いわゆる恋心
「少し、こうさせてくれ」
その声が、ひどく切ない声色で。
私はまるで幼い子供をあやすように、ゆっくりとシルヴィオの背を撫でた。
「どう、されたんですか」
そっと問いかけると、ピクッと肩を揺らしたシルヴィオが迷いながらやや重たそうに口を開く。
「……少し、恐ろしくなった」
ぽつりとそう漏らしたシルヴィオの表情はすぐには窺えず、そっと私を包むぬくもりに身を委ねる。
……シルヴィオの言う、恐ろしい、とは何のことだろうか。
シルヴィオは度々、様子がおかしくなることはあったけれど。
その度に、果たして私が踏み込んで良いことなのか、問いかけるべきことなのかを、ずっと悩んできた。
……でも、もしかしたらそれも、あと数日で終わってしまうのかもしれない。
祝祭を無事に終えることで不穏な計画そのものを失敗に終わらせ、それに加担した人達をギャフンと言わせて、それから王族の関係回復と、私欲で人々と他国を巻き込む膿を洗い流す。
もしも、もしも私がこの世界に来たことが必然で、伝承の花姫様のように与えられた役目があったとして。
それを全て終えた時、私という存在はどうなるのだろう。
今の時点ではフィルにも聞けていないことが多いけれど、……仮に、この世界そのものに役目を終えたと認められたら?
花が導いて、舟が運び、到来の鐘が鳴る。その時の私が目覚めた場所は海の上で、状況を把握するのにも難があった。
今にして思えば、突然異世界に来た私が、突然元の世界に帰らないという保証はどこにもないのだ。
ひょっとすると、出会った人やお世話になった人へお別れを言う間も無く。
私は一人、長い夢から覚めるのだろうか。
……なんでもない日の、思い出せない夢みたいに。
考えて、私は無意識のうちにシルヴィオの服を握り込んでしまっていたらしい。
それに気付いたシルヴィオも私を抱く腕に力を込めて、更にぎゅむっと近付いた距離がまるで一つになったみたいに心地いい。
いつだったかまっすぐ私の名前を呼んで、自分を見失うなと言ってくれたシルヴィオは、その時に一体どんな顔をするのだろう。
私の頭上で堪えるようにきゅっと引き結ばれた唇が、何より哀しい。
……この人には、笑顔の方が似合うのに。
「……ジュリ……」
不意に小さい声で名を呼ばれて、正直な心臓が跳ねる。
……そうだ、こういうの少女漫画で飽きるほど見た。
主人公が自分の想いの種類を自覚した途端に、恥ずかしくて逃げ出したくて、それでも好きな人と一緒に居たいって葛藤する、……いわゆる恋心ってやつだ。
シルヴィオと出会ってからというもの、私の知らない感情には散々見て見ぬ振りをしてきたけれど。
……きっと、もう逃げられない。
だって、時間はどの世界でも同じく、等しく有限で。
明日にはもう、お別れになってしまうかも知れないし、明日と言わず、もしかしたらそれはほんの一瞬後の出来事なのかも知れない。
夢はいつ覚めるかわからないこそ、夢足り得る。
寿命も運命も、先のことなんて何一つわからない人間だからこそ、巡り会えた今この時に勇気を出して踏み込まなくちゃ。
……それはきっと、初対面で異世界から来たと言った私に、シルヴィオがずっとしてくれていたことだ。
今度は、私の番。
「シルヴィオ」
「……ジュリ?」
「何が、恐ろしいの?」
震えそうになる声を必死に押し通して、何でもないことのように問いかける。
ほんの少し踏み出しただけの私が既にこんな状態なのに、シルヴィオはこれまで一体どれだけの勇気を振り絞ってくれていたというのだろうか。
それを思うだけで、きゅうっと私の胸が締め付けられた。……好きか、これが恋愛的に好きってことなのか!?
少しの迷いの後で、問われたシルヴィオが小さく首を振る。
「……いや、特別話すようなことでは」
「話すようなことでしょ、シルヴィオが言いかけた時は!……ううん。違う、違う。私が聞きたいから話して欲しい。」
「ジュリ、」
「知りたいの、ちゃんと」
ぐっと力を入れてシルヴィオから少し離れると、私の頰にぽたりと滴が降ってきた。
「シルヴィオ……?」
見開かれた青い瞳が潤んで、ぽろぽろと涙が溢れる。
そのあまりに綺麗な顔に見惚れて言葉を失った私は、頰に触れることも叶わず、すぐにシルヴィオに掻き抱かれた。
その拍子に髪色を隠す頭巾が解けて、はらりと宙を舞う。
「っ……私は、あなたを失うことが恐ろしい……」