花姫修行
『記憶を取り戻せたら、アナタはどっちの世界を選ぶ?』
私は、私は……?
そこで、はっと目が覚めた。
天蓋から垂れた布の隙間からは薄明かりが差し込んでいる。
「夢……夢、そう、さっきのは夢か」
ふぅ、と少しだけ溜息を吐き出して、自分の顔を触ってみる。
ブルーナのおかげで寝起きでもツルツルもっちり肌だ。
「……こっちは夢じゃない、夢じゃないんだ」
ぽつりと呟いて、記憶を失っている実感のなさに驚く。この世界に来たことを自覚してから、まだたったの一日しか経っていないのに。
「ジュリア様……?お目覚めでございますか?」
考えに沈みそうになったところで天蓋の向こうからブルーナの声が聞こえた。
「あ、はい、」
慌てて起き上がり周囲をかき分けて開けようとするも、弛んだ布は中々開けられない。
私が暗がりで健闘するよりも早く、外側から布が引かれた。
眩しさに目を細めた視界に、少し怒っていそうなブルーナの顔が見える。
「おはよう、ございます……ブルーナ」
「ええ、おはようございますわ。ジュリア様、こういう時は鈴をお使いくださいませ。」
恐る恐る挨拶をすると、布地を綺麗に纏めたブルーナが笑う。ちょっと圧力は強めだけど。
「……そういえば。」
「それを鳴らしていただければすぐに参りますのに。」
「ごめんなさい、でもこれで覚えました」
謝りながらベッドの脇に移動した私に、簡単な木靴を履かせてくれる。
「さ、これから忙しくなります。簡単な朝食をご用意いたしましたので、こちらでお召し上がりくださいませ。」
いい香りに誘われて、ブルーナが用意してくれた席に着く。テーブルの上には数種類のパンと果物らしきものが並んでいた。
「いただきます」
取り分けてくれたものを一通り口へ運ぶ。
どのパンを食べても焼き立ての香りが鼻を抜けて、程よい塩気で満たされていく。
私にとっての未知の果物も、どれも瑞々しくて美味しかった。
「……ごちそうさまでした」
食後にブルーナが淹れてくれたお茶を飲むと、やはりほのかに甘い。
その甘さが夢で会った小人を思い出させて、少し楽しくなった。
「……やはり。」
「え?」
「ジュリア様のお食事の仕方に関してなのですけれど」
「あ……」
しまった!また味わうことに夢中で、食べ方なんて考えてもいなかった。
恐る恐る、後ろに控えていたブルーナの顔を見る。
「……食事に関しては言うことがありませんわね。元々お勉強されていたのかしら?」
叱られると思ったその顔は、予想に反してとても良い笑顔だった。ちょっと拍子抜けなくらい。
「さ。次はお召し替えです。」
私が何をいう間も無く、そう宣言したブルーナにサクサクと手入れをされて、昨日とはまた違った趣のある淡い色のドレスが着せられた。
「まあ、まあ。よくお似合いでございますわ。」
昨日との違いといえば綺麗に纏められた髪が顔の横に流れていて、いくつかの花と一緒に編み込まれている。
「……相変わらず良いお仕事です」
「ありがとうございます。次は所作と言葉遣いですわね。」
うふふ。と大変優雅な動きで笑ったブルーナがとても楽しそうで、今の私は貼り付けた笑顔を引攣らせないようにするのだけで精一杯だった。
それからブルーナと所作の練習を続けるというもの、どれくらいの時間が経っただろうか。
「……ジュリア様はとても飲み込みが早くていらっしゃいますね、ブルーナめも教え甲斐があるというもの。」
「そう、でしょうか?……でしたらそれはきっと、ブルーナの教え方が上手なのです」
ふふ、と口を抑えて笑うのが自分でも少し様になってきた気がする頃、不意に部屋の扉が叩かれた。
「あら?」
ブルーナと顔を見合わせていると、扉の外からロベルトの声が聞こえる。
「失礼をいたします。シルヴィオ様より、公務がちょうど片付いたので一緒に昼食はどうか、とのお誘いでございます。」
「あら、まあ。」
楽しそうなブルーナに促されるまま、シルヴィオと昼食を共にして、また勉強に戻る。
その後も時折休憩をして、公務が忙しいのかシルヴィオと会うことも少なく、ひたすら勉強に勉強を重ねて数日が経った。
暗い天蓋の中で、ブルーナの声を聞く。
「……ジュリア様、お目覚めでございますか?」
気付けばあの日以来、フィルと顔を合わせていない。夢の中でも。
シルヴィオも公務に追われているし、祝祭の前が忙しいというのは本当らしい。
ふぅ、と息を吐いて、金属の花束を手に取った。
蕾が鈴になっていて、小さく振ると軽やかな音色を奏でてくれる。
それを合図に、ベッドを覆う布が開かれた。
「失礼いたしますわ。おはようございます、ジュリア様」
眩しさに目を細めることもなく、緩く纏められた髪を気にかけながら微笑む。
「ええ、おはようございます。ブルーナ」
私がベッドの隅へと移動しても、一向に動かないブルーナにゆったりと首を傾げる。
「ブルーナ?」
「も……申し訳ありません、その……一段とお美しくなられたような気がいたしますわ」
ハッとしたブルーナが慌てて靴を履かせてくれた。
咄嗟に、ええそんなまさかあ、と口に出したいところを抑えに抑えて小さく笑う。
「ふふ。ブルーナのおかげですわね」
この数日でお嬢様のコツは我慢だと学んだ私に死角はない!たぶん。きっと、おそらく。
朝食を済ませて、着替えを終える。今日の髪型はアップスタイルで、可愛らしい小花が編み込まれている。
「本日はご衣装の仕立ての予定が入っております。……リータも立ち会わせて本当によろしいのですか?」
「ええ、もちろんです。……ブルーナの目から見て、わたくしは理想の花姫に近付けたのかしら」
鏡越しに問うと、少し考えたブルーナが複雑そうに笑った。
「少しさみしい気もいたしますけれど……所作も振る舞いも、このたった数日で本当に素晴らしいものとなりましたわ。」
「ではリータに会っても?」
「ええ、ええ。きっとあの子は誠心誠意お仕えすることでしょう。」
「……そう。」
私に少女漫画や映画の知識があって本当に良かったー!と思うことばかりの数日だったけど、今はブルーナに認められたことが何より嬉しい。
架空の令嬢よ、ほんとに本当にありがとう!
リータを迎えに扉へ向かったブルーナへ、そっと声をかける。
「ねえブルーナ。」
彼女が振り向く前に、ゆったり腰を落として淑女の礼を一つ。
「……ありがとう。」
敢えて初めて礼をした時のようににっこり笑うと、その意図を悟ったブルーナが少しだけ目を潤ませて笑った。
「……あら、まあ。」
「うふふ。」