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4.ある夏の日の逢瀬

   4


 キーンコーン、カーンコーン。

 頭の上でチャイムがうるさく鳴った。

 するとすぐに隣の教室のドアが開いて、スズメみたいな鳴き声をあげながら下級生が走っていく。

 今日は、夏休み最後の登校日だった。

 ぼくは、チャイムが鳴っても席に座ったままぼうっと黒板を見ていた。

 けれど、べつに何かを読んでいたわけじゃない。

 黒板のはしっこに書いてある「8月22日(木曜日)日直 佐藤」に視線を向けているだけ。

 朝の学活のとき、ユキちゃんが転校することを知った。でも、教室には肝心のユキちゃんはいなかった。担任の先生は、さびしそうな顔をしてぼくたちにそれを教えてくれた。

 そのはずなのに、ぼくにはその顔がすごくうそっぽく見えた。

 それを聞いてざわついたクラスメイトたちも、たぶんみんな先生みたいなうそっぽい顔をしていたんだろう。このとき、ぼくは初めて一番前の席でよかったと思えた。


「なあ、シゲ。昼ごはん食べたらオレんち来んで?」


 いすに座ったままふり返ったら、そこにはコウヘイが立っていた。その後ろにはコウジもいた。

 コウヘイはぼくを見てにへらっと笑い、コウジはそっぽを向いていた。


「あんな、昼からみんなで集まって、夏休みの宿題かたづけようって話なんよ。サトウとかミサキも来るし、あいつらに手伝ってもらったら宿題やすぐに終わるだろ? ほれが終わったら、久しぶりにみんなで遊ぼうだ。な、良いだろ?」


 ぼくは、となりの席のミサキをふり返った。

 ミサキはぼくがふり返ると思わなかったのか少しびくっとふるえて、ランドセルに本やドリルをつめる作業に戻った。


「どうしようかなあ」


 そう言ったものの、ぼくには初めから行く気なんてさらさらなかった。


「やっぱりごめん、今日は行かんわ。うちでちょっと用事あるし」


 コウヘイの顔は、お(めん)みたいに何も変わらない。ちょっとだけ笑っている。でも、そっぽを向いていたコウジの顔は、さっきよりちょっと怒っているように見えた。


「用事やほっといたら良いでえ。せっかくなんやけん()いだ。さいきん、ぜんぜん遊んでないでえ」

「ごめんだ。ちょっと、いろいろあるんよ。ほなけん、また今度な」

「どうせ、ユキちゃんと遊ぶんだろ」


 こっちを見ないでコウジがぼそっと言った。

 ぼくは、すぐに「ちがうし!」と言おうとした。でも、ちょうどそのときコウヘイがぼくの肩をぐっとにぎったせいで、ぼくはそれを思わず飲みこんでしまった。


「なあシゲ。もうユキちゃんと遊ぶんはやめとけって。シゲがワルモンみたいに見られるんじょ? わかっとん?」

「なに言よん? ユキちゃんはなんもワルうないでえ」と言ったぼくの声は少しずつ大きくなっていった。「ワルいんはお金や取んりょったおっちゃんだけでえだ。なんでユキちゃんまでワルモンになるん!」

「シゲこそ、なに言よん。おっちゃん、町のお金取って捕まったんじょ? ゼーキンドロボーなんじょ? あかんの決まっとんでえ」


 ぼくと同じようにコウヘイの声も大きくなっていく。もう、ぜんぜん笑っていない。


「ほなけん、ほんなんはユキちゃんにぜんぜん関係ないでえだ。ちゃうん?」


 ぼくはコウヘイの指をほどいてはらい落した。


「ドロボーは、子どもにうつるんじょ」


 コウジがぼくを見て言った。いつもよりちょっと強気になっていたけれど、やっぱりぼくのきげんを確かめるみたいなおくびょうな目つきは変わらない。


「ほんなん」ぼくはつばを飲んだ。「ほんなん、自分が取らんかったら良い話でえだ」

「やけん、物取ったりするんはうつるんじゃって。知らんのか?」


 コウヘイがばかにしたような顔をする。


「ほんなん、オレは知らんわだ!」


 ぼくは立ちあがって叫んだ。コウヘイが机をガタっと鳴らして後ろに一歩さがる。コウヘイもコウジも、だまってしまった。


「ほれだけちゃうでえ……」


 ぼそぼそっとした小さな声だったが、ミサキがとつぜん口を開いた。その声はサボテンのハリみたいにちくちくととがっていた。


「おっちゃん、ユキとおばちゃん捨てて、ほかの女の人といっしょだったんじょ。知っとん?」

「ほなけんな、なんでほんなんがユキちゃんに関係あるんなだって、オレは言よんじゃって! ほれやってえ、おっちゃんだけでぇ、ワルいんは!」


 ぼくはすごくくやしかった。

 でも、何かもうどうでもよくなってきていた。

 こいつらにとって、もうユキちゃんは友達じゃないんだ。そう思えたから。


「だったら、コータくん、さいきんユキと何しよん?」


 ミサキはぼくの首あたりをにらんでいた。その目がたまにぼくの目をちらっと見ても、またすぐに首の方をにらんだ。


「ほんなんべつにええでえ。ふつうに遊んびょうだけじょ」

「ほれだったら、何して遊んびょん?」


 ミサキの声はいつもみたいに小さいのに、その声にはふしぎな強さがあった。


「なんで、二人だけで、あんまり人がおらんところばっかり行っきょん?」

「べつにほんなところばっかり行っきょれへんし。ほれよりなんで、ほんなことミサキが知っとん?」


 ぼくは、平気なふりをして言った。

 ミサキはなにも言わないで、メガネごしにぼくの首もとをじいと見ているだけだった。まるで穴の中に隠れてしまったザリガニみたいに、ミサキはいつもぼくの前に出てこようとしない。


「ほんまに、ユキちゃんと何しよん?」


 コウヘイがぼくをにらんで言った。ぼくはコウヘイをにらみ返す。ぼくも、だれも、なにも言わない。


「もういい。オレ、帰る」


 ぼくはそう言って教室を出ようと足をふみ出した。

 コウヘイとコウジが道をあける。横を通るとき、コウヘイはすごくくやしそうで、コウジはちょっと悲しそうに見えた。

 ぼくはランドセルを手にして教室から走り出した。机の中に入れてあった宿題のドリルも忘れて。



   ◆ ◆ ◆



「また今日もソーメンなん?」


 台所には、ソーメンのもられたザルが置かれていた。風鈴の音がりんりんと鳴る。


「さきに手え洗ってきないよ」


 ばあちゃんの背中がそう言った。ざくっという音がして、スイカがまな板の上で半分にわれた。また、スイカだった。

 ぼくはおはしを取ってソーメンを食べはじめる。

 ダシがぬるかった。干しシイタケと干しエビの味が、なんかほこりっぽい。

 夏休みになってソーメンを食べた回数はイカの足だけじゃ数えられない。たぶん、タコの足も借りてちょうどいいくらい。


「コータ、手え洗ったんえ?」


 ばあちゃんがスイカをのせた大皿を机に置いた。


「ほんなん、帰ってすぐ洗ったよ」もちろん、うそだ。「ほれより、母さんはどしたん? 今日は仕事が休みだったんちゃうん?」

「お昼前に街の方に買い物に行ったけんなあ、帰るんは晩にちこうなるんちゃうで」

「うそお。母さんまたマチに行ったんえ。休みなんやけん家におったらいいのに」


 ぼくはソーメンをすする。お昼ご飯が今日もソーメンだからにげたのかもしれない。

 ばあちゃんはちょっとふしぎな笑顔でイスに座った。歯の間に物がはさまったような何とも言えない笑い方だった。


「ほれだったら、じいちゃんはどしたん? どっか行っとん?」

「将棋打ちに行っとうけん、きりのいいとこで帰ってくるんちゃうで」


 ばあちゃんは、えだ豆のさやを枝からもぎってはひょいひょいとピンク色のボウルに入れていく。

 ソーメンには手をつけない。ばあちゃんは、いつもどおりじいちゃんが帰ってくるのを待つみたいだ。

 また風鈴がりーんと鳴った。ぼくはずるずるとソーメンをすすり、ばあちゃんはぷちぷちとえだ豆をもぎる。いつもどおりの、飽きあきするような夏だった。


「コータ」


 ばあちゃんが枝豆をもぎりながら言った。


「なに?」


 ぼくはスイカの種を指でほじりながら答えた。


「コータは、ヨシダさんとこの女の子と仲ええなあ」


 またか、ぼくはそう思った。なんで今日はユキちゃんの話題ばかりなんだ。もう放っておいてくれよ。


「ほれがどしたん」


 ぼくはスイカにかぶりつく。


「ちょっと前まではよおうちにも来よったけど、いま元気にしとんえ、あの子?」

「なんも変わらんよ」


 かみつぶしてしまったスイカの種をお皿にプッと吐きだした。


「ほうで、ほらよかったわ」


 ばあちゃんは、えだ豆を取り終わるとその枝を折って新聞紙にくるんだ。


「つらいんはあの子らやけんなあ。ほんま、あかんなあ」


 ぼくはおどろいてばあちゃんを見た。


「ばあちゃん、ユキちゃんの味方なん?」

「こんなもん、味方もへったくれもあるかいな。わるいんは誰で?」


 そう言い残すと、ばあちゃんはうら戸から外に出ていった。

 ぼくはなんだかうれしくなった。

 こんなことになる前から、母さんはユキちゃんのことがきらいだった。母さんはだいたい元気な子がきらいだったから。

 でも、ばあちゃんは違った。前からユキちゃんのことが好きだった。そして、おっちゃんがワルモンになってもユキちゃんの味方でいてくれた。ばあちゃんは、ずっとイイモンだった。

 そのとき、居間の時計が一回鳴った。ぼくはハッとして立ちあがる。

 食いさしのスイカをお皿に置いて玄関に走った。すでに約束の時間になっていた。


「もう出るんか。早いなあ」


 ぼくが自転車にまたがるのと同時に、帰ってきたてのじいちゃんが声をかけてきた。頭にはむぎわら帽子、首には白いタオル。いつもどおりの夏のじいちゃんだ。


「うん、いってくる」


 ぼくは自転車をこぎだす。


「おお、気いつけてなあ」


 じいちゃんが後ろで手をふった。

 ぼくは自転車のサドルにも座らず、ずっと立ちっぱなしでこぎつづけた。

 コウヘイたちの家の前は通りたくなかったけど、ぼくはそこも一気に走りぬける。遠回りなんかしていられない。

 ちらっと玄関の前を見ると、まだみんなの自転車はなかった。窓にも庭にも、だれの目もなかった。ぼくは少しほっとしてその前を走った。

 鳥居の下に、ユキちゃんの自転車はなかった。

 ぼくは自転車からおりて何度も大きく息をすう。

 おでこや背中にぷっくりと汗が粒になって出てきた。頭の中は川でおぼれそうになったみたいにぐるぐる回る。それでもぼくは石階段をかけあがった。

 おいなりさん。キツネ神社。あぶらげ神社。あきないさん……。

 ぼくたちの間でも、この神社の呼び方はいろいろあって、これといって決まっていない。

 そして、その神社の前に、ユキちゃんは座っていた。ひざとひざの間に顔をはさみこんで、まるでボールみたいに丸まっていたユキちゃんは、ぼくの足音を聞きつけて顔を上げた。


「ごめん!」


 ぼくはそう叫ぶ。そして、走った。

 ユキちゃんはおしりを手ではたきながら立ちあがった。

 その顔はぜんぜん怒ってなんていなくて、むしろちょっと笑っていた。

 ぼくの心臓はばくばく鳴りつづけていた。


「ちこく」


 ユキちゃんがうそっぽくすねた。


「ごめん」


 ぼくはひざに手をついて、かたをゆらしながらたくさん息をすってはその分たくさん息をはいた。


「うそ、うそ。いいよ、べつに。ぜんぜん気にしてないし」


 ユキちゃんは小さく鼻をすすった。ぼくは顔を上げた。

 ユキちゃんの目がちょっと赤かった。きっと、泣いていたんだ。


「転校するって、ほんまなん?」


 ぼくは、もう一度大きく息をすう。


「……うん。ほんま」


 ちょっと答えるまでに間があった。


「いつ、おらんようになるん?」


 また、ぼくは大きく息をすった。


「たぶん、ほのうちやと思う」

「ほのうちって、明日とか、明後日とかなん?」

「たぶん」

「ほれやのに、なんで……なんで今まで、ほんなことぜんぜん言うてくれんかったん?」


 ユキちゃんはちらっとぼくの方を見るだけで、なにも言ってくれない。

 友達のはずなのに、今までなにも教えてくれなかったことが、すごくくやしかったし悲しかった。

 でも、そんなくやしさとか悲しさ以上に、セミの声にすら押しつぶされてしまいそうなくらい弱々しくなったユキちゃんに、ぼくは何も言えなかった。

 ユキちゃんは元気に笑っていないと、やっぱりユキちゃんじゃなかった。


「今日、登校日やったのに、ユキちゃん学校に来んし」

「ほなって、転校するのに夏休みの宿題や出したってしょうがないでえ」

「ほんなん言うても……」


 そうすぐ言い返したものの、ぼくはそのまま口を閉じた。

 帰りの時間に、コウヘイたちと言い合いになったことを思い出した。やっぱり、来なくて正解だった。


「ほれよりな、わたしの自転車、もうひっこし屋さんに持っていかれたんよ。今日の朝、先に持って行かれた。おかしいだろ、わたしより先に物だけ行ってもうて」


 ユキちゃんは笑ったけれど、夕方の空みたいにさびしそうだった。


「ほなけんな、あんまり遠くに行けんのよ。今日は遠くの方まで行こうって言よったのに、ほんまにごめん」

「ほんなん、オレの後ろに乗ったらいいよ。今日、あっちの道路の下まで行くんだろ?」


 ぼくは後ろにあるはずの高速道路を見もせずに指さしてそう言った。


「ほなけど……」

「ほなけども何もないって。ユキちゃんは、あれをかくさないかんのだろ? ほれだったら、気にせんと行こうだ」


 ユキちゃんは下を向いて地面を見ていた。その目は、まだ少しだけ赤い。


「ほんまに、良いんかな……」

「良いに決まっとんで!」


 ぼくはユキちゃんの分もなるべく元気よく声をあげる。元気を分けてあげたくて。


「うん、わかった。ほれだったら、行こう、あっちまで」


 やっとユキちゃんがちょっとだけ笑った。ほっぺたにのった小さなホクロがかわいくおどった。


「お願いな、コータ」

「おう、まかせろだ」


 ぼくもようやくニコリと笑えた。

 そうしてぼくたちは神社を出て石段を降りた。見なれたぼくの自転車だけがぽつんとあった。

 ぼくが自転車のサドルに乗ったあと、ユキちゃんも後ろの部分にまたがった。

 ユキちゃんの手が、わき腹をつかんでちょっとくすぐったい。

 そのとき自転車が後ろにすこし持っていかれそうになったから、ぼくはハンドルをぎゅっとにぎって前に体重をかけた。


「ほな行くけど、いいで?」

「うん、いいよ。レッツ、ゴー!」


 ぼくは、一度大きな息を吹きだして、ペダルにおいた右足に力をぐっと入れた。太ももの筋肉が固くなった。そのまま思いきりふみこむ。ゆっくりとペダルが沈んでいく。それに合わせて自転車が少しずつ前に進みだした。

 ユキちゃんが船をこぐみたいに両足を使って地面をかいてくれる。ハンドルがふらふらとゆれて、なかなかまっすぐ向いてくれない。それでも、ちょっとずつスピードが出てくると自転車はまっすぐに進みだした。こうして、ぼくたちの小さな旅が始まった……。

 山の近くの道は下り坂になっていたから楽だった。

 そのまま上り坂にあたらないように道をえらんでぼくたちは進んでいく。

 見上げた空はほんとうに真っ青で、かき氷のブルーハワイみたいだ。そこにれん乳みたいな入道雲がべっとりくっついている。ブルーハワイのかき氷にれん乳は合わない。でも、まだまだ今が夏なんだって思えた。

 もちろん夏だから、やっぱり暑い。汗がたっぷり出てくる。

 でも、いまは風が横ぎってすごく気持ちいい。

 段々畑(だんだんばたけ)には、もう黄色いつぶを垂れさせた田んぼもあれば、まだ緑色のままの田んぼもあった。

 その横をぼくたちの自転車が通りすぎていくと、田んぼの(いね)もさーっという音をたてながらゆらゆらとゆれた。


「ごっつい気持ちいいなあ」


 ぼくは大きな声で言った。


「うん、ごっつい気持ちいい」


 ユキちゃんも、風の音に負けないように大きな声でさけんだ。

 やっとユキちゃんの声が、いつもみたいに明るくはずんでくれた。

 こがなくてもどんどん前に進んでくれた坂道が終わって、ぼくたちはしょうべん川の横を走りだした。

 川の水はぼくたちと同じ方向にゆっくり流れていく。しょうべん川の流れより、ぼくたちの方がずっと早い。

 けれど少しずつペダルが重くなってきた。ぼくは体を上下にゆらしながら自転車を走らせていく。

 ミサキの家の前を通るとき、ちらっと玄関の方を見てみた。ミサキの小さなピンク色の自転車があった。まだコウヘイたちの家には行っていないみたいだ。

 ぼくは、そこから早くはなれようと力いっぱいこいだ。ミサキの目がぼくたちを見つけないうちに。


「なあ、コータ」


 ユキちゃんの声は、後ろに向かって聞こえた。たぶんミサキの家を見ながら話しているんだろう。


「わたしが転校するっていうたら、みんな、なんか言よった?」


 ぼくは必死に自転車をこぐふりをして、肩をゆらしながらいろいろ考えてみた。


「え、なんて言うたん?」


 でも、結局、ぼくは聞こえないふりをした。

 面白くもない勉強ばっかりで、こんなときなんて言ったらいいのかなんて、学校では教えくれない。へんな言い合いになったことなんて、ぜったいに言えっこない。


「……ううん、なんでもない」


 ユキちゃんはもう一度聞いてこようとはしなかった。

 ぼくたちは、となり町に入るくらいのところまでやって来た。

 けれど高速道路はまだまだ遠くに見える。神社から見ていたときと、見える大きさがあまり変わらないように思えてならない。

 少しずつ町の雰囲気が、変わってきた。

 やっぱりとなり町とぼくたちの町は、ぜんぜん違って見える。

 田んぼも畑も少ないし、建っている家もなんか違う。道路だってきれいな黒色だ。

 どんどん町からはなれていけば、どんどん違う町になっていく。

 お母さんが行っている街まで行ったら、ぼくたちの町とはぜんぜん違う世界になる。

 このとき、ぼくはすでに汗だくだった。

 もう足がつかれてきていて、体を左右にふらふらさせながらゆっくりとペダルをふんだ。

 たまにユキちゃんが「せこうないん?」「いけるん?」と声をかけてくれた。

 ぼくはそのたびに「せこうやないよ」「いけるよ」と言ってちょっと早めにこいで見せた。

 ほんとは、ぜんぜんいけるわけなんてなかったけど、そんなこと言えない。

 だから、スーパーが見えたとき、ユキちゃんが「おしりが痛いけん、休みたい」と言ったのは、たぶんぼくを休ませたかったからなんだと思う。

 それがちょっとくやしかったけど、ぼくも本当に休みたかったから、スーパーの前に自転車を止めた。


「ところでな、ユキちゃんが引っ越すとこって、どこなん?」


 ぼくは、スーパーの自販機の前に座りこんだ。

 ファンタオレンジを半分くらい一気に飲んでやっと落ちついた。でもすぐに汗が出た。


「ここからずっと遠いところ。セトナイカイをこえたとこ」

「うそお、ごっつい遠いでえ」


 ぼくはおどろいてユキちゃんを見た。


「ほれだったら、もう会えんようになるんかなあ……」


 ユキちゃんは自販機に背中をつけて立っていた。

 その目は、車道を走る車をぼうっと追いかけているようにも見えたけど、たぶんなにも見ていない。


「うん、もしかしたらもう会えんのかもしれん……」


 ユキちゃんがファンタグレープを一口飲んだ。しぶそうに、まゆ毛が寄った。

 きっとジュースの泡がつーんとしたんだと思う。それを見たせいで、ぼくの鼻もつーんとした。

 スーパーに入っていくおばちゃんたちが、たまにちらちらとこっちを見ていった。

 ぼくが気づいてそっちを見たら、みんなぷいっと前を向いてスーパーの中に入って行ってしまう。

 ぼくは残りのジュースをぐいっと飲みほした。


「ほな、そろそろ行こう」


 ぼくはおしりをたたきながら立ちあがる。


「まだ休んどっていいじょ? ぜんぜん休んでないだろ?」

「いけるよ。ユキちゃんがジュース飲みきるまで、ゆっくり歩っきょったら休めるし」


 ぼくは自転車のハンドルをにぎって歩きだした。ちらっと後ろを見るとユキちゃんは後ろをついて歩きだしていた。

 ぼくは、うら道に入って山のふもとを歩くことにした。ユキちゃんはなにも言わずついてきた。

 山ぎわに近づくにつれて、となり町にだって、まだまだ田んぼがたくさんあることを知った。

 ウシガエルの声だって、ヒグラシの声だって聞こえる。

 遠くの方をじっと見つめれば、ぼくたちの町に建った火の見やぐらだってぼんやりと見えた。

 その反対側にはちゃんと目的地の高速道路も走っている。いも虫みたいに足を地面に生やした道路は、ぼくたちの町から見たときよりもずっと大きく見える。


「どうして、コータはわたしにやさしくしてくれるん?」


 その声は、近くにいるはずなのに遠く聞こえた。


「ほんなん、友達なんやけん当たり前でえ」


 ぼくは、ユキちゃんに届くように大きな声で言った。


「ほれだったら、みんな友達でなかったんかなあ」


 ユキちゃんは、ぼくと並んで歩こうとはしないで、二歩か三歩分だけ後ろを歩いた。だから、ぼくはちょっとふり返って声をかけた。


「ほれはちゃうよ。あいつらやって、ちゃんと友達だったでえ? ほなけど、なんて言うたらいいんだろ。どう言うたら良いかわからんけど、みんなやってユキちゃんと仲直りしたいんよ。でも、ほのタイミングがようわからんようになってしまっとうだけなんよ」

「ほれだったら、今日、マリなんか言よった?」

「……なんも言よれへんかったけど。なんで、ミサキの話になるん?」

「マリ、コータのこと好きやもん」


 ぼくの足がかたまった。ユキちゃんがなぜそんなことを言ったのか、ぼくにはその意味がぜんぜんわからなかったから。

 でもユキちゃんは歩く足を止めなくて、どんどんぼくの前を歩きだしてしまう。

 ぼくは急いでユキちゃんの横に並んだ。


「ほなけん、わたしとコータが遊んびょん知ったら、マリぜったい怒るもん」

「ちゃうよ、ミサキはコウヘイのことが好きなんじょ。あいつら、いつもよう話ししようし、すごい仲いいでえ」

「ほれこそちゃうよ。マリ、ぜったいコータのこと好きやもん」

「ほなけどオレ、ミサキのことや、ぜんぜん好きちゃうし!」


 自分が思っているよりも、ずっと大きな声が出ていた。ユキちゃんが少しおどろいてぼくを見た。

 日焼けした茶色のほっぺたと正反対に、ビー玉みたいに丸っこい目がぼくを見ていた。

 ぼくはその目をずっと見ていられなくて、勢いよく自転車にまたがった。


「もうジュース飲んだだろ? 自転車で行こう」

「まだジュース、残っとうし」

「ほれだったら持ったままでもいいけん。まだまだ道はあるんじょ?」

「もう。せっかちさんやなあ、コータは!」


 そう言ったユキちゃんの声は、ちょっと笑ったようにはねて聞こえた。

 ぼくがふり返ろうとしたら、ユキちゃんは空き缶を自転車の前かごに投げ入れると、ぼくからかくれるように自転車の後ろにまたがった。すでにジュースは飲みきっていたらしい。


「ほな、二回目の、レッツ、ゴー!」


 ユキちゃんが地面をかいて自転車を押し出した。

 ぼくもちょっと笑って、ペダルをふみこんだ。背中に置かれたユキちゃんの手はしっとりぬれていた。

 ぼくの両足は、あいかわらずすごくだるい。ふみこむ力が弱いせいで、うまくタイヤに勢いがつかない。そのせいか、ハンドルもふらついて、何度も横むきに転びそうになった。

 それでもぼくたちはそのたびに笑っていられた。すこしだけペダルの上に立つようにしてこぐと、ようやくぼくたちの自転車はまっすぐ前を向いて進みだした。

 近くの庭から、風鈴の音が鳴った。

 大音量のテレビゲームの音と、男子たちのさけび声も聞こえる。

 やっぱり、となり町もぼくたちの町と同じ夏みたいだ。

 ぼくたちは、のろのろと山ぎわの道を走っていた。

 けれど、しばらくすると山の木々が葉っぱをゆらしてかさかさと鳴りはじめた。

 セミの声も、少しずつ遠くなっていく。

 そして、しめった花だんの土のような臭いが辺りに広がりだした。

 きっと雨がふりはじめるんだ、そう思ったときにはすでにマシンガンのような音が近くまでせまっていて、気がつくとぼくらをその中に飲みこんでいた。


「うわ、ごっつい雨がふりだした!」


 ぼくは思わずさけんだ。

 そのとき、ぼくの体が右側にぐらっとバランスをくずれた。

 ユキちゃんはすぐにうまく体をそらして自転車からとびおりてくれる。

 ぼくも、それと同時にハンドルから手をはなして飛びおりた。

 ガチャンという固い音をたてて、自転車がたおれてしまう。


「あそこ! あそこの小屋に行こう!」


 言うが早いか、ユキちゃんはぼくの手を取って走り出していた。

 雨ごしに見ると、田んぼのはしっこに小さなトタンのポンプ小屋があった。

 雨の中を走りぬけている間、むきだしの頭や手を大きな雨粒がいたいほど打ちつけた。

 正面の空は油絵のような青さなのに、ぼくたちの頭の上にはもこもことした重たい雲が乗っかっていた。

 小屋の前に着くなりユキちゃんが手早く引きぬき式のカギをあけて、ぼくが戸を開けた。

 のぞいた小屋の中はうす暗かった。さびた小さなポンプと簡単な農具があるだけで、ぼくたち二人が入るには十分のすきまがあった。

 天井からは小だいこを叩くみたいにダダダダダという音がずっと鳴りつづけていた。


「なんで、こんなときに雨がふるかなあ」


 ぼくは、小屋に入ると同時に地面に座りこんだ。その勢いで前がみから鼻先に水の粒が落ちてきた。

 Tシャツもズボンも、パンツだってびしょびしょだった。


「はい。これ使って」


 ユキちゃんの手にはハンカチがあった。


「いいよ、べつに。こんだけぬれとったら、どこふいても同じやし」

「ほなけど、頭だけでもふいときいだ。カゼひくじょ?」


 ユキちゃんはそう言うとぼくの頭の上にひょいとハンカチを落とした。

 ぼくは頭からハンカチを取ってつき返そうとしたのに、ユキちゃんはもう一枚のハンカチで自分の顔をふくばかりで受け取ろうとしなかった。

 手の上に水色のハンカチが残った。しかたなくぼくもそれで顔を少しふいたあと、また頭の上にのせた。


「すぐ止むんかなあ」


 ユキちゃんがぼくの横に座った。たぶんぼくのマネなんだろう、自分の頭の上にハンカチをのせた。


「たぶん通り雨やし、すぐ止むよ」


 けれど、雨はなかなか止まなかった。

 ぼくたちは、開いたドアのすきまから空を見上げた。

 白いような黒いようなよくわからない色をした大きな雲が空をのろのろ泳いでいた。

 雨はそこからずっと下のこの地面にいきおいよく落ちてくる。

 道路の真ん中に横たわったぼくの自転車は、そんな数えきれない雨にバシバシとたたかれている。

 二人ともだまったまましばらくして、ユキちゃんがポケットからあのカギを取り出した。

 この一週間くらいずっと見つづけていたカギ。ぼくとユキちゃんの友達のあかし。


「なあ、コータ……」


 ユキちゃんは手のひらにのったカギをじっと見ていた。


「なに?」


 ぼくも横からそのカギをじっと見た。


「コータは、どうして、わたしにやさしいん?」


 ユキちゃんは、また同じことを聞いた。


「ほなって」


 ぼくは小屋の外を見た。あいかわらず雨は止まない。


「友達なんやもん」


 じっと見ていると、いつのまにか外の雨はお昼ごはんのソーメンみたいに細くなっていくのがわかった。天井のたいこの音も少しずつだけど弱くなっていく。


「うん。わたしたち、ずっと友達なんやな」

「うん。ほら、オレらずうっと友達じょ」


 風が吹いて稲の葉っぱがこすれ合う音が、すうっと遠くに流れていった。雨の音が急に止んだ。


「なあ、コータ。手、出して」


 そう言ってユキちゃんがぼくをじっと見た。


「どしたん?」


 ちらっとユキちゃんの顔を見て、目が合ったからすぐそらした。


「いいけん。手出して」


 ぼくは、右手を上向きにしてユキちゃんにさし出した。

 そこにユキちゃんのぎゅっとにぎった右手が置かれる。

 ユキちゃんの右手は冷たかった。

 しばらくそうしていたと思うと、とつぜんその手がぱっと開いた。

 ぼくの右手にカギがのっていた。


「そのカギ、コータが持っといて」

「え、なんで? 大事なんちゃうん?」

「うん。大事なカギやけん、コータが持っといて」


 ぼくは、自分の右手を見た。

 すこしだけユキちゃんの温もりが残る鍵が、たしかにそこにあった。


「ほんでも、あの道路、もうすぐで行けるんじょ?」

「……いいんよ。もう、行かんでいいんよ」


 ユキちゃんは立ちあがって小屋の外にかけだした。ぼくもそれを追って立ち上がる。

 二人のハンカチが地面に落ちた。ユキちゃんがくるっと回ってぼくにふり返る。


「わたしな、ほのカギ、コータに持っといてほしい」


 ぼくは立ち上がったまま、外のユキちゃんを見ていた。


「ずっと、ずっと、ずうっと先、わたしらが大人になるくらい、ずうっと先。わたしがほのカギがいるっていうときまで、ほのカギ、コータが持っといて」


 雨上がりの地面がきらきらと光っていた。

 それなのに、ぼくのいる小屋の中はうすぐらいまま。

 だから、ユキちゃんがすごく、すごくまぶしく見えた。

 ぼくは右手をにぎりしめてみる。

 カギのぎざぎざが手にささった。ちょっと痛い。

 それでも、ぼくはぎゅっとにぎった──それが、ぼくたちの約束だった。


「わかった。オレが持っとく。ユキちゃんがいるって言うときまで、ずっと持っとく」

「ほんまに、ありがとう。コータ」


 そうして、ユキちゃんが笑った。

 地面の雨玉なんかより、夕暮れどきの一番星なんかより、ずっとずっとまぶしいくらいに笑った。

 それが、きっとぼくの見た一番初めで、そして、一度きりのユキちゃんの笑顔だった。


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