イグニスの血
「痴話喧嘩って、あの、ブルーナとロベルトって」
「うん?……ああ。直接聞くといい。それに、ここから先の話を進めるには二人の協力も必要になる。」
なんだかそこはかとなく素敵な雰囲気で会話をするなあって確かに思っていたけど!
まさか、いややっぱり?なんて、頭の中でぐるぐると考えを巡らせている私を残し、シルヴィオが扉へと向かっていく。
「ディ・トランクル」
そう言うシルヴィオの声が聞こえると、ロベルトが出て行った時と同じように扉が光る。
視界に映る青が消えると同時にブルーナの声がこちらを向いたようで、焦りの滲む言葉が聞き取れるようになった。
「シルヴィオ様!なりません、なりませんよ!」
「落ち着きなさい、ルナ。」
「ロブ!これが落ち着いていられますか!大体あなたが付いていながら何故二人きりになど、」
「ルナ。私はあの方を信じているだけだよ。君は違うのかい。」
「……それとこれとは、」
聞こえてくる二人の会話にシルヴィオがとても気まずそうに咳払いをしながら、敢えてガチャリと音を立てて扉を開く。
「取り込んでいるところすまないが、」
「ああ、ジュリア様!失礼いたします!」
扉の外に立つ二人の仲裁に入ろうとしたシルヴィオを押し退けるようにして、ブルーナが私の前まで歩み寄ってきた。
そのあまりの慌てぶりに思わずきょとんと目を丸くする私の肩や手に優しく触れ、状態を確認するブルーナの表情は嘘偽りなく私への心配に満ちていた。
「ご無事でいらっしゃいますか!?」
「え、ああえっと……無事です、よ?」
言いながら首を傾げると、ひどく安堵した様子で溜息を一つ吐いた。
「良うございました……シルヴィオ様、フィレーネレーヴまで使って嫁入り前の淑女と二人きりでの密談など、どういうおつもりです」
「……それは、」
「積もるお話もあったのでございましょう。何せ、お二人は出会われたばかり。立場も身分も関係なく、何事も……お互いを知らずして歩み寄ることは出来ないのですから。そうでしょう、ブルーナ。」
ロベルトがすかさず口を挟み、手振りだけでシルヴィオが席に着くことを促していた。
「……そうでございますわね。けれど、先程の……すぐ後のことでしたから」
ブルーナがロベルトを見る横顔は綺麗に歳を重ねているはずなのに、どこか拗ねた少女のようで、自然と笑みが溢れてしまう。
「ありがとう、ブルーナ。心配してくれたんですね」
「ええ、ええ!それはもう!……わたくしが力及ばずにあのような思いをさせてしまって、どうお詫び申し上げたら良いのか……」
「そんな!ブルーナが謝ることでは、」
青ざめた顔で告げるブルーナと、慌てて立ち上がりかけた私の背後で再び扉全体が光った。
密談用のフィレーネレーヴだろうか。
青の光に宥められたような気持ちで、静かに座りなおすとブルーナが力無く首を振った。
「いいえ、ジュリア様。わたくしはこの城で、幼い時分からエドアルド第一王子とシルヴィオ第二王子の教師役をして参りましたの。……幼い頃は大変可愛らしく仲の良いご兄弟でしたのに……きっと、わたくしの指導不足ですわ」
「ブルーナ、その辺に」
シルヴィオが制止の為にか口を開く。
正直、王子様の幼い頃の話はとっても気になる。何分顔の大変よろしいご兄弟だし、気にはなるけれど。でも、その前に。
「それは違うと思います。」
「ジュリア様?」
いきなり言葉を遮られたシルヴィオが、表面に浮かべた笑顔の裏で、一体これから何を言う気なのかと探るような目で私を見ていた。
「違う、というのは……?わたくしは、」
困惑した様子で首を傾げるブルーナにひとつ咳払いをして、敢えて食い気味に話し出す。
「いいですかブルーナ、昔も今も世界も性格も関係なく、しでかしたことは全部本人の責任です!だから悪いのは、謝らなきゃいけないのは第一王子のエドなんちゃらっていう人であって、ロベルトでも、シルヴィオ様でも、ブルーナでもありません!」
名前を呼ぶごとに一人一人を順番に指差し、ビシィッと言い切った。ビシィッと。
ふふん、言ってやったぞと三人を順番に見るも、一向に誰も口を開かず、何故だか視線も合わない。
静か過ぎる空間に居心地悪くドレスの裾を直してみる。
「……あの、」
しばしの静寂に耐え切れず声をかけると、頭を抱えるように顔を伏せていたシルヴィオが堪らず笑い出した。
「……はは!これはいい!」
「な、シルヴィオ様!なんで笑うんですか!」
むう。中々の正論を並べた筈なのだけど、と思って顔をしかめると、目尻にうっすらと涙を溜めてまで笑うシルヴィオがひらひらと手を振った。
「すまない、はは……この国でそんなことを言える者が今まで居なかったもので、ふふ……」
「……なるほど」
ひとしきり笑ったシルヴィオが唖然としたままのロベルトとブルーナの二人に腰掛けるよう促して、涙を拭いながら姿勢を正す。
「……さて、謝罪はお門違いということで今後の話だが」
「お、お待ちください。まだわたくしの処分が、」
仕切り直したシルヴィオを遮って、私の隣に座ったブルーナが慌てて口を挟む。
「処分?処分てなんのことですか?」
わざとらしく首を傾げる私に、俯いた横顔がらしくないブルーナが言葉を続ける。
「大事な花姫様に、わたくしの指導が及ばず余計な気苦労を」
「うーん。さっきも言いましたが、処分……処分というか、反省やお仕置きが必要なのはブルーナではなく第一王子ですよね?」
言いつつ手のひらを頰にくっつけて、物語に登場する令嬢がよくしていたような小首を傾げる思案ポーズをとってみる。
「……今、なんと?」
なんと言うべきか困惑した様子のブルーナを横目に、シルヴィオから問いかけられた。
「え?反省やお仕置きが必要なのは、」
「そのオシオキ……とは、どういうものだ」
言葉を反芻する私に、身を乗り出すようにして問うシルヴィオへ続ける。
「ええと……人によって違いますけど、例えば反省して謝まるまで、好きなものをお預けにされるとか、掃除とか勉強とか本人が嫌だなと思うことをやらせるとか……?」
「ふむ……オシオキ……」
お仕置きという言葉を最後に、再び静寂が訪れた。
沈黙するロベルトとブルーナに何か声をかけるでもなくひとり考え込むシルヴィオを見ていると、その髪が、窓から差し込む光に透けて少しだけ朱に染まる。
この国で最初に見たのはまだ陽の高い青空だった。
あれからどれだけの刻が過ぎたのかはわからないが、今シルヴィオの髪を染めている色は、きっと夕焼けに違いない。
綺麗だけれどどこか物悲しい日暮れの色から目が離せず、懐かしいような、思い出せない痛みがきゅっと胸を締め付けた。
静寂の中でひとり、もやもやとした罪悪感のような感覚に溺れそうになって、ふと気が付く。
「……この国では、悪いことをした人ってどうなるんですか?」
私の問いには、考え込むシルヴィオも、沈黙を守るブルーナも口を開かず、みんなの顔を見回したロベルトが静かに口を開いた。
「悪いこと、というとどういったことでございましょう」
「えっ……ええと、例えば人の物を盗んでしまったり、利用したり、騙したり……故意に人を傷付けてしまった、とか」
終始穏やかだけれど、変な答えを返せばすぐに芯の強そうな瞳に射抜かれてしまいそうで、慌てて言葉を付け足す。
「お言葉を返すようでございますが。フィレーネ王国の純粋な民においては盗みを働くような心の貧しいものも、隣人を利とするものも、害なす卑しい心を持つものも居りません。」
少しだけ心外そうに眉を寄せただけで、穏やかな表情は変わらない。
けれど、そんな様子に知らないうちに緊張してしまっていたのか、察したロベルトが敢えて柔らかく微笑んだ。
「……建国以来、花の名を冠するこの国で保たれてきた治安は偽りなく。それこそが花姫様の伝承と、栄光によって護られてきた、この国の誇りなのでございます。」
「な、なるほど……あれ?でもたしか、花姫を利とする人もいるって……」
「ええ。唯、ひとつ。例外がございます。」
「例外?」
言い切ったロベルトが、伺うようにシルヴィオを見る。視線があったシルヴィオがひとつ頷いて、言葉の先を引き受けた。
「我が国のいくつかの領地を統治する貴族の一部の者、そして兄上、エドアルドの母は……海を隔てた隣国、イグニスから友好の為に来訪し、それぞれがこの地で婚姻を成した者たちだ」
「えっ、他にも国があるんですね!?」
ここにきての新情報に目を丸くすると、ロベルトが頷いて話を続けてくれる。
「穏やかな花の国フィレーネ王国と、隆盛の火の国イグニス王国……海を隔ててはいるものの、かつては争いに発展する寸前ということもあったのでございます。……ですから」
「イグニスの血がその身に流れる者は、正確に言えばこの国の民の限りではない。……父が、花姫様の到来を待つことを諦め、利を求めるイグニスの侵攻を必要以上に恐れた結果が今だ。」
さすがは夢の異世界。
何やら新しい言葉とか情報がどんどん出てくる。フィレーネ王国以外にも国ってあったんだとか、いやまあ普通に考えたら当然なのかもしれないけれど。
「その、利を求めて……ということはイグニスの人達には花姫の伝承も誇りも関係なく、私はこの国にいる以上都合の良い道具、ってことですか?」
「……端的に言ってしまえば、そういうことになる。」
まるで自分のことのように痛い顔をしたシルヴィオが、更に言葉を続ける。
「……この国には、フィレーネ王国に存在しなかったはずの、悪いことをした者、ましてや……しそうな者をどうにかする手段も方法も無い。」
悪いことをした者という言葉で浮かんだのはもちろん第一王子だけれど、そんなことより思い出しついでで私の胸に引っかかったのは。
「あれ。……シルヴィオ様、さっきお兄さんのお母さんってわざわざ言ったって事は、」
「……ああ。私と兄上は異母兄弟だ。といっても、エドアルドの母が嫁いで来るよりも前から正妃は私の母だったのだが……」
努めて冷静を保つような、強張った声音で語られる内容に思わず息を呑む。
「国同士での緊張状態もあったのか、中々子が成せず、兄上が産まれたことで正妃の座を奪われた。」
「そんな……!」
「しかし、そのすぐ後に私が産まれ、隣国の者を唯一の正妃にすることへの臣下の抗議もあり……異例ながら、待遇はそのままに、名目上は第二妃として王位継承権を持つ王子の母となったのだ。」
ふっと眇められるシルヴィオの瞳が熱を帯びるようで、視線の先に居るだけでじりじりと喉が乾く。
「……異例、なんですね」
「ああ。そもそもが死別、もしくは長い間王位を継ぐ子が成せなかった場合にのみしか第二妃など認められていないからな。……その上、得体の知れぬ隣国の者を娶るなど常時ならば決して考えられない事態だ。」
平静を保った声はそのままだが、難しい顔をしたシルヴィオの手がぐっと握り込まれている。
悲痛な様子をなんとかしたくて、慌てて話題を違うものに変えようと、思いついた質問をロベルトに問いかける。
「……その、イグニス王国ってどんな国なんですか?」
「ええ、国としてはフィレーネ王国よりもずっと南に位置しておりまして、いつの時期もとても暖かいようです。更には海底火山の恩恵を受けた温かい泉も湧き出ていて、観光都市としても人気の高い街があるとか。……友好を結ぶ前は到底考えられませんでしたが、今では定期的に旅行船も出ております。」
「へぇ、温泉があるんですね!それに思ったよりも悪いことばかりじゃなさそうだし、」
「オンセン?……ええ、国を隔てて恋仲になる若者もいるようですし、こういった変化も必要ではあるのかもしれません。」
「ふーむふむ。あの、シルヴィオ様?」
ロベルトと私の話を聞いているのか聞いていないのか、少しだけ遠くを見るような目をしているシルヴィオに向かって手を振ってみると、はっとした様子ですぐに目が合った。
「シルヴィオ様、今後の話をするのに二人を呼んだってことは、シルヴィオ様にとってブルーナもロベルトも、信用できる人達ってことで間違いないですよね?」
「え、ええ。……ジュリア様、一体何を」
首を傾げた私に、心から訝しんだ顔で問うシルヴィオへにっこりと微笑みをひとつ。
「私、二人に話したいことがあります!」