消えた王妃付き執事
「思ったより早く着いたな。アーブラハムに気取られる前に、残りの写しを急ごう」
シルヴィオの言葉にはリータ一人が首を傾げ、それ以外の者で頷き合う。
昼食を手早く片付けて続きの作業に取り掛かりながら、レオとリータに人の手配を頼んだ。
「かしこまりました。」
そのままレオと共に部屋を出ようと踵を返そうとしたリータが、不意に立ち止まる。
「……あの、ジュリア様、マウラが二日後にご衣装の試着をさせていただきたい、とのことでございます」
日程の確認の為にブルーナを伺えば、すかさず肯定の頷きが返ってきた。
「なるほど、そういうお話でしたか。……わかりました。リータ、承諾の返事をしておいてくれるかしら?」
「承知いたしましたわ」
そうしてレオとリータの二人が部屋を後にすると、黙々と写しを続けるシルヴィオがポツリと呟いた。
「……もう、そんな時季か」
まるで酷い痛みを堪えるような横顔に、かける言葉も見つからないまま。ただ静かに私の胸が締め付けられる。
今度の祝祭が無事に終わったら、手の空いたフィルの協力を仰いで、そうして、私は帰る方法を探して、……それで。
「……ア、……ジュリア!」
はっと我に返った私の前で、シルヴィオの手が忙しく振られていた。
「大丈夫か、少し根を詰めすぎたのでは」
「あ、だ、大丈夫です!やだな、ぼーっとしちゃいました!」
誤魔化して笑いながら自分の手元を見ると、先程までそこにあったはずの紙の束が無くなっている。
「あれ?ここにあったフィレーネ紙は……」
「ちょうど今、全て写し終えたところだ」
すっとシルヴィオが指し示した場所を見ると、高さのまばらな紙の束が、いくつも扉の近くに積み重ねられていた。
「あとは裏門まで運ぶだけだ。……手配した人員が来るまで少し休もう、ジュリア」
「……はい、ありがとうございます」
シルヴィオに手を引かれて、ソファーに座る。ブルーナが用意してくれたお茶を飲んで、ほうっと息を吐き出した。
「ふふ、ほんとうに楽しみですわね!わたくしはもうベールを仕上げてしまったのですけれど、祝祭当日の光景を想像するだけで年甲斐もなく浮足立ってしまうのです」
「私も楽しみにしているよ、ブルーナ」
「まあ!うふふ」
アーブラハム用に最後に残す紙の束へ細工を施しながら、ブルーナとロベルトが笑い合っている。
なんとも微笑ましい会話なのに、私はどうしてか上手く笑うことが出来ない。
思わず両頬を押さえていると、ふと心配そうな顔をしたシルヴィオと目が合った。
「疲れた、……だろうな。……もう部屋で休むか?」
「いいえぇ、至って元気です!それにナターシャ様も来られるのでしょう?私が居ないと駄目じゃないですか」
慌てて両手を振って笑うと、それを見て黙り込んだシルヴィオが立ち上がった。
「……シルヴィオ様?」
首を傾げてゆっくりとシルヴィオの動きを視線で追うと、その距離はどんどん近付いて、かと思えば静かに私の隣に腰掛けた。
扉のある方向を背にして座った私には、もうシルヴィオ以外見えない。
もう一度名を呼ぼうとしたところで、ぐっと肩を抱き寄せられる。
自然とシルヴィオの肩にもたれかかるような形になって、私は思わず息を潜めた。
「母上が来るまではまだ時間がある。……このまま、少し休め。」
「で、でも、こんな状態を見られては」
「こうすれば、見えやしないさ」
言いながらふわりとマントを被せられて、寄り添ったシルヴィオの温かな振動が、少しずつ私の眠気を誘った。
どうやら私は思いの外、気力を使ってしまっていたらしい。
……ああ、やっぱり良い匂いだなあ。
うとうとと心地の良い微睡みに身を委ねて、どれくらいの時間が経っただろうか。
「……ジュリ、起きろ」
耳元に小さく聞こえる音がくすぐったくて少し身じろぐと、すぐに私の顎に触れる感覚があった。
「ん、もうすこし……」
「口付けが必要か?」
からかうような口調で、すい、と唇をなぞられて、意識が一気に現実へ引き戻された。
「わ、わたくし……!?」
さっと開けた視界に映ったのは、なんとも私を愛おしそうに見る、ビー玉のような青い瞳で。不意にドクン、と心臓が跳ねる。
まさかずっと、あんな風に寝顔を見られていたりしたのだろうか。……だとしたら恥ずかしい、恥ずかしすぎる……!
「っ……」
「よし、起きたな」
そう言いつつ離れたシルヴィオが、敢えて残されている紙の束を示す。
「もうじき、母上が来る頃合いだ」
「し、心臓に悪い……っ」
まだバクバクしている心臓の為に深呼吸を繰り返しながら、お茶を飲むシルヴィオへクレームを付ける。
「うん?」
「もう少し、違う起こし方をしてください!」
私が必死に訴えても、シルヴィオには軽く肩を竦めるだけで誤魔化されてしまった。
「もう……!」
なんとも微笑ましげな顔のロベルトとブルーナに見られながら呼吸を整えたところで、外の衛兵がナターシャとアーブラハムの来訪を知らせた。
「来たか。」
ロベルトが二人を迎え入れると、すぐさまアーブラハムが深く腰を折った礼をした。
……そういえば私、どんな対応すればいいんだっけ?
「申し訳、ございませんっ!昨日は、そのぅ、少々手違いがあったようでしてぇ」
「……ふふ。わたくしはこの部屋の用途を、花姫様からたしかに聞いていたのですけれど。アーブラハムは一体何を勘違いしていたのかしら」
「あっその、ええ、ええ……私の勘違い、と言いますかぁ」
しどろもどろなアーブラハムを見て、ナターシャが短い溜息を吐いた。
「花姫様、申し訳ございませんわ。わたくしの教育が行き届かず、この度はあのようなご迷惑を。お詫びと言ってはなんですけれど、アーブラハムも反省をして、お知らせの配布の手伝いを自ら行うということですから……どうかお許しをいただけますか?」
ゆったり微笑んだナターシャが、細工された紙の束を視線で示す。
そう、そうだった。わざとこれを運ばせないといけないんだよね。……じゃあ、ひとまずこの場は。
「まあ。やはり誤解でしたのね。そのように反省をされているのでしたら、わたくしから言うことなど何もございませんわ。……たしかに、頼みますよ」
にっこり笑って、ロベルトが紙の束をアーブラハムへ託すのを見届ける。
「ええ、ええ。しかと、お届けいたします」
何度も頷くアーブラハムの横顔が、立ち去り際に歪んで見えた気がした。
何往復かの後に紙の束が談話室から無くなり、やがて全ての荷馬車が出発したとレオから報告があった。
そのついでに、数十枚の紙とアーブラハムの姿が見えなくなったということも。
「……母上。これで、仕込みは上々ですね」
「ええ。祝祭はもう目前ですもの。……皆、自らに出来ることを、共に励んで参りましょうね。」
そう言って笑うナターシャにみんなが頷きを返して、空っぽになった談話室を後にする。
その日の夜は、それぞれの憂いと共に更けていった。