決意の瞳
「本当に、ありがとうございます……お母様」
私のはにかんだ顔を見て、ナターシャも本当に嬉しそうに笑う。
「……ふふ、嬉しい。そうよね、私の息子の、シルヴィオと婚姻を結ぶのだもの。……ジュリアちゃん。ありがとう、シルヴィオを選んでくれて。」
本当にあの子のお嫁さんになるのが貴女で良かったと言いながら、ナターシャがシルヴィオの絵を撫でた。
その少しの仕草にも慈愛が滲んで見えて、ぎゅうっと胸が締め付けられる。
お母さんの姿を思い出して胸が痛むのとは違って、複雑な感情がぐるぐると渦巻いていくような。
「どうか、あの子を頼みます。シルヴィオは、少し……頑張り過ぎてしまう子だから……」
「っ……はい、」
「ふふ。わたくしも少々、心配をし過ぎてしまうところがあるのですけれど……貴女が傍にいるのなら何も心配ない、だなんて思ってしまうのは何故かしら?」
不思議ね、と肩を竦めて笑うナターシャになんとも言えず、曖昧な笑顔で返す。
……つい勢いで頼まれてしまったけれど、私は本当に頷いてしまって良かったのだろうか。
ぐるぐるした感情の中で、どちらの世界を選ぶのかと問うフィルの声が思い出される。
……ああお母さん、どうしよう?今の私は帰る方法をこそ知らないけれど、けれど、もし、帰る方法を見つけたら……?
「さて、少し長居してしまいましたね。わたくしはこれで失礼を……と、その前にお知らせはこれで大丈夫だったかしら」
ナターシャの声ではっとして、差し出されたお知らせを見る。
ベールを捲った頰に口付けるシルヴィオと黒髪が覗く花姫の横には、いつの間にか『伝承の花姫様と第二王子シルヴィオ様の婚約のお知らせ』と書き足されていた。
客観的にこの図を見ると、やはりとても気恥ずかしい。気恥ずかしいけれど、絵になっている。これならばきっと、国の人たちみんなが憧れてくれる……ような気がする。
「ええ、とても、素敵ですわ。……ナターシャ様、ありがとうございます」
なんだかもう一度お母様と呼ぶのは気が引けて、誤魔化すようににこりと笑う。
それを見透かした様子で、ナターシャが肩を竦めて笑った。
「……さて、そろそろアーブラハムも業を煮やしている頃合いかしら」
「アーブラハムが、ですか?」
「ええ。アーブラハムは貴女達の婚約に関して嗅ぎまわっていますから……お茶会の場には何としても紛れ込みたかったはずですもの。折角の貴女の策を無駄にする訳には参りませんから、こうして押しかけることになってしまったの。」
急な予定を詰め込んでごめんなさいね、と言ってから、ナターシャがどんよりとした窓の外を見た。
「……きっと、お知らせを手にすればすぐに計画の主謀者の元へ届けてくれるはずよ」
「ナターシャ様、それって……」
ふっとシルヴィオの言った監視用員という言葉を思い出して何も言えなくなった私を、ナターシャの穏やかな瞳が映す。
「わかっていますよ。わかっていて、わたくしはアーブラハムを側に置いてきました。アーブラハムが付いている事でアドリエンヌ様が少しでも落ち着かれるならば、と……ふふ、それに存外口を滑らせて得られる情報も多かったのです」
ナターシャはそう言って軽やかに笑うけれど、その苦悩を思えばこそ居た堪れない。
「……ナターシャ様、」
「大丈夫。わたくしは、もう大丈夫です。」
貴女からのお叱りはとても効きました、と笑うナターシャにこれ以上を言えず、私は心の中でそっと誓いを増やした。
あの高飛車ゴテゴテ婦人ことアドリエンヌと、高慢王子エドアルド、そして裏切りのアーブラハム、この三人には絶対にギャフンとごめんなさいを言わせてみせる……!
……でもまずは、その為の地盤をきちんと固めなくては。王妃様と王子様がすれ違ったままでは、きっと駄目だ。
「ナターシャ様……アーブラハムのことは、シルヴィオ様も、心配をされていましたわ」
ナターシャの表情を見ながら、そっと言葉をかけてみる。
また少し痛そうな顔をしたのも見逃さない。
「そう……ですね……あの子には随分な苦労を背負わせて、心配をかけてしまったわ。」
悲しげな瞳がすっと伏せられたところで、すかさず畳み掛ける。
「ええ、それに、ナターシャ様のお考えがわからない、とも仰っていましたの……ですから、もっと頼ってあげてくださいませ!」
にっと笑って突然調子を上げた私の声に、ナターシャがすぐさま目を丸くした。
「……頼る?」
「はい。彼は、花姫であるわたくしに誓いました。王となって、このフィレーネ王国の全てを守ると。……シルヴィオ様は貴女の血を継ぐ、立派な王子様ですわ。」
ナターシャが息を呑む気配がする。
……もう一声、かな?
「ですからこれからはきちんと……王妃様として、シルヴィオ様を頼ってあげてくださいませ。そうすればきっと……いいえ、必ず。良い花の導きがあることでしょう」
「……っふふ。」
決まった、と思うより早く、ナターシャが小さく吹き出した。
「ごめ、ごめんなさい。あまりにも、花姫様としてお話をされる姿が、わたくしをお叱りいただいた時と違ったものだから、ふふ、その、おかしくて……!」
こんなに笑ったのはいつ以来かしらと言いながら、肩を震わせる。
しばらくしてやっとのことで呼吸を整えたナターシャが、なんとも穏やかな微笑みを浮かべた。
「……大丈夫、大丈夫です、ジュリア様。……貴女のおかげで、わたくしの想いは決まりましたから。」
「そ、そうでしたか……」
「……少し、失礼をしてもいいかしら」
その言葉に首を傾げながら頷くと、すっと立ち上がったナターシャに抱きすくめられた。
あったかくて、やわらかくて、優しくて、とっても良い匂いがする。
「わぷ、な、ナターシャ様、」
「ありがとう、ジュリアちゃん。貴女にも心配をかけてしまったのね……母として、きちんと反省します。」
私が答えに迷っていると、体を離したナターシャが美しい瞳で笑う。……この瞳はきっと、決意の瞳だ。
「……そして王妃として、貴女達を、あの方達を導けるように精進します。……今からでも遅くはないものね?」
今これから、ですもの。と一人納得するように呟いたナターシャが、強く頷く私を見て静かにお茶会の終了を告げた。
そのままナターシャの手で遮音のフィレーネレーヴが解除されると、どことなくスッキリした様子のブルーナが戻ってきた。
少しは休めただろうか。余程張り切っていたのもあって、リータはまだ眠っているらしい。
不意に私の顔とナターシャの顔を交互に見て、ブルーナがなんとも訝しげな表情を浮かべた。
「まあ、まあ。ナターシャ様もジュリア様も、その目は一体……」
「ふふ。母と娘の秘密です。……ブルーナ、貴女は良い人に仕えましたね。」
肩を竦めて笑ったナターシャが、そう言ってふと真面目な顔をした。
「……これからの情勢は再び危うくなるやも知れません。どうか彼女を、貴女の力で守ってくださいね」
「ナターシャ様……。もう、ナターシャ様にお願いをされずとも、わたくしはそのつもりですわ」
私のことなのに、私を置いてけぼりで二人で分かり合っているのが、二人の仲の良さを表しているようで微笑ましい。
「では、ジュリア様。またお会いいたしましょうね。……ご機嫌よう」
「ええ、ご機嫌よう。ナターシャ様」
簡単な挨拶を交わして、ブルーナに送られたナターシャが部屋を後にした。
……ふう、なんとも濃いお茶会だった。
一人溜息を吐いて、奇跡的にもシルヴィオとナターシャの合作となった婚約のお知らせの文字をなぞる。
私はまだ、私を形作る記憶の全ては取り戻せていない。
……でも、今ここに在る私は間違いなく私で、その私には、やるべきことがある。
胸の中で引っかかるフィルの問いかけをそっと見て見ぬ振りをして、慌てて起きてきたリータにテーブルの片付けを頼んだ。