閑話、とある婦人の違和感
ーーわたくしは、愛していたのか、それとも愛されていたのか。
……わからない。
ーーわたくしは、憎んでいたのか、それとも憎まれていたのか。
……きっと、そのどちらも。
暖かい潮風に瞬きをして、目深に被ったマントから窺えるわずかな世界を覗く。
フィレーネからイグニスへと戻る人々を乗せた船の底で、透き通って揺れる水面が強い日差しを反射させていた。……船上から見える青、青。陸はまだ見えず、景色はどこまでも青く。
わたくしは昔から、燃えるような赤や炎の色が好きだった。……どうして好きだったのかはもう思い出せないけれど。
「いやあいい天気ですねえ。海は平和、平和だ。この平和が続くといいんですが……ご婦人はイグニスへ何をしに?」
「……ええ、そうね。わたくしは……」
船員が何気なく話しかけてきたのを怪訝に思う反面、普段ならば返事もしないものを、不思議と言葉を交わそうと思ったのは、きっと周りを嫌いな青に囲まれているせいだ。
「……長く離れた故郷に帰るだけよ。」
「そうですか。じゃあきっと驚かれるでしょう……と、失礼」
わたくしがそう言えば、船員は適当な相槌を打って離れていった。なんという事もない、世間話。……そんなものをしたのは、いつ以来だろう。
ーーわたくし、どうか、しているわ。
頭を振って、再びイグニス王国がある方向を睨む。けれども未だ景色は青く。
ーーああ、目に映る青が嫌でも思い出させる。入念に立てた計画がことごとく失敗した先の祝祭でのこと。……あれからずっと、目に焼き付くような青の光が、頭から離れない。
目を閉ざすと、その光の花びらがずっと問い続けるのだ。
『あなたが本当にしたかったことは?』
……そんなの、決まっている。
揺るがない権力を手に入れて、わたくしを蔑ろにした父を、利用した王を、わたくしを侮った全てを見返すのだ。
『あなたが本当にしたかったことは?』
……けれども、わたくしはそもそも、何のために権力を手にしようとしたのかしら。
目を閉ざして考えれば考えるほど、まるでその答えを促すように、青い光の花びらが真っ暗な視界に降り注ぐ。
ーー忌々しい。
……忌々しい、はずなのに。
わたくしのしてきた行いを振り返れと、真意を呼び起こせと、わたくしの心が叫びを上げている気がした。
『あなたが本当にしたかったことは?』
「……っうるさい!」
思わず叫んで、わたくしはハッとした。いつの間にか眠ってしまっていたのか、世間話を交わした船員が困った様子で古びた港を指した。
「も、申し訳ありません、ご婦人。ですがもうイグニスへ着きましたよ」
「…………そう。」
さっと身なりを整えて、船を降りる。フィレーネ王国から手にしてきた情報を握りしめて、わたくしはヴァルデマール様のいらっしゃるお城へと向かうことにした。
随時、呪いの力で連絡を取っていたおかげか、疲れ果てたような人間達がたむろする古びた港にはまるで不釣り合いな豪奢な造りの馬車が停まっていた。
何故ああも疲れた顔をしているのかと辺りを見回すと、不意にこちらを見た御者が声を上げた。
「……アドリエンヌ様ですね?」
「ええ。」
御者の問いに頷いて頭の部分のマントを捲れば、途端に座り込んでいた人間達がばっと顔を上げた。
「お貴族様だ!」
「どうかお恵みを!」
「観光地もないこの地はもう限界で、」
「……何を、」
「アドリエンヌ様、お早く」
怪訝に問いかけようとしたわたくしをさっと馬車に乗るよう促して、わたくしを乗せた馬車が颯爽と走り出した。
「ああ、お貴族様……!」
情けなく追い縋る声だけが辺りに響いて、城への道行きには歩く人の姿も無い。
海戦を控えているとは言え、いつも使っている港とは、景色も人も、何もかもが違う。……わたくしは本当に、イグニスの地へ帰ってきたの……?
困惑に揺れる胸を抱えて、わたくしはやっと王城へと辿り着いた。
「……戻ったか、アメルハウザーの。」
兵によって玉座のある間へ通されると、いつもの如く赤い酒を傾けた白髪混じりの男がにやりと笑った。……我が王は、こんな顔だったかしら。
違和感に燻る心を隠して、わたくしはにこりと笑って礼をして見せた。
「只今戻りました。ヴァルデマール様、わたくし、とっておきの情報を持ってまいりましたわ。……けれど、その前にお伺いしたいことが」
「ほお。その前にお前に客人が在るぞ」
「……客人?」
わたくしが首を傾げると、ヴァルデマール様が指した柱の陰からよく見知った人物が顔を出した。
「お帰り、アドリエンヌ。……もうこの地で顔を見ることは無いようにと願ってきたが、それももう叶わないか」
「お父様…!?どうしてこちらに、」
「余が呼んだのだ。此度、お前の娘が亡命をしてくるとな」
「我が王よ、感謝いたします。……さ、家に帰るぞ。」
ヴァルデマール様に一礼をして、お父様がわたくしへ向けて近付いてくる。もう長い間見る事のなかった父の顔は、昔に比べてずっと疲れているように見えた。
その表情のせいで、言い様のない不安がどっと心の奥底から押し寄せてくる、ようで。
わたくしは思わず声を荒げていた。
「ーーいや!絶対に帰りません、わたくしは……」
言いかけて、はたと口が止まった。
……あれ?そういえば、どうしてわたくし、家に帰りたくないのだったかしら?
ーーどうして、こんなにお父様を憎く思うのだったかしら……?
「アドリエンヌ。」
「っ……とにかく、帰りません!」
「はははそうか。……では我が城に留まるが良い」
言いながら重たそうな腰を持ち上げたヴァルデマール様が、よろりよろりとふらつく足取りでこちらへ向けて歩いてくる。
……それはまるで、よく年を召したお爺様のようで。
「ーーい、いえそのような、」
「アメルハウザーの娘のような美しい女ならば大歓迎だとも。さあさ、久しぶりに余と夜を明かそうではないか」
老いた男が下卑た笑みを浮かべている。……ついこの間までは、そんなことを思いもしなかったのに。
不意にぎりっと歯を食い縛った音が聴こえて、わたくしはハッと我に返った。
気が付けばヴァルデマールに腰を抱き寄せられそうになっていて、それを寸手のところでするりと身を躱して逃げた。
「……折角のお誘いですけれど、わたくし、疲れているみたいです。今日はお暇をいただきますわ、ヴァルデマール様」
なんとか笑顔を保ってそう言えば、苦しげな顔をしたお父様と目が合った。
「お父様も。もうお帰りになって。」
「……わかった。お前の寝城まで送ろう。」
「いいえ、結構で、」
「ーーお前もアレを見ただろう?……少し、話をさせてくれ。」
お父様が指すアレとは、きっとあの港のことだ。……いや、もしかするともっとたくさんの。
「ははは。親子仲睦じきことは良きことだな。アメルハウザー、お前の顔に免じて娘の無礼を許そう」
「……は。」
事もなげにそう言ったヴァルデマールへ、お父様が頭を下げた。
「わたくしの無礼……?」
「当然だ、余の誘いを断ろうなどと。アメルハウザーの娘でなければどうなっていたものかな。心しておけ、娘よ。……興が削がれた。今日はもう下がれ」
ーーなんて、冷たい目だろう。
……わたくしも、人のことなんて言えないけれど。
思わずごくりと喉を鳴らして、わたくしの横を支える父と共に、広間を後にした。
……一体、今何が起きていると言うの。数度イグニスへは戻ってきていたというのに、わたくしの見ていたイグニスとは、一体……。
久方ぶりに父と歩く廊下を照らす夕焼けの色が、何故だかわたくしの心を酷く焦がした。
こんなにもわたくしの胸を焦がすこの色は、彼の国へ置いてきたエドアルドの色?それともーー……