閑話休題、イグニスの地
人々の想いを乗せた花びらが青い空に舞って、それぞれの大切な人へ笑顔が向けられる。
その光景は、本当に素敵なものだった。
最初に花びらを降らせた時も、この間の祝祭でも。
……そして、今日も。
誰かの大事な人を乗せて、何隻もの船はどこまでも道なき海を進んでいく。
そうして、日も暮れた。指針となる花石があちこちで光って、月明かりに照らされた世界の所々が青い。
ほんのりとした月明かりでは遠くまでは見渡せないけれど、私たちの進む海上には、行く手を遮るものは何もない。
「おっと。もうすぐイグニスの海域だよ!」
金の瞳を輝かせて遠い海を見たアリーチャがそう宣言すると、つい先程まで船上で賑やかに食事を交えていた皆が一様に身構えるように息を呑んだ。
「想定よりずっと早いな」
アルヴェツィオが難しい顔をして辺りを見回すと、隣の船に立ったアリーチャが得意げに笑った。
「当然さ。アタシのお手製の船だもの。……ま、そう身構えずともあっちの船は全部目的の位置に居るよ。」
アリーチャが言った通り、今のところは目立った船影もなく、見渡せる範囲の海もとても穏やかだった。
目に見えるような境の無いそこに明らかな境を作って、私たちは自分の大事なものや守るべきものを守る。……では、精霊も人も、ただ自分の欲の為に利用し続けたかの王は、ヴァルデマールとは一体何なのだろうか。
かつては人を愛し、愛する王妃様と共に在った王。
その最愛の王妃様を失い、更には愛をも失った人の王。……或いは、人ならざる、人の皮を被った化け物。
……あらかじめ与えられた寿命を超えて長く生きることがどんなものかなんて、たった二十年余りしか生きたことのない私には、どうしたってわかりっこないことだ。
ーーでも、それでも。
かの王は間違ったことをしている。人として、愛を持って産まれた筈の生き物として。……それだけは、私にだってわかることだ。
静かな月夜に船の壁を打つ波の音が広がって、舵を回す木の音が響いた。
「さ、それじゃあアタシ達はここでお別れだ」
そう言ってさっぱりと笑ったアリーチャに、いつものごとく怖い顔をしたアルヴェツィオがゆっくりと頷いた。
「ああ、アリーチャ。気をつけてな。」
「それはこっちの台詞ってもんだよ、アルヴェツィオ様!……ま、フィルも付いてるしそう心配はしてないけどね」
「あら。アタシのことを買ってくれてるのねえ」
「今更何を言ってんだい、我が兄弟殿は」
「うふ。ジョーダンよぉ。もう、アナタ一人の勝手じゃないんだから、……無事でね。」
軽い口調で交わされるフィルとの会話に、アリーチャが楽しそうに笑う。
「ふふ。誰に向かって言ってるんだか。……そ、れ、に。一人じゃないから心強いってもんだろ?」
「!……それもそうね」
フィルとニッと笑い合って、アリーチャの視線が順番に移る。
「エドアルド様、エミリア、ジャン。……昔に比べて良い面構えになったじゃないか。国の未来は次の世代を担うアンタ達にかかってるんだからね。よく、助け合うんだよ」
名指しされた三人が揃って頷いたのを見て、アリーチャもまた満足げに頷いた。
その光景をどうしても微笑ましく思って見ていると、月の光を受けて一層輝く金の瞳と目が合った。
「……ジュリア様。これといって言うことも無いかなあとは思うんだけど、思うんだけどねえ。って……もう、そんな顔しないの。……貴女は、貴女よ。貴女のありのままに救われた人が大勢いる。だから、人の想いだとか王様みたいな大層なこと、考えすぎないようにね」
優しく笑うアリーチャに図星を突かれて、私は思わずハッとした。
確かにもうずっと、目に見えた人の全てを汲もうとして、その人達の想いを考えてばかりだった。
「人の根底なんて好きなら好き、嫌いなら嫌いで良いのよ。想いってのはそういうもんでしょ?本当に大事なのはその違いをどう尊重してわかり合うかだもの。後のことは後に考えなさい。……シルヴィオ様のこともね!」
言いながらにやりと笑ったアリーチャに、ふっと胸の軽くなる思いがした。そうして離れ始めた船に向かって慌てて叫ぶ。
「ーーはい!……アリーチャ様!わたくしは、わたくしは貴女が好きです!貴女のお子さんもきっと!だから、だからどうかご無事で!無理せず、……お体を第一に考えてくださいませ!」
私がわっと叫んだ言葉に、アリーチャからは高らかな笑い声が返ってきた。
「そりゃどーも!そんなに心配せずとも、海はアタシの故郷みたいなもんさ。それに、アタシにはとっておきの友達がいるからね!」
だから大丈夫!と笑うアリーチャに、私もつられて笑いを返す。……好きなら好き、嫌いなら嫌い、か。
「んじゃ行くよ!……っと、そうだシルヴィオ様、……あら?おーい!シルヴィオ様、シルヴィオ様ったら!」
舵取りへの合図を止めて、一向に反応の返ってこないシルヴィオを見てアリーチャが苦笑を浮かべた。
……うん?珍しいな、何か考え事かな。
私は首を傾げつつ、ゆっくりとシルヴィオへ視線を移した。
海風がシルヴィオの透けるような銀の髪を揺らして、そうして、月光を宿す青い瞳と意外にも目が合ってしまって、私は思わず息を呑んだ。
どうして返事をしなかったのかとか、どうしてこっちを見てたかだなんて、そんなのもう、どうでも良くて。
ただ、見惚れてしまった。
ーーああ。やっぱり、なんて綺麗な人なんだろう。この人のこと、……好き、だなあ。
予想外に見つめ合った一瞬が永遠にも感じられて、ほんのりと胸が温かかくなる。その温もりに目を細めると、同時にシルヴィオが我に返った様子でアリーチャを見た。
「!アリーチャ様」
「ジュリア様のこと、精霊達のこと、よろしく頼んだよ!」
「は、……アリーチャ様もどうかご無事で!」
シルヴィオが声を張れば、もう遠く離れ始めた船から少し呆れたように笑うアリーチャがひらりと手を振った。
静かな波の音がどこまでも響いて、月の光に照らされるだけの海上ではすぐにその船の姿も見えなくなってしまった。
……この温かな想いを、貴方にどうやって伝えよう。
ほう、と一つ溜息を吐いて、シルヴィオの姿を探す。
想定より早く上陸するだろう明日に備えて皆が自室へと戻っていく中で、その流れに反するようなシルヴィオの背中が在った。
立ち止まって声をかけようかと迷ったところで、ちょうど私の背が誰かに柔らかく押された。
「ジュリア様、どうか今はお二人に!」
極力潜められた声はエミリアのもので、促した視線の先にはうろうろと迷い歩きながらぎこちなく声をかけるエドアルドの姿があった。
「……なるほど、わかりました。ご兄弟の邪魔をするものではありませんね」
ふと笑ってそう言えば、エミリアが夜空と同じ色の瞳をぱっと輝かせた。
「はい!その……それと、その、改めてありがとう、ございました」
ぺこっと頭を下げたエミリアに、少しばかりからかうような笑みを浮かべたジャンが首を傾げた。
「お礼を言うのはまだ早いでしょ、エミリア。大事なのはこれからだよ」
「む。わかっているわ、ジャン」
「なら良いけど。……じゃ、僕も男同士の話に混ざってこようか、」
「ジャン!」
「ジャン?」
「な……」
ふらりと兄弟の元へ行こうとしたジャンを同じタイミングで揃って制して、エミリアと顔を見合わせて思わず笑い合ってしまった。
……きっと、大事なのはこういうことだ。
目に見える体格や格好、性別に、生まれ持った身分。育った環境や性格に違いこそあれど、それでも本当に何気ないことで共感して笑い合えるということ。
違いがあるからこそ、もう出会った誰かや新しく出会う誰かとその都度よく話し合って、分かち合って、優しく手を取り合えるということ。
きっとそれは、人や、愛を持つ生き物に等しく大事なこと。
「ふう。……さ。明日の為にもう寝ちゃいましょうか!」
エミリアと笑ったおかげで、すっと軽くなった胸に少しの伸びをして、二人をささっと促して私は自室へと戻った。
翌朝目が覚めて、早々にイグニスの地が見えたという報告があった。皆が慌ただしく諸々の準備を始めたところで、私は固く身構えたエミリアと向き合うことになった。
「ほ、本当にジュリア様が……?」
最低限の肌着に身を包んだエミリアに、飾りの豊富な緑のドレスを掲げてにっこり笑って見せる。
「ええ、勿論でございますわ。どうかわたくしのことはジュリエッタとお呼びくださいませね」
今にも悲鳴を上げそうなエミリアをブルーナ仕込みの技術で飾り立てて、一メイドに扮した私はその隣に立った。
そうして、イグニスの地を見据えた船上には錚々たる顔ぶれが揃った。
エミリアが飾り立てたアドリエンヌ、もといエドアルドの女装はどこからどう見ても完璧で、ベールを被った姿はもう正確に判別がつかない程だ。
ジャンもその髪を銀色に染めていて、服装も祝祭の時と同じような緑を基調とした正装をしている。
着飾った二人が、同じく着飾ったエミリアを見て息を呑んだ。……へへん、どんなもんよ!
元が美人なのは勿論だけど、ブルーナ仕込みの技術も手伝いに手伝って、今のエミリアはどこのお姫様にも引けを取らない。筈だ。
すっかり得意になっていると、不意に感心したようなシルヴィオの声が私の後ろから降った。
「見事だな」
はっとしてそちらを振り返ると、ロベルトと同じ燕尾服に身を包んで、緑に染めた髪を綺麗に撫で付けたシルヴィオが立っていて、私を見るなり優しく笑った。
「さすがはブルーナ。」
「な、それを褒めるならわたくしでしょう?」
確かにブルーナは凄いですけどね、と唇を尖らせた私に、尚も笑うシルヴィオが執事然とした礼をして見せた。
「これは失礼を。」
「……もう。」
皆で笑い合っていると、シルヴィオと同じく燕尾服に身を包んだアーブラハムが一同を見て驚きの声を上げた。
「こ、これはすごい!こんなにも皆様が化けられるとは……これならば本当に、」
「ああ。きっと上手くいくだろう。……皆、手筈通りにやるぞ」
感動に震えたようなアーブラハムの肩にとんと手を置いて、アルヴェツィオがイグニスの地を見て強く頷いた。
やがて港へ着くと、賑やかな街の風景の中でかしこまった様子の兵達が深々と礼をした。
「ようこそ、フィレーネ王国国王、アルヴェツィオ様。お待ち申し上げておりました」
やっと辿り着いたイグニスの地は、これから海戦をしようという国だとは思えないほど、街並みがよく調えられていて、物騒なものは何一つない。
街を行き交う人々の顔にもさして緊張している様子はなく、……まるで、街全体が海戦のことなんて微塵も知らないような……。
底知れない違和感に首を傾げていると、招待状を携えたアルヴェツィオを筆頭に用意された馬車へ乗り込むよう促された。
アルヴェツィオとエドアルド、エミリアとジャンの四人が同じ馬車に乗り込み、私とシルヴィオ、そして目を閉ざしたフィルが同じ馬車に乗ることになった。
後ろへ続く衛兵達と警戒をしながら進むも、お城へ向かうその道中にも沢山の人が行き交って、所々に湯気が立っているのもわかった。……そういえばイグニスには温泉があるって言ってたっけ。
「……妙ねえ」
目を閉ざしていたフィルがちらりと外を見回して、怪訝そうにしながら再び目を閉じた。
……確かに、妙といえば妙だ。妙過ぎる。もっと物々しい雰囲気での上陸だと思い込んでいただけに、思わず少し拍子抜けしてしまったくらいには。
「フィル……」
その真意をフィルに問いかけようとしたところで、隣に座っていたシルヴィオがゆるりと首を振った。そうして、花石があるだろう胸の上でバツ印をつくる。
「……私達は控えている身。口は慎みましょう、ジュリエッタ。」
フィレーネレーヴを使えない今、下手に話をすれば全て筒抜けになってしまうぞ、と暗に言っているのか、難しい顔のシルヴィオが高く聳え立つ城を睨んだ。
「……失礼をいたしました」
装った身分に甘んじて非礼を詫びながら外を見ると、港に着く前は晴れていた筈の空も、少しずつ陰りを見せていた。
ーーいよいよ、本当にいよいよだ。
深く息を吸い込んだ私を乗せて、馬車の列は順調にお城へと向かっていく。……順調、過ぎるほどに。