夢
……夢を、見た。
それはとても長く、永遠のようにすら想える夢で。
自らの生まれを辿って、ずうっと遠く繋がる縁を手繰り寄せるような。
私が居て、お父さんとお母さんが居て。
お母さんのお母さんが居て。
脈々と受け継がれる血を遡り、遥か遠く生きた軌跡を辿る、記憶。
……それはきっと、走馬燈のような。
こんな夢を、ずっと昔にも見た気がする。
……そう、確かあれは、私がまだ幼い頃のことだった。
高熱を出して、熱に浮かされて。
見えるものも朦朧として。
夢と現実の判別も、つかなくなるような……
私が具体的な記憶を思い出したことで目に見える景色はすぐに移り変わり、布団に包まれて酷くうなされる少女を見下ろす形になった。
……そうだ、私はこの時、あの夢を見たんだ。
咲きほこる花々はどこまでも美しく、舞い散る花びらはとても幻想的で。
そんな綺麗な世界で、あなたと……ーー
『花の色はうつりにけりな……』
不意に誰かの詠う声が聴こえて、うつらうつら、微睡みのように世界が揺れる。
『いたづらに……』
……おかしいな。
私は、たしか。
『……わが身世にふる』
今まさに、夢を見ているのでは無かったか。
『ながめせしまに……』
そう、ちょうど、この歌のように。
過ぎてしまった時を惜しんで、懐かしむような。
ーーああ、
私は今。
今、何をしているんだっけ。
『樹里』
再び拓けた真白な世界で、透き通るような女性の声が、私を呼ぶ。
聞き違いでなければ、この声には聞き覚えがある、筈だ。
『ああ、やっと気が付きましたね。』
ーー……?
恐る恐る世界を探ると、ぼんやりとした光が誰かを形作った。
『まずはありがとう。樹里。私とフィルの愛しい血を継ぐ子。』
やがて明確に人の形へと変わった光は、美しく歳を重ねた女性の姿をしていた。
……この姿には覚えがある。
それは他でもなく、フィルが象っていた初代の花姫様の姿だ。と、いうことは。
ーーあなたは、もしかして。
そう言いたいのに、声にはならない。
けれど、まるで全てが聞こえているかのように、その女性は笑った。
『そう。あなたの思った通りよ。現代では小野小町なんて呼ばれているのでしょう?』
ーーそう、そうです。
『うふふ。通り名が本名よりも有名だなんておかしな話よね』
そう笑った女性が、白く透ける手のひらを見た。
……この人が、長年焦がれ続けた、私の遠い、遠いおばあちゃん。きっと、さっき見た長い長い走馬燈の、はじめの人。
ーーあの、フィルと貴女の血を継ぐって、
『あら。やっぱり覚えていないのね。貴女があの世界にゆく時にも、説明はしたのだけれど』
ーー説明?
『そうよ。貴女は一度しっかりと死後の世界を視ているから混線しちゃったのかしら』
ーー死後の、世界?
『ええ。覚えはない?そこは花々の色彩がとても豊かなところでね。咲きほこる花がうつろうことすらも、本当に尊く美しい世界なのだけれど』
美しく、色彩豊かに咲きほこる花々。
私はそれを、その世界を確かに知っている。
……けれど。
ーーあの夢が、死後の世界?
『やっぱり。実感はないのね』
実感。夢に実感なんてものがあるはずはない、けれど。
幼い私は確かに熱に浮かされていたのだし、……もしかして、もしかすると。あの時生死を彷徨っていたとしても、おかしくは無いのかもしれない。
それに漫画なんかでも、頭を打った人が花畑が見えるーーなんて言う表現があったりするもんね。
……ということは、あの人も?
ううん。でも、それじゃあ、何故。
何故、今の私は、其処に居ないのだろう。
どこまでも真白な世界を見渡しても、形を成しているのはただ一人だけだ。
……ひょっとすると死後の世界ってやつにも色々あるのかもしれない。日本でいうところの、天国や地獄、みたいな。
『ふふ。此処には天国も地獄も無いわよ。それこそ概念を一から作り上げて、その考えを浸透させた人が増えれば別かもしれないけれど、ね』
ーーうう、難しいですね。
『生きるってそういうものでしょう?いろんなことが難しいから面白いのよ、きっと』
ーーなるほど、たしかに。……じゃあとにかく此処は、死後の世界では無いんですね。
『ええ、もちろん違うわ。此処は概念の世界。実態が在るようで無く、無いようで在る。謂わば生きとし生ける者全てが見る、夢のようなものよ』
ーー夢?
『そう、命の花が咲く死後の世界が全ての命の生まれ故郷とするなら、此処は精霊の最初の生まれ故郷なのよ』
ーー命の花?最初の生まれ故郷?
『ごめんなさい、混乱させちゃったわね。貴女が見た死後の世界……あの花畑に咲く花は全て、誰かの生きた証なの。』
言いながら女性が何もない空間に手をかざすと、どこからかぼんやりとした光が集まって一つの花を形作った。
『全ての生は一生をかけて色々な出会いや経験を重ね、その最後には各々に違う花を咲かせるの。……そうして咲いた花がまた実をつけて、種が落ちた時、世界に新しい命が生まれるのよ』
彼女の言葉に合わせて光の花が崩れ、種子へと形を変えた。
ーー……。
『全ての命は花から生まれ、花に還る。皆、はじまりは愛を持って様々な世界へと生まれ落ちるのだけれど、精霊だけは違ったの。』
ーー……え?
『こうあったらいい、こうなればいい。そんな善なる想いから生まれるもの。……それが、あの世界で最初に精霊と呼ばれた者達なの』
ーーえ?あれ?……で、でも、フィルやアリーチャさんが家族は居るって……
『樹里。もう一度ゆっくり、辺りを見回してみて。』
促されるままゆっくりと真白な世界を見回すと、徐々に光が何かを形作っていくのがわかる。
ーー!?
『驚かないで。ここは概念の世界。……貴女が生まれた世界にもあったでしょう?『それ』は長く茂った草木に宿る尊い気配を、神と呼ぶようなもの』
女性が話す間にも、光は順調に四つの人らしきものを形作った。
『フィルの眷属である春……そして順に夏と秋と冬。命を繋ぐのに大事な役目を持った精霊は、生ある者ではなく概念として、今も昔も、ずっと此処に居るのよ』
女性がそう言えば、まばゆい光の中で四人が笑ったように見えた。
『花から生まれ落ちた命のうちで、彼らには様々な名が付けられたけれど……』
ーーそれって、たしか……プリマヴェーラ、ヴェルーノ、ハーヴェスト、イヴェール?
私がふとフィレーネ王国で読んだ本の内容を思い出すと、四つの光は本に描かれていた絵と瓜二つの人の姿へと変わっていった。
ーー!
『花姫様の子孫にお会いできるなんて光栄ですわ』
『ああ、そうだ娘っ子。あのてるてる坊主とか言うやつ、俺は気に入ったぞ!』
『もう。ヴェルーノ!今はそんな話をしている場合ではないでしょう』
『そうだぞ。……今は、花姫が大切な話をしているだろう』
口々に四季の精霊が口を開いて、そのことに思わず呆気に取られていると、女性が肩を竦めて笑った。
『この通りよ。……此処は、命が育んだ想いによって生まれた場所。咲きほこる花々が生まれながらに思い描いた、夢の世界。』
花の、……夢。
……あれ?
何か、誰かが、そう訳していたような。
ーー……そうだ。フィレーネレーヴ。
『そう。フィルの名前とおんなじだなって思ったでしょう?……彼はね。世界から託された、全ての命の見届け人なの。命が一生をかけて咲かせた、花の行方を見届ける者。そうして、世界を渡ることを許され、彼と結ばれた私は、花姫として……今日までの全てをここで見守ってきた。』
ーーここで?
『ええ。ここでなければ駄目だったのよ。フィルの作ってくれた離れもここと性質は似ているけれど……生と死の世界の狭間にあるこの場所でなければ、見失っちゃいそうだったから』
ーー見失う?
『そう、貴女のことを。』
ーー私を、
『……千里眼とでもいうのかしら。お腹にフィルの子を宿した時、幾千年先の……今の世が見えたの。同じく花から生まれたはずの者同士が争って、夢を破り、お互いの血に溺れる。……それはそれは、酷い世界だった』
ーー……。
『だからこそ、生まれてきた男の子と、想いを込めた花石をあの世界に残して……そうして、私とフィルの血を継ぐ女の子を、……私の元いた世界で育てて、花姫という存在を意図して受け継がせることで、私はそれぞれの世界の均衡を図ろうとしたの』
ーー男の子と、女の子?あれ、でもフィルは確か……
『これはフィルも知らないことだけれど……お腹に宿った子はね、生まれる日を違えた双子だったの。男の子はフィルに、女の子は私に、……よく似ていたわ。』
そう言った女性の顔が今にも泣きそうな笑顔で、ほんのりと胸を締め付けられる思いがした。
……そっか、だから私、精霊避けの呪いも効いちゃったのか。
ーーでも、花姫様って、一体
『花姫っていうのは、簡単に言うと彼方と此方を繋ぐ役割を持っているのよ。』
ーー彼方と、此方?
『死後の世界と、皆が生きるそれぞれの世界。それらは全て鏡写しのようでいて、けれども本来は決して交わらないもので……不本意に多くの血が流れぬように、生ける者の多くがその魂の望む花を咲きほこらせる事が出来るように。時には助け、時には導き、時には身を呈しても。調和を保つよう世界に望まれた存在が、『花姫様』なの』
ーーそれじゃあ、もしかして他の世界にも?
『とても全てを理解することは叶わないけれど、きっと居るはずよ。世界は誰かが夢を見る分だけあるのだもの』
……夢を、見る分だけ。
夢、夢かあ。
あの世界に行ってからというもの、現実とはまるで違って、目に見た全てが夢のような出来事だったけれど。
あの人と出会ったのは、あの人と出会ったあの場所は、本当に夢ではなかったんだよね。
……あの人、あの人?
ーーあ!そうだ、私、浄化の力を使って……
はっと顔を上げると、女性が応えるように頷いた。
『花が選び、夢の力を纏う舟が運び、世界は歓迎の鐘を鳴らした。……そうして溜まった膿を洗い流す為、呪いを受けてしまった貴女は……今、まさしく世界に望まれた存在になろうとしているの』
ーーそれって、
『身を呈しての調和を……強要されていると言っても過言では無いわ。ーーでも、決してそんなことはさせません!』
ーー?!
『危機が迫る度、彼らの協力の元で私は花姫の力を受け継いだ子孫へ呼びかけてきたの。必ず、役目を果たした子孫皆が……世界でなく、正しく自分の意思で生きる世界を選べるように。……そうして、今貴女が思い浮かべた事柄こそが、私の視た最後の危機なのです。……だから、その体を少し私に貸して頂戴?』
ーーえ、ええと、貸すって、どうすれば……
頭の痛くなるような難しい情報の積み重ねの中で、ふと、前にもこんなことがあったなあと思い出した。
あれは、確か、フィルと初めて会った時のーー
ーーいや、そうですよ!花姫様は花姫様として、一緒には行けないんですか!?
『えっ?ええ、と……私はもう、遠く肉体も果てて、概念だけの存在だから……』
ーーどうにかならないんでしょうか!?だって、フィルはずっと貴女のことを……
『し、知ってますよ、それは……私だって』
ふいっと顔を逸らした女性に、ずっと黙って状況を見ていた精霊達が笑い出した。
『花の色はうつりにけりないたずらに、我が身世にふるながめせしまに、か?』
イヴェールが淡々とそう言えば、楽しそうなプリマヴェーラがぽんと顔を逸らした女性の肩を叩いた。
『うふふ、花姫様ったらずうっと難しい話ばかりして。……フィレーネに会いたくて戻ってきたは良いけれど、もうこんな姿になっちゃったって言って、恥ずかしがってずっと会えていないのよ。』
『ち、違』
『フィレーネはそんなことを気に留める奴じゃないと言っているのだがな。』
一つ息を吐いたイヴェールへ、ヴェルーノがからかうように笑う。
『いやあ、案外時を待ってたのかも知れないぜ?』
『違、違います!』
『違わんだろうよ。あれだけ想い続けてたんだ。会いたくない方がおかしいってもんだろ?それにほら、他人のロマンスには興味津々で、今回だって運命の王子が来るまで娘っ子の舟を揺らし続けろって言ったくらいだしな』
『……ちょっとヴェルーノ、乙女の秘密を話すのは関心しませんよ』
尚もわいわいと話す精霊達の会話の中で、揺れ続ける小舟と温かく柔らかい手の感触を思い出す。
ーーそうだ、あの人は!?
声を上げたつもりが無くても、まるで私の声が響き渡ったように精霊達の会話が止んで、少し頰を赤らめた花姫様がコホンと一つ咳払いをした。
『……話が逸れてしまいましたね。大丈夫、今ならまだ間に合います。彼の命は花に還っていません』
ーーそれじゃあ、
『だから、貴女の体をーー』
ーー早く、一緒に行きましょう!花姫様!
勢いに任せて、はしっと花姫様の手を掴むと、そこからぶわりと光の花びらが舞った。
ーー大切な人を想ってここへ来たっていうのも、きっと何かの縁ってやつですよ!私たち!
『え?え、ちょっと、』
『お、いいねえ!俺は応援するぞ!』
ニッと笑ったヴェルーノが、風を呼ぶと同時に花びらの一部が緑色に染まる。
『……そうね。楽しかったわ、花姫様。貴女も、貴女が生きたい世界を選択なさい』
ハーヴェストが手を振ると、一部の花びらが赤色に染まった。
『我々はずっと、愛の元に。誰かがこうあってほしいと望み続ける限り此処にいる。花姫、お前もお前の愛する者の元へと還るがいい』
そう言ったイヴェールが手のひらをかざせば、途端に一部の花びらが青色に染まる。
『これは我々からの祝福だ。』
『……もう、みんな強引だわ。』
『うふふ。皆貴女のことが好きなのですわ。もちろん、花姫様の子孫である貴女のこともね。』
むすっとした花姫様と対照的に、にっこりと笑ったプリマヴェーラがふっと息を吹いた。すぐさま花びらの一部が黄色に染まって、色とりどりの花びらが私と花姫様を取り囲んだ。
……真白な世界で見る花びらは、眩しいほどに美しくて。
『……我らが花姫様に新しい芽吹きを。我らが花姫様に正しい導きを。離れた絆を、再び結び給え……ーー』
ぶわりと膨れ上がった花びらが、真白な世界をどんどん満たしていく。
『ねえ、樹里。……フィレーネレーヴはまごうことなく、想いの力で、愛の力なの。確かに私たちの力を合わせれば全てを浄化して、貴方の想い人をも助けられるでしょう。……けれど、この世界をまるごと貴方と私の愛で包んでしまったら、もう世界を渡れないかもしれません。愛に満たされた世界は、境界が濃くなってしまうから。』
ーー境界が、濃くなる。
『全てが終わって、貴女が貴女の生きたい世界を自由に選べなくなっても。……それでも、私と……』
前が見えないほどの花吹雪の中で、言い淀む花姫様。
まだ間に合う、と私の手を引いて俯く顔は、フィルの悲しげな顔とよく似ている。
……最後の危機とか世界とか、精霊とか命とか。難しいことは正直よくわからない。
……けれど、ただ。
ただやっぱり、あの人には生きていてほしい。
そう、思ってしまったのだ。
ごめん、お父さんお母さん。
ーー行きましょう!
花姫様の両手を取った私が頷くが早いか、温かな風に勢いよく背を押された。そのままくるっと世界が反転して、花びらと一緒に舞い上がっていく。
『そうら、行ってこい!』
『ちょっとヴェルーノ!?』
そんな声が風に乗って聞こえた気もするけれど、耳を澄ませてももう何も聞こえない。確かに手を取ったはずの花姫様の姿も見えなくなってしまった。
彩り豊かな花びらに完全に視界を奪われたと思った最中……ほんの一瞬、花吹雪の中に見覚えのある花畑が見えた。
ーーあれは、あの、後ろ姿は。
「だめ、だめ、……行かないで、シルヴィオ!」
私はありったけの声で彼の名を叫んで、咲きほこる花々の中に立つシルヴィオを抱きしめた。
「樹里……?」
優しい声音が耳に届いた瞬間、先程まで在ると思っていた全ては崩れ去るように形を変えて、私の視界は再び眩い光に包まれた。