病室に響く雷鳴
スマホの電源を切り、そのまま病院へと足を向ける。
結弦に会いたい。顔が見たい。この気持ちを今、結弦に聞いてほしい。
やまない大雨の中、びしょ濡れのまま病院へ入り結弦の病室の前まで行くと、いつものようにノックをしてからスライドドアに手をかけた。
「はい」
えっ? 今の返事……誰? まさか……結弦?
聞き覚えがあるような男性の声に、スライドドアを開ける手がとまる。
「どうぞ?」
声の主はわたしに中に入るよう促している。やはり結弦の病室に誰かいるんだ。
雨に濡れて冷えた体を強張らせて、ゆっくりとスライドドアを開けた。
病室に足を踏み入れると、結弦のベッドの脇に座っている男性に「こんにちは」と声をかけられた。
わかってはいたけれど、声の主はやはり結弦ではない。
よく通る声。一見若いがところどころ白髪混じりのこの男性には見覚えがある。結弦のお父さんだ。
日曜日は仕事があるため、平日にしかお見舞いに来れないと結弦のお母さんから聞いていた。だからこれまでも結弦のお父さんとはあまり話をしたことはなかった。
お盆やお正月といった長期連休になるとたまに顔を合わせることはあったが、病室のドア越しで判断できるほど聞き慣れた声ではない。
「こんにちは。お久しぶりです」
慌てて挨拶を返すと、結弦のお父さんは一瞬目を見開いてから、
「あぁっ、琴音さん。久しぶりだね」
と、笑顔を見せてくれた。
ずぶ濡れで髪もぐしゃぐしゃだったので、おそらくわたしだと気づかなかったのだろう。着替えてくればよかったなと後悔したが、もう遅い。
「この雨に打たれたんですか?」
「はい。傘を忘れてしまって、雨やどりできる場所もなかったもので、こんな格好ですみません」
スーツ姿で突然来たこともあり、なにか勘繰られないかと心配しながら返答する。
「それはそれは、大変だったね。よかったらこれをどうぞ」
結弦のお父さんはそう言うとベッドの脇にある戸棚からタオルを出してくれて、風邪をひいてはいけないのでと、冷房を少し弱めてくれた。
結弦を挟むように向かいに座る。病室に時を刻む音だけが、無機質に響く。
無言の緊張感。なにか話さなくてはと考えるが、突然の出来事になにも浮かばない。
時間だけが過ぎていく。
そのうちに向こうから「あの……」と声をかけられた。
「毎週来てくれているみたいで、ありがとうございます。妻から聞いています」
どこか疲れを漂わせている結弦のお父さんは、俯いたまま両手を握り、そのまま静かに話し続けた。
「いつか、あなたに話そうと思っていたのですが……」
重い空気が病室を満たしていく。
「結弦はいつ目を覚ますかわからない。こんな状態がもう七年も続いています。医者からはこの先目を覚ます可能性も低いと言われているし、あなたももう大人の女性になっている。なのにこのままあなたの大切な時間を結弦のために使ってもらうのは、あなたのためにはならないと思います。あなたの御両親にも申しわけない。だからどうか、あなたも無理はしないでください」
そこまで言うと、結弦のお父さんは顔を上げてわたしに目をくべた。
言葉が出てこない。もしや迷惑だったのだろうか? 卑屈な感情がつい口をついた。
「もしかして、御迷惑でしたか?」
「迷惑だなんてとんでもない! そんなことは絶対にありません。寧ろこんなにも結弦のことを想ってくれて、親として本当に嬉しい」
……本当だろうか?
いつの間にか大人になってきれいな嘘を覚えてしまったわたしは、やはりどこかで疑ってしまう。この受け取り方がひねくれているとわかっているのに。
「そんなあなただからこそ、僕はあなたにも同年代の人達と同じように、幸せになってもらいたいのです」
同年代と同じ幸せって、なんだろう……?
「こんなにも一途に結弦のことを想ってくれるあなたなら、きっとこの先もいいお相手が見つかるはずです。こんな状態の結弦では、あなたのことを幸せになんてできない。いえ、寧ろ不幸にさえしてしまっている」
わたしはただ、結弦のそばにいられれば幸せなのに……。
「親馬鹿かもしれませんが、結弦は本当に優しい子だった。だから結弦も、この状況を見てきっと、あなたに自分のことは忘れて幸せになってほしいと、そう願っているはずです」
結弦が、わたしに自分を忘れてほしいと? そう願っているということ?
最後の言葉で体中に衝撃が走る。
七年間、週末は必ずここに通っていた。それはなぜだろう?
初めのうちは、眠っている結弦に話しかけていると、そのうちにひょっこり目を覚ますんじゃないかと期待していた。けれど、今はどうだろう?
高校生の頃から好きな気持ちは変わっていない。
目覚めてほしい気持ちだって、もちろん変わらない。
でも違う感情が割り込んでいるのも事実だ。
結弦が目覚めない現状に慣れてしまっているわたしは、いつからか結弦のためではなく、自分のためにここに来ていたのではないだろうか?
窓の外に閃光が走り雷鳴が響くと、ふいに雨やどりという言葉が浮かんだ。
わたしの心はいつも曇っていて、ときに雨が降っている。感情という傘を失ったわたしは、結弦に雨やどりしていたのではないだろうか。
返事がないからといって自分の愚痴をこぼすようになるなんて、結弦を精神安定剤にしていたんじゃないかとさえ思えてくる。
……わたしはいつから、こんなに卑屈になってしまったのかな。
この人はわたしを心配してくれているだけなのに。わたしの両親に対しても、本気で申しわけないと思ってくれているに違いないのに。
これじゃ駄目だ。たとえ結弦が目覚めても、こんなわたしを見たら心底がっかりするだろう。
やはりわたしはあの事故以来いろんなものが欠けてしまっている。
目覚めたときのことを考えると、わたしは結弦のそばにいないほうがいいのかもしれない。