水曜日の気まずいバイトは、存外悪くない。
俺と奈良坂は大学に入ってから知り合った。というのも、大学の学部が同じだけというつまらない理由ではない。いやつまらない理由ではあるがそれだけではないというのが正しいか。
確かに学部が一緒で、新歓の時にも彼女の姿を見かけなかったといえば嘘である。しかしながら、奈良坂という女が住む世界と俺が住む世界では根本的に異なっていた。
かたや、趣味が偏っていて偏屈な男。かたや、文学美少女。入学当時からその美貌でもって同じ学部の男子学生を虜にした女とチキンでヘタレで好きな子に告白することすら出来ていない俺とでは普通一度も会話することなくすれ違っていくだろう。そもそも、俺には高校時代の心残りがあったので彼女に対しての認識は同じ学科の綺麗な女子程度でしかなかった。
それが今のように軽い言い合いをするような関係にまでなった理由というのが、バイトだった。
奇しくもというかなんというか、俺のバイト先である個人書店。そこの一人娘が彼女、奈良坂社だったのである……
それをきっかけとして話すようになったはいいが、好きな本の趣味は合わないし俺はそれに対して無干渉だったのに対して、奈良坂は「どうしてそれがいいのかわからない」などと絡んでくるものだからどうしようもない。おかげでバイトの日は客が来るまで彼女と延々小説について議論を交わすことになったのだ。
まあ、意見が食い違いまくるし結構こっちもキツイ事を言うので仲良くなるどころか嫌いあっている状況に近い。断じて言うが、俺の方は彼女のことはそこまで嫌いではない。ちょっと苦手なだけである。ちょっとね。
で、どうしてわざわざそんなことをいちいち振り返っているのかというとだ。
今日がバイトだからである。
一昨日、奈良坂のことを怒らせてから――というか俺が悪いのかはわからないが――なんか一回サボったら大学行くのが怠くなって三日連続で講義をサボった俺は一言も会話をしていないわけで……
「おはようございます……」
「あら、バイトには来たのねさぼり魔さん。ご友人が苦労していたわよ、主にあなたの尻拭いで」
開口一番がそれとはこいつ果たしては常識がないな。
「挨拶もできねえやつと聞く口はねえ」
「……講義さぼってまで私から逃げたくせに」
「……すいませんでした」
今日の俺にマウントとって勝てる要素がなかったですね。はい。
いや、だって気まずいじゃないか。今までほとんど休んでないから三日かぐらいなら大丈夫だから、ちょっと間を置きたかったんだよ。
「ま、あなたのことだから小賢しいこと考えていたのでしょうけど」
「……ちょっと間をおけば、自然と怒りも落ち着くだろうと考えてました」
「へぇ……」
スッと冷たい視線が俺に向けられる。
「私、別に怒ってないわよ」
「……は?」
どんな罵声を貰うのかと思っていれば、告げられたのは意外な言葉だった。
「怒ってないわ。だって、あれほとんど癇癪みたいなものだもの」
「いや、明らかにそういう感じじゃなかったと思うんだが」
言いかけた言葉を止めて、「すまん」と言う。
せっかく奈良坂がなかったことにしようとしているのに藪を突くところだった。
「あなたの無神経さにはほとほと呆れるけれど、気づいたなら許してあげる」
そう言って心底呆れたように奈良坂はため息を吐いた。何かとため息が多い女である。
「それに、バイトには来てくれたしそれでいいわ」
「まあ、学校さぼっても授業料は減らないしバイトしなかったら自分の首を絞めるだけだからな」
また一瞬、奈良坂から冷たい空気を感じたが今度も彼女は普通に返事をした。
「……そうね。せいぜい馬車馬のように働きなさいな苦学生」
どことなく不機嫌そうな雰囲気を醸し出しながら、彼女はカウンターの奥に引っ込んでいく。
俺は俺で、彼女のその言葉に「へいへい」などと適当に返事をしてカウンターの中に入って荷物を置くと店長から貰った「奈良坂書店」と刺繍されたエプロンを来て、ネームプレートをつけて本棚の整理をしに向かった。
客が来た時は俺か奈良坂が対応をすればいいので、そこに常駐するのはひとりでいい。まあ、それも荷物番のようなものだった。
「それにしても……」
どうも思っていたほど気まずくはない。
仕事中に小説のこと以外で言い合いになったりしたら面倒だなという心配は杞憂だったようだ。
「あいつは本当にわからないなあ」
たかが数ヶ月の付き合いでわかった気になる方が無理だというのは百も承知だ。
ただふみかはあれで考えてることは普通に女子だし、大抵ならあいつにするような気の遣い方をすれば上手く付き合えるのだが……
それが通じない奈良坂は俺にとってどこまでも未知の存在で、正直いつもどう対応したらいいのか悩んでばかりだ。ふみかとは別の意味で面倒臭い。しかし、それでも……
「案外楽しいんだ、これが」
店内に響かないように小さく小さく呟いた。
奈良坂とつるむのは存外に悪くない。絶対に本人には言わないがそう思っているのも事実だった。