう問いかける。
放課後だし、今日の授業で出た課題をやるのがいいだろうか。でも、せっかく千弦の家に来ているんだし、課題をするのは味気ないか。そんなことを考えながらブラックコーヒーを飲んでいると、
「……実は洋平君に話したいことがあるんだ」
「俺に?」
千弦にそう問いかけると、千弦は真剣な様子で俺を見ながら頷く。
あと、今……俺のことを「洋平君」って言わなかったか? 最近は俺への呼び方が「白石君」から「洋平」と下の名前で呼び捨てになったけど。俺の聞き間違いだろうか。
「……うん。私の家に来ないかって誘ったのは……洋平君に話したいことがあるからなの」
千弦は依然として俺を見つめながらそう話す。ただ、その声は……これまでに聞いた声よりも高めの可愛らしい雰囲気で。一瞬、星野さんが喋っているんじゃないかと思うほどで。あと、俺を「洋平君」呼びするのは聞き間違いではなかったか。
「……そうか。千弦の話を聞くよ。それで、俺に話したいことってどんなことだ?」
俺はそう問いかける。
緊張しているのだろうか。千弦は視線をちらつかせて、何度か深呼吸する。そんな千弦の背中を星野さんは優しく擦って。いったい、千弦は俺に何を話そうとしているんだろう?
少しの間、無言の時間が続いた後、千弦は真剣な面持ちで俺と目を合わせる。
「『王子様』だって言ってくれる子もいる普段の姿は……演じているの」




