近付きたくない人
「ふふ、嬉しいわ。約束ですよ」
そう言って本当に嬉しそうに笑いながら、シルヴィオにエスコートされたナターシャが馬車の外へ降りていく。
ああ、約束してしまった。と、ひとつ溜息を吐くと、心配そうな表情でこちらを見るシルヴィオと目が合った。
大きく動かされる口の形だけで、なんとなく、だいじょうぶか?と問われたのがわかる。
応えるようにこくりと頷いてから、差し伸べられた手を借りて外に出た。
そういえば、最初にこの場所へ来た時は、マントを深く被った上でシルヴィオに抱えられていたからろくに景色も見えなかったんだっけ。
ほんの少し前のことなのに、なんだかとても懐かしい気持ちになってお城を眺める。
たくさんの人々が訪れ、またたくさんの人々が生きて働くこの場所は、その人々の分だけ大きい。
ふと私の視線の先で微笑むナターシャが、どうしてかこのお城そのもののように見えて、少し眩しかった。
「ナターシャ様、お帰りなさいませ。……おや。シルヴィオ様にお噂の花姫様までご一緒だとは、」
出迎えに出ていたうちの一人、ふくよかな燕尾服の男性がナターシャに礼をした後で、驚きの視線でこちらを見る。
……噂?噂ってなんだろう?
「アーブラハム。ただいま帰りました。……あの方も共に公務に出ていたのですが、帰っていますか?」
「はて。どうでしたかな。……私は存じませんねえ」
ナターシャの問いかけに困ったように返事をする仕草が、なんだかとてもわざとらしい。
どうしてそう思うのかはわからないが、なんとなく近付きたくない感じがする人だ。
「……そうですか」
「しかしまた、何故お二方とご一緒に?」
「わたくしが呼び付けたからですよ」
「ほほぉう。左様でございましたか。私はてっきり」
「アーブラハム。わたくしに何か言いたいことがあって?」
「いえ、いえ。滅相もございません!では私はこれにて失礼を」
御者から渡された荷物をそそくさと受け取って、アーブラハムと呼ばれた男が去って行く。
「母上、まだあの男を執事として扱っているのですか」
「シルヴィオ。口は慎みなさい。」
御者やメイドに聞こえないようにか、潜めた声で話す二人を眺めていると突然遠くから慌てた声が駆け寄ってくる。
「ジュリア様!?いつ城を出られたのですか、昼食をご用意しても一向に返事もなく、堪り兼ねて戸を開けば姿もなく!」
「ブルーナ、」
「ブルーナは心配で心配で、……あら、まあ。ナターシャ様、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
畳み掛けるように話すブルーナが、ナターシャの顔を見るなりしゅんと縮こまる。
「良いのですよ、ブルーナ。……ジュリア様。こんなにもブルーナに好かれているのですね」
ナターシャが楽しげに笑ってそう言うと、居心地の悪そうなブルーナが慌てて首を振る。
「まあ、まあ!ナターシャ様、そういうわけでは」
「ふふ。懐かしいわ。……さ、ブルーナの雷が落ちる前にわたくしは失礼します。ジュリア様、ご機嫌よう」
「え、ええ。ナターシャ様、ご機嫌よう……」
呆気に取られながら挨拶を返す私の横で、なんとももどかしそうな顔でブルーナがナターシャを見送る。
リータとシルヴィオが同世代なら、もしかするとブルーナとナターシャも同世代で、昔に何かあったのかもしれない。
そうだ、お茶をする時にでもナターシャに聞いてみよう、とちょうどいい話題を見つけて思わず笑ってしまった私を見て、ブルーナが怒りの滲んだ笑顔を浮かべた。
「さあさ、お話を聞かせていただきますよ。ジュリア様、シルヴィオ様?」
ナターシャが上手く言ってくれるって言ってたのに、というのを思い出して、シルヴィオと二人で顔を見合わせて苦笑する。
その晩は結局、ブルーナのお叱りとそれをなだめるようでいて、しっかりと釘を刺すロベルトとの話し合いで大半を終えてしまった。
食事の後にも追加でお叱りを受けながら、ブルーナとロベルトの二人にも、今日会ったことを順序だてて話していく。
「……まあ、そんなことが」
「お待ちください。アーブラハムは何故誤魔化したのでしょう。……今尚、馬車は帰っていないというのに」
珍しく難しい顔をしたロベルトが、独り言のように低く呟いた。
「なに?」
「祝祭における馬車の装飾について話をしに行った折、二台の馬車が無い状態でして。一台はナターシャ様のものでございます」
もう一台は、と言いかけたところで、談話室の扉が叩かれた。
「失礼いたします、こちらにシルヴィオ様はいらっしゃいますか」
扉の外から聞こえたのは、なんだか聞いたことのあるような気がする声だった。
「いらっしゃいますよ。何用です」
ロベルトが遮音を解除すると共にブルーナが扉の近くへ行って答えると、少し咳き込むような音の後で、その声が言う。
「申し訳ありません、レオです。急ぎ、伝えたいことがございまして」
「レオ……?どうした、」
シルヴィオが頷いてブルーナが扉を開けると、レオはそのまま崩れるようにして床に倒れ込んだ。
「な……っ!」
「シルヴィオ、様。あの方は、今」
お腹を抑えて咳き込みながら、懸命に何かを伝えようと口を動かす。
ざっと駆け寄って、呼吸が楽になるように頭を抱え上げたシルヴィオが首を振る。
「……レオ、急ぐな。無理をしなくていい」