人に似せた精霊
「……レオ、急ぐな。無理をしなくていい」
シルヴィオに支えられて浅い呼吸を繰り返すレオが、絞り出すような声で言う。
「もう一度、遮音を」
三人が頷き合って、閉ざした扉にフィレーネレーヴを施した。
「あの方は、今……イグニス、王国の……連絡船に、」
途切れ途切れにそう言うと、ふっとレオの力が抜けて体が青く光り出した。
「レオ、しっかりしろ……レオ」
シルヴィオが呼びかけている間に、その光がどんどん強くなって少しずつレオの体の形が変わっていく。
「……え……」
「レオ……?」
見る見るうちに小さくなったその姿は、ほんの数時間前に見失ったレナードに瓜二つだった。
力無く身を預けた猫に、思わず駆け寄って声をかける。
「そんな、レナード……レナードなの?」
そっと頭に触れると、指先からたしかな温もりを感じる。
「……眠っているようだ」
「まあ、まあ。これはどうしたということでしょ……幸い、怪我は見当たりませんけれど」
「何かの本で読んだことがございます。……人間に寄り添う精霊のうち、人に似せて生活を送る者があると」
難しい顔をしたシルヴィオが一瞬目を伏せて、悔しそうに唇を噛む。
「ということは……フィル頼みか。ロベルト、人に見られぬよう急ぎ運んでくれ」
シルヴィオの腕から慎重にレナードを預かったロベルトが、そのまま大事に抱え上げて部屋を出ようとするのを、咄嗟に呼び止める。
「待ってください……せめて、これを」
ずっと羽織ったままだったマントを外して、ロベルトの腕から覆うようにかける。
承諾を訪ねるつもりでシルヴィオを見ると、すぐに頷いてロベルトを送り出した。
重たい空気の中でソファーに座り込んだ私達に、ブルーナがお茶を淹れ直してくれる。
やがてシルヴィオが、神妙な面持ちで口を開いた。
「……イグニスか……予想をしていなかった訳ではないが、厄介だな。ブルーナ、念の為母上の耳にも入れておいてくれ。……くれぐれも、アーブラハムの耳には通すな」
「重々、承知してございます。……ジュリア様、少し失礼をいたしますが、シルヴィオ様のことをよろしくお願いいたしますね」
一つ礼をして私に聞こえるようにだけそう言うと、ブルーナも急ぎ足で部屋を出て行った。
「ディ・スオーノ」
シルヴィオがフィレーネレーヴを施して、談話室に再び静寂が訪れる。
堪り兼ねて、シルヴィオがやたらと敵視しているような気がする人物について聞いてみることにした。
「あの、アーブラハムって人にはどうして……知らせないんですか」
一応、ナターシャ様の執事なんですよね?と付け足すと、聞かれたシルヴィオがとても苦い顔をした。
「……ああ、そうか。話せば長いが、今夜はちょうどいいか」
月夜を眺めるように窓を見て、力無く言葉を紡ぐ。
「ロベルトは昔、王妃である母上の執事だったが……私が産まれて、母上の地位が今のものになったのは話したな?」
「……はい」
「折良く正妻の地位を手に入れたエドアルドの母は、臣下に望まれてその地位を維持した母上が当然面白くなかったのだろう。ロベルトを私に寄越せ、彼は今の王妃である私に尽くすべき、などと難癖を付け続け、母上は自分の持てる権限で私にロベルトを仕えさせたのだ」
そこで一旦言葉を切ったシルヴィオが、お茶を片手に小さな溜息を吐いた。
「その後……異国から訪れた王妃である私に一番仕事のできる人間を与えないとは、この国そのものを信頼できないなどと暴れ……そうして、ロベルトが第二王子に仕えることの条件として押し付けられたのが、隣国イグニスから訪れたアーブラハムを母上の執事とすることだった」
「……ということは、ナターシャ様は」
「ああ。アーブラハムは監視要員とみてまず間違い無いだろう。……今の母上ならば奴をどうとでも出来る筈なのだが」
それをしないということは、母上にも何かお考えがあるのだろう。と呟いたシルヴィオの顔がどこか寂しそうで、なんだか私の心がそわそわする。
何か、私にできることは。
そこでふとナターシャとお茶の約束をしたことを思い出す。
……ようし、出来るかはわからないが、そこでもっとナターシャと仲良くなろう。
そうしたらきっと、何か出来ることも見えるはずだ。
内心でそう決めた私に、少し迷ったような様子でシルヴィオが言う。
「だからこそ、あの方がイグニスに何かしらの居を構えているのだとしたら……王位争いなど比べ物にならない程の問題だ。下手を打てば、戦争になるだろう」
「っそんな、何か方法は」
私は戦争というものを知らない。
それでも教科書や本には争いの歴史がたくさん載っていて、今もどこかで誰かが争っている。
その、悲惨さだけは知っているけれど。
この国で出会った人たちが、その人たちの生活が脅かされるのが戦争ならば、そんなの、糞食らえだ。
もしも今、今の私には出来ることが多いのだとすれば。
一人ごくりと喉を鳴らして、シルヴィオの言葉を待つ。
「……イグニスの地に逃げられてしまえば、どうすることも出来ないのだ」
言いながらぐっと握り締められた手が心なしか震えている気がして、寄り添うようにシルヴィオの隣に座り直す。
手を握るのを躊躇って、そっとその背中をさすった。
「……レオ……」
本当に小さく、ぽつりと漏れた声が私の胸をぎゅっと締め付ける。
「私のせいだ、私のせいで」
「シルヴィオ様、」
俯く顔を見ないようにして、シルヴィオの背中をさすり続けた。
「……レナードを最初に見た時、ああこの猫ちゃんはシルヴィオ様が大好きなんだな、って思ったんです」
「ジュリ、」
「だから、きっと、あの。シルヴィオ様のせいじゃなくて……シルヴィオ様の為だから、頑張ってくれたんだと思うんです」
シルヴィオが私を見て目を細めたかと思うと、その瞳から一筋の涙が溢れた。
「だから、今は……回復を祈りましょう」