5.あの町の上、この町の空の下
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そこには、今もまだあの家があった。
耕太は塀の前に立ってそれを見上げた。その胸中は脱水症状を起こしたように欠乏した何物かに飢えて、きつく締めつけられていく。
仄白いモルタルの壁に、斜陽に光る青色の瓦屋根を頂いた瀟洒な外観。
当時からこの町には不似合いだった住宅は、依然として周囲から浮きだって見える。
しかし、外壁に架かった表札は、彼の知る『吉田』ではない。
──ユキちゃんな、こっちに帰って来とうらしいわ。
耕太は、浩二の語った言葉を思い出していた。
──今年の春ぐらいからかな。たまにユキちゃん似の人を街の方で見かけるんやって。
この家のキンモクセイは、ほかより咲き始めるのが遅かったのか、まだ疎らにオレンジ色の小さな花が残っている。記憶どおりの濃厚な甘い香りが鼻をくすぐった。
地面を見下ろせば、黒いアスファルトに枯れた花弁がうすく散り落ちていた。
──ミサキが教えてくれた。顔つきも昔とあんまり変らんで、あの大きい目の横に泣きボクロがあるんやと。ほれでも、あの子とはあんな別れ方やったけんな。結局見るだけで声はかけれんて……。
耕太は、外塀に指先を走らせながら、その家の周囲を巡ろうとした。
ざらついた白色煉瓦の表面が、錯覚であれ二十年前の感触と合わさったように思えた。
──ほれで、ほの人の連れとる子供、昔のユキちゃんにほんまそっくりってさ。顔つきとか背格好とか、よう肌が焼けとって活発そうなところとか、全部がユキちゃんと同じらしい。ほなけん、一目見て「あぁ、ユキちゃんなんや」って……。
しばらく歩くと、一段低い塀を越えて家の庭先が見えた。
ところどころの芝生が黄色く枯れ、カタバミやシロツメクサの葉が点々と群れていた。
この家の昔の住人であれば芝生のこうした状況を許さず、今もうまく除草していたことだろう。
彼の知る吉田家の母は、そんな女性だった。
──さすがに前に住んどった家には帰ってきてないけど、やっぱり生まれ育ったところが良いもんなんかなあ。わざわざ近くの町にや帰ってくるくらいやし。
視界の隅に何かが動いたように思い、耕太はふと視線を上げた。
視線の先にあったのは、ゆるやかな風に揺られる白いバスタオル。
あの子が家の前にいる彼を見つけてその場から逃げだそうとしたのかと思った。
耕太は白色の塀から指先を離して、自らの子供のような焦燥感に苦笑した。
当たり前だ。あの子は、もうこの町にはいないのだ。
「オレは阿呆だな、ほんとに」
耕太は、自らにそれを言い聞かせるように、ゆっくりとそう独り言ちた。
「……ほんとに、いつまでも、オレは阿呆なんだ」
耕太はコートのポケットに手を入れ、そこにあるはずのものに触れようとした。
だが、それに触れる直前に、彼の手は止まってしまう。
なぜか、それに触れたいとは思えなくなっていた。触れるのが、恐かった。
結局、その手は何を掴むこともできずにポケットから逃げだした。まるで見えもしない番犬の吠え声におびえた惨めな野良猫のように。
もう一度、耕太はかつて少女の住んでいた家を見上げた。
ガス状のうすいねずみ色の雲を背にして、鈍くなった艶を精一杯に見せる青色の瓦屋根。
けれど、真っ白に見えていた壁面は何度も白く塗り直された跡があり、窓枠から雷のように流れた亀裂が、年相応に老い始めた女郎のしわを思わせる。
磨りきれた群青色の鼈甲のかんざしを頭に刺して、老い隠しに幾重も上塗りしたおしろいの頬をさらす……未来に置き去りにされ、過去にしがみついた場末の花。
耕太は、一つの溜息とともに目を閉じてきびすを返した。
◆ ◆ ◆
次の日、ぼくはひどい熱を出した。
頭がすごくぼーっとして、からだ全体がだるかった。
とくに足なんか、ちゃんと体にくっついているのか心配になるくらいにだるかった。
間違えようもなく、それは夏かぜだった。
それでも、ぼくはユキちゃんのところに行こうとした。
今日、ユキちゃんの家にぜったいに行かなくちゃいけない、そんな気がしてならなかった。今しかないんだ、そう思った。
でも、お母さんやばあちゃんがそんなことを許してくれるわけもなくて、ぼくが玄関に向かおうとするたびに布団の上にぼくを連行した。
どんなにわめいてさけぼうが、ぜんぜん意味なんてなかった。
ついに、じいちゃんが怒った。この家に、ぼくの味方は一人もいなかった。
ぼくは布団にくるまれて泣いた。そのせいで、泣きつかれたぼくはいつのまにか眠ってしまった。
目が覚めたとき、もうお昼を過ぎていた。まだ頭がぼーとしていた。
けれど気持ちだけがどんどんと胸のあたりをけりつけた。
ばあちゃんが、おかゆを持ってきた。ぼくは、ばあちゃんにお願いをした。
──ユキちゃんが引っこすんじょ、ちょっとで良いけん行かせて! お願いやけん!
──ほんなん、あかん。
ぼくはまた叫ぼうと口を開きかけた。でも、ばあちゃんが言った。
──おかゆ食べて、くすり飲んでからでないと、あかん。
──ほれだったら、食べたら行っていいんやな!
──ほんなん知らんわ。動ける子をしばれるもんやなし。
ワッと笑顔の花をさかせて、ぼくは急ぎ足でおかゆを食べた。上のくちびるとベロをやけどした。
ぼくが玄関でくつをはこうとしているとき、ばあちゃんがぼくにハンカチをわたしてくれた。
昨日ユキちゃんが貸してくれた、水色のハンカチだった。
それはきれいに洗われていて、太陽の光でまだほんのり温かかった。
──ほれ、あの子のんだろ? ちゃんと返したげ。
やっぱり、ばあちゃんは味方だった。
ぼくはばあちゃんに見送られて、だるい体をなめくじみたいに引きずりながら、なんとか自転車をこぎだした。
必死にこいでいるはずなのに、なかなか前に進んでくれない。もどかしい。もどかしくてたまらない。でも、体がすごくだるい。そして、すごく暑い。頭の根っこがぼーっとした。
ユキちゃんの家が見えた。青い屋根のかっこいい家。いつもうらやましかった。
遠くからでも大きなヒマワリの黄色の花が庭の方で見えた。
つかれきった足は絹ごしトウフみたいに柔らかくて力がうまく入らない。
それでもぼくはペダルの上に立って最後の力をふりしぼった。
そこには、もう「吉田」の表札がなかった。
家の中にカーテンがかかっていなければ、家の外にタオルやパンツも干されていない。
おばちゃんの車もなければ、ユキちゃんの自転車だって、もうどこにもない。
ぼくは、呼び鈴を押した。でも、音がならない。
待っていても、だれも出てこない。
取っ手を引いても固い音がするだけで、ドアはこっちに開かない。
ぼくは勝手口に回って、さっきと同じようにドアを引いてみた。
やっぱり、ガチャガチャというだけ。もう、なにもなくなっていた。
もう、ユキちゃんは、ここからいなくなっていた。
ぼくの二本の足から、立っているだけの力が抜けてしまった。タイヤの空気が抜けるときのプシューという音が太ももからしたように思った。ぼくは芝生に寝ころんだ。
青い空を背中にのせてあやしているみたいに、ヒマワリの花が左右にゆっくりとゆれている。
花びらが半分くらい茶色くなっていた。もう、夏も終わりだった。
ぼくのほっぺたを、涙がくすぐって落ちていく。
気がついたら、ぼくは泣いていた。
ぼくは、ユキちゃんが大好きだった……。
◇ ◇ ◇
耕太は、橋の中央に立って欄干に寄りかかった。
ゆるやかな川面に映るのは、あまりにも見慣れた自分の顔。けれど、その顔をこの町は知らない。この町が知っているのは、ここに生きていたはずのもう一人の誰かだ。
冬が近づくにつれ、小便川は次第しだいに細まっていく。そうして川縁が広がっていくと、アシやススキなどのイネ科の植物が川端に住みつき、寒風に揺れて物悲しげな賑わいを見せはじめるのだ。
耕太はこの川の正式な名前をまだ知らない。彼にとって──彼らにとって、この川はあくまでも「小便川」だった。
ただ、なぜこの川が「小便川」と呼ばれたのか、今ではよく思い出せない。この川が小便みたいにちょろちょろと流れるからなのか。あるいは、皆がこの橋の上に一列に並んで小便をしたからだったか。
耕太は眉を寄せた。一つの川の名前にも、その記憶はおぼろげだった。
しかし、理由がどうあろうと、この町で育った彼らにとって、この川が「小便川」であるということに違いはなかった。
少年は、この町に生まれ、この町に育った。だがそれ以上の時間を、ずっと遠くの町で生きた。そうして、いつちか少年は大人になっていた。
たった十二年間であれ、少年はこの町に生きていた。
たった四千三百八十回ほどであれ、少年はこの町で目を覚ました。
たった十万五千百二十時間なのかもしれないが、少年はこの町を駆けぬけた。
そして、少年はその小さな手に幾ばくのものを掴んだはずだった。
あのときの少年は、今その大きくなった手をつよく握りしめてみる。
いったい、どれほどのものが、今もこの手の中にあるというのだろうか……。
耕太は、ポケットの中に手を入れた。次は、そこにあるものを握ることができた。
ポケットからそれを取り出して、眼下に見つめながらゆっくりと開いていく。
そこには、ちゃんとあの鍵があった。
円形の丸い鍵の頭に、青緑色の小さな錆の群れ。何の変哲もない、古びただけの鍵。
ただ、その鍵が入るべき鍵穴はどこにも見つからない。はたしてその鍵が何であったのか、もうわかるはずもない。だからこそ鍵を強くつよく握りしめた。
そして、小さく出した左足を地面に噛ませると力の限りに空へと投げた。それは山なりの弧をなして空を昇り、きらりと光ることもなく川面に落ちた。
肌寒い乾燥した空気に、この川にすら気づかれず、いつしか誰からも忘れられてしまうほどに小さな音が鳴った。
そのとき、それを待ち受けていたかのように携帯電話が鳴りはじめる。
画面には「コウジ」と記されていた。小さな深呼吸をしてから耕太は通話ボタンを押した。
──まだこの町におるんだったら、嫁の車で駅まで送らせるけど、どうするで?
──ほれだったら、キタジマと逆の方の橋におるけん、お願いできるで?
──なんか、あったん?
──ううん、なんもないよ。
終話ボタンを押してもう一度小さく息を吐いた。きっと浩二たちがやって来るまであまり時間はかからないだろう。
耕太は欄干に背を預けて空を見上げる。
頭上はあいかわらず色の薄い雲に覆われて、晴れなのか曇りなのかはっきりとしない晩秋の空が広がっていた。
だがしかし、刻々とその顔色を変えてしまおうとも、それは彼がこの町でいつか見ていた空と、ずっと変わらない。
──そうだ。ぼくはユキちゃんが大好きだった。
この空は、あの町の上にもある。けれど、この町の空の下は、ここにしかない。
──そして、ぼくは、この町が大好きだった。