祝祭前夜、前
一晩明けた今日はヴェルーノ・フィレーネフェスティの前日にあたる。
旅行者が自分の国へ帰る最終日でもあり、フィレーネ王国の国民と招かれた客人が前夜祭を楽しむ日でもある。
……結局、昨日の晩はあまり眠れなかった。その分、私のやりたかったことは捗ったけれど。
あくびを噛み殺して自分の身支度を整え、それから簡単な朝食を済ませた私たちは、見送ってくれるアリーチャとニコラウスに手を振って屋敷を後にした。
「……ニコラウス様、物凄く恐縮していらっしゃいましたね」
「それもそうだろう。完璧なメイドだと思って接していた女性が、伝承の花姫様だったともなればな」
そう言って笑うシルヴィオはもういつも通りで、流れていく景色を楽しそうに眺めていた。
予定として聞いていた通り、私たちの乗る馬車はお城ではなく、プリンチペッサの街へと向かっている。
「さて、そろそろ頃合いか」
道中でそう呟いたシルヴィオが、懐から出した葉で自前の銀の髪を淡い緑へと染め変えていく。
以前に見た時と使用する葉の色が少し違うからか、染まった色味もまた違って見えた。
何度見てもやはりその光景は不思議で美しく、私は見惚れながらも身につけていた頭巾とエプロンを外した。
自分で整えた髪はブルーナやリータのそれに比べてデザイン性に欠けるが、どうせベールで隠すのだと開き直って。
……そういえばベールって持ってきたっけ、と考え至ったところで、シルヴィオが自分のマントを外して翻した。
「ジュリ、ひとまずこれを」
シルヴィオがさっと色を染め変えて、そのまま渡してくれたマントを有り難く受け取って、ベールとして羽織る。
「ありがとうございます」
地味なワンピースに薄い緑色のベールはよく映えて、ドレスとはまた違ったお洒落をしているようで、ちょっと楽しくなった。
「……この後のことだが、この前言った通り祝祭前日の今晩は街の宿で一泊し、明日の朝にはブルーナとリータ、そしてロベルトが衣装を携えて宿を訪れる予定だ」
衣装の着付けはいつも通りだと言われて、私は思わず内心で安堵した。さすがにドレスを一人で着込むのは骨が折れる。そう、ポッキリとね。
「なるほど、わかりました」
……いよいよ、かあ。
この一月本当にいろいろあったなあ。
少し眠気の残る頭で一月の間にあったことを思い浮かべていると、少し視線を彷徨わせたシルヴィオが思い出したように付け足した。
「そうだ、明日はブルーナが母でリータが姉、ロベルトが父ということになっているから忘れず覚えていてくれ」
「……え?」
ブルーナがお母さんでロベルトがお父さんで、リータがその娘だなんてことはもう随分前から知っているし、そのことをシルヴィオだって知っているはずだ。
しかし、リータが姉というのは一体どういうことだろう?
思うままに首を傾げて、シルヴィオへ問う。
「ブルーナとロベルトが夫婦でリータがその娘だというのはもう知っていますが、それは」
「ああ、いや、すまない。言葉が足りなかったな。あなたには、ブルーナとロベルト夫妻の末娘として明日の祝祭を迎えて欲しいのだ」
「……というと?」
「わざわざ宿に泊まって祝祭に赴くのに、メイドや執事が付き従っているのはおかしいだろう?」
「た、たしかに」
シルヴィオの言う通り、街の新しい花嫁と花婿を装って宿へ宿泊しても、祝祭当日に身分の高そうな付き人の姿があれば、変に注目が集まってしまうのは当然だろう。
そうなってしまえば計画倒れだ。
「……ではブルーナがお母様で、リータがお姉様。それから、ロベルトがお父様ですね。」
自分に言い聞かせるように敢えて口に出してみる。
……うん、なんかしっくりくる。ちょっと気恥ずかしいけど。
もう一度お母様、お姉様、お父様と呼び方を順番に口に出して、私はふと思い出した。
「あっ!……シルヴィオ様、そういえば。私、お父さんのことも思い出せたんです。」
いきなり声をあげた私が笑ってそう言うと、シルヴィオがほんの少しだけ痛そうな顔をして、それからすぐに、本当に嬉しそうに笑った。
「そうか、ジュリア。……良かった」
思い出せた父の話をするうちに、次第に馬車の速度が落ちて、ゆっくりと止まる。
窺える景色は街の中では無く、坂道の中腹のような場所だった。
「さ、お二人ともお早く」
レオが戸の外からそう声をかけて、静かに馬車が開かれる。
シルヴィオに手を引かれて馬車を降りると、その外ではレオが礼をして立っていた。
「私はこれより、城へ戻ります」
「……ああ、頼んだぞ」
「恙無く。……どうぞ、お二人に良い花の導きがありますように」
にこりと笑ったレオに手を振って、いつかと同じようにシルヴィオと手を繋ぐ。
眼下に見える景色は、花々に彩られた色彩豊かなプリンチペッサの街だった。
いつ見ても美しい街だとは思うけれど、いくつもの道が花々に縁取られた様は、それこそまるで絵画のようで。
ほう、と感嘆の息を漏らした私に、横に立つシルヴィオが微笑んだ。
「行こうか、ジュリ」
その幸せそうな顔に一つ瞬きをして、私も自然と赤らむ顔を隠さずに笑って見せた。
「……そうだね、ルヴィ」
私たちは手を取り合って、街へ続く坂道を下る。
近付くほどに賑やかな声がどんどんと大きくなって、門から見渡せる景色はどこも人々の笑顔で溢れていた。
以前よりずっと活気付いた街並みを歩きながら、シルヴィオが示す方向へ進んでいく。
「……ここ、だな」
いくつかの角を曲がって、ふと歩みを止めた目前には、大きな煉瓦造りの建物があった。
建物の窓や扉にはたくさんの花が飾られて、見ているだけでうっとりするほど可愛らしい。
「ん?……お客人か?」
建物の前で水の入った器を手にした女性が、ふと私たちを見て笑った。
「もしかして今日宿泊予定の新婚さんかい?」
なんだか気の良さそうなおばちゃんだなあと思っていると、にこにこと愛想良く笑う恰幅の良い女性が、頷いた私たちを手招く。
「さあさようこそ、私はこの宿の女主人さ。」
招かれた建物の中で手続きをした後、木で出来た階段を一番上まで上がる。
そうして案内された部屋は、あたたかみのある木がふんだんに使われた部屋だった。
その部屋のあちこちにも花が飾られて、木と花の香りで満たされる。
「とっても素敵なお部屋ですね」
そう言いながら思わず深呼吸をする私に、微笑ましげな女主人が窓を開けた。
「うふふ。いいねえ、新婚さん。明日は祝祭だものねえ。……おや、晴れてるのに雨だなんて変な天気だ」
女主人の口ぶりからして天気雨だろうか。
私は割と見たことがあるけれど、ひょっとするとこちらの世界では珍しいことなのかもしれない。
不思議そうに首を傾げて、ふっとこちらを振り返った女主人が、悪戯っぽく笑う。
「折角の二人の祝祭前夜だもの、街を見て周りたいだろうし、良ければ私の作った服を買わないかい?二人とも今着ているものが濡れるのは嫌だろ?」
私がどう答えたものかを悩んでいると、区切られた隣室に荷物を置いたシルヴィオが、ひょっこりと顔を出した。
「買おう」
「えっ、ルヴィ!?」
「そうこなくっちゃね。新婚祝いで安くしとくよ」
今いくつか持ってくるから選んどくれ、と言い残した女主人が、一度部屋を後にした。
「い、いいんですかルヴィ」
私が思わず声を潜めて問うと、シルヴィオはなんでもないことのように肩を竦めた。
「構わん。街を周るための服はちょうど欲しかったところだ」
「それはどういう、」
歩み寄るシルヴィオが私の手を取って、切なげな青の瞳で私を見つめた。
「ジュリ。一日、……今日の一日だけ、私にくれないか」
「っ……」
……くう、だからこの瞳には弱いのに!
必然的にドクドクと速まる鼓動が、私の息を詰まらせる。
「ただの男として、私はただ、この街を……もう一度あなたと周りたいのだ」