試練とかふざけてるの?
死んだ魚のような目のララエと脳内いっぱいに花を咲き乱れさせたハクロが、「恋人と添い遂げたい」と愛の女神の神殿を訪れたのは翌日だった。
愛の女神とは、愛を育み、試し、守る女神である。女神の説く愛とは主に性愛で、ゆえに恋人たちの守護者でもあるとされるのだ。
だからこそ、進退極まった恋人たちがふたりが結ばれるための最終手段として、引き離されることのないよう守護を求めてこの神殿に駆け込むのである。
神殿で待ち受けるのは、きらきらと輝くような美男美女ばかりが揃った、愛の女神の使徒たちだ。
愛と情熱の女神は美と芸術の女神の双子の姉妹でもある。ゆえに、愛の女神を奉じる神官や聖騎士も皆、美しさを磨くことに余念がないのである。
“真実の愛”なんてあるはずもないものを、どうやって証明しろというのか。
ずらりと並んだ神官たちを前に、ララエは絶望しか感じない。
ララエがそっとハクロを伺うと……出迎えた愛の女神の神官、つまり美女に手を取られて既に鼻の下を伸ばしていた。
――これが、なぜこの神殿が「愛の試練場」なんて呼ばれているかの理由だ。
基本、誘い誘われ来るもの拒まずな美男美女に囲まれて、ちやほやと構われて……それで舞い上がらない人間がいったいどれだけいるだろう。
特に、神殿内に常駐している神官たちは、誰も彼もが皆、数多くの浮名を流している猛者ばかりなのに。
現に、ハクロの足元はすでにふわふわと覚束なくなっているじゃないか。
「ララエ嬢?」
呼ばれて、ララエはハッと意識を戻す。
ララエの案内を買って出たのは、愛の女神に仕える聖騎士だという男だった。
所作も声もいいし、もちろん、顔もいい。
騎士のくせに指先や爪まで整って美しい。
愛の女神の聖騎士を“性騎士”などと揶揄する者は多いけど、たぶん本当のことだろう。失礼に当たらない程度に着崩した衣服からも、訳がわからないほどの色気がダダ漏れている。
その手のことから意識的に逃げてきたララエには、ここも絶対逃げ切らないとヤバいとしか思えない。
うっかり引っ掛かれば、待つのは身の破滅だ。
必要以上に距離が近いのも、きっとワザとだろう。
もちろん、ハクロや家のことさえなければ、ララエだってきっと浮かれていた。
こんな顔のいい男に下にも置かれぬ扱いを受けるなんて、これが最初で最後に違いないのだから。
「あ、はい……あの、突然すみません」
「いえ。ア=トウカ上位家の御令嬢より、しっかりともてなしてほしいとご要望のうえ、たっぷりの寄付もありました。ララエ嬢はご心配なく」
片目を瞑ってくすりと笑う聖騎士に、ララエはやっぱりかと納得する。
今日から三日間、美男美女にちやほやされまくって存分にハメを外すがいいと、つまりそういうことなのだ。
後のことを思えば、とてもそんな能天気にはなれない。
が、ハクロはどうか。
ララエが落とす前のハクロは、浮気を浮気とも思わずに散々遊んでいたのだ。
三日なんて絶対無理に決まってる。
つまり婚約は解消ならず、ハクロがいくら破棄だなんだと騒いだところで相手にもされず、シオウが公妃になるのだ。
そして、邪魔になったララエは、よくて北壁山脈の向こう側にでも放逐、最悪不敬罪か何かで処刑されるのだ。
「詰んだ……もう無理」
ララエの未来は決まったもの同然なのに、どこへどう逃げ出せばいいのだろう。
* * *
「あの、“愛の試練場”にぶっこむとかマジだったんですね」
「もちろんマジよ。だいたい、あの手の浮気者はチャンスがあれば何度でも繰り返すと歴史が証明しているのに、自分だけは特別だなんてよくも思えたものね。わたくし、あんな能天気見たことなくってよ」
さらりと述べて微笑むシオウに、デオムルは肩を竦める。
「この状況であそこに投げ込まれて浮かれなかった男女などひとりもいないのではないかしら。愛を試す女神とは、よく言ったものね。
せいぜい現実を思いしれば良いのよ」
「少しかわいそうな気もしますけど」
「わたくしを陥れようとしたのよ? この程度の嫌がらせで音を上げるようでは、わたくしが困るわよ」
ふふ、と笑って、シオウはちらりと“愛の神殿”がある方角を見やる。
“真実の愛”を標榜するふたりの面倒を見てほしい。
本当に“真実の愛”があるなら……いや、誠実な恋人たちでありさえすれば、神官方の誘惑にだって靡くことはないはずだから。
そう言ってたっぷりの寄付とともに依頼をすれば、神殿側は「恋人たちの保護でしたら」と二つ返事で請け負ってくれた。
あとは、あのふたり次第である。
ララエは知らないが、ハクロが三日も自重できるかは怪しいだろう。
一晩ですら怪しいのに。
デオムルは少しだけふたりに同情する。
愛の女神の神殿に、昼も夜も常駐している神官たちは、女神の信徒の中では“愛の過激派”とでも呼ぶべき派閥だ。
愛の自由さを謳い、どちらかと言えば一途さだの誠実さだのよりも、その時々の「燃える愛」を重視するような、平たく言って「来るもの拒まず去るもの追わずで、その時だけ楽しめれば良い」という不埒者が揃っているのである。
恋人への一途さや誠実さを重視するような神官は、さっさと神殿を出て、愛すべき相手とふたりの暮らしを堪能する方にシフトしている。
まあそれでも、とデオムルは監視としてつけたままの使い魔に意識を集中する。
すぐに、使い魔の目を通して、ララエの様子が見えた。
* * *
「無理……絶対無理。逃げ出すにしたって先立つもの何もないし、どこ行けばいいなんてさっぱりわからないし、ほんと無理」
あてがわれた部屋でひとり蹲り、ララエは頭を抱えていた。
いちおう、部屋は男女でわかれているからと個室へ案内されたが、その割にここまでは男性の聖騎士が付いてきていた。
本音と建前くらいちゃんと取り繕えよ、とララエは思う。
ハクロを案内していたのは、ララエですら感嘆するような曲線美の美女だったから、ことによると既にアウトな状況になってるかもしれない。
――シオウに床に頭を擦り付けて詫びれば、目溢しくらいはしてくれるだろうか。
でも、その後には父……ナ=ケイ下位家当主が控えている。あっちはどう考えても許してくれない。それどころか、ここまでかかった経費を補填しろと、ララエをどこかに売り飛ばすかもしれない。
――どうしようなんて言ってる暇があったら、さっさとこんなところ逃げ出したほうがいいんじゃないだろうか。
逃げるなら、せめてシオウに貰った文具箱と、これまで書き溜めたノートくらいは持って行きたい。
夜中になったら神殿を抜け出して、こっそり寮に戻って、荷物をまとめて町を出て……とにかく隣の町かどこかで売れるものは全部売って資金を作ろう。
大公領から西へ……とにかく帝国を出さえすれば、なんとかなるかもしれない。
まんじりともできず、ララエはふたつの月の小さいほうが天頂に差し掛かるまで待って、こっそり部屋を抜け出した。
髪は小さくまとめて、いつもの制服姿で廊下にそっと足を踏み出す。きょろきょろと周りを確認して、なるべく足音を立てないよう、回廊を急いで……
「どうしたの、こんな夜中に」
いきなり声をかけられて、驚きのあまり飛び上がる。
「ひとり寝は、寂しかった?」
「あっ、あっ、あの……」
振り向くと、いつの間にか後ろに立っていたのは、昼間自分を案内した聖騎士だった。もしかして見張られていたのか――ララエはどう言い訳をしようかを考えながら、しきりに視線を彷徨わせる。
「その、ええと……ハクロ様は、どうしてるかなって……」
尻すぼみに言いながら聖騎士を伺うと、くすくすと笑っていた。
「今から訪ねるのはお勧めできないな。
彼は今、少々刺激的なことになっているからね」
すい、と近づいた聖騎士が、ララエの手をそっと捉えた。
え、と思う間もなく掬い取った指先にキスをして、「彼でなくては嫌なのかな?」と顔を覗き込む。
さらには、「寂しいなら、私が慰めてあげよう」などと微笑みかけてくる。
刺激的……寂しい……慰め……とララエの思考は移ろい、もう一度指先にキス――どころか生温いぺろりという感触を感じて、ララエは反射的に振り払う。
「まっ、間に合ってます!」
「そう? 間に合っていても問題はないけれど」
「いえっ、間に合ってるので、こっ、これ以上は、断固、いりませんから!」
真っ赤になって舐められた指をごしごし擦り、必死に固辞するララエに、聖騎士はまたくすりと笑った。
「不要なのは残念だね。かわいらしい小夜啼鳥」
もう一度手を取られて、ララエがヒッと声にならない声をあげる。
そんなララエに聖騎士はさらに笑って、「大丈夫、何もしないよ」と囁いた。
「愛の女神は、同意無き者への無理強いは善しとしない。愛の営みは、互いの同意あってこそ成り立つものだからね。
さあ、部屋へ送ろう」
「で、でも、私……」
「こんな深夜に外をうろつくなんて見過ごせないよ。この神殿の夜は、愛を育む時間でもあるんだからね。
君は、そういうところにあまり居合わせたくないだろう?」
「育む……」
つまり、神殿内のあらゆる場所で……と思い至ったララエは、聖騎士に促されるままおとなしく歩き出した。
そのまま部屋へ戻されて、最後にもう一度指先にキスを落とされて……その気はないことを表明してるのに隙あらばという聖騎士の振舞いは、心臓に悪い。
扉が閉まった後もしばし茫然としたまま、ララエは窓の外を眺めていた。
だが、それはともかくとして、ハクロだ。
問題はハクロだ。
あの聖騎士の言葉によれば、つまり、神殿に入ったその日の夜にはもう、ということではないか。
真実の愛なんてあるわけないとは思っていたが、真実じゃない愛すら無かったってことじゃないか。
何それふざけてんの?
せめて一晩くらい自重しろよ。
後から後から湧き上がる、やり場のない気持ちをどこにぶつければいいのか。
ララエはふらふらとベッドに倒れ込むと、朝までひたすら枕を殴り続けた。
――それにしても、本当に、どうやって逃げ出そうか。





